第七話 心に決めた方
夜叉と白夜は、鬼神族の王の前に並んで跪いていた。
結い上げた黒髪と白髪の下で、二人とも頭を垂れている。
今の鬼王は、阿黒羅という。
鬼神族の名は二文字を基本とするが、王だけは三文字を名乗ることが許されていた。
阿黒羅は玉座に深く腰を掛け、眼下の二人を見渡した。
「黒竜の討伐、ご苦労であった」
夜叉は頭を下げたまま、背を伸ばした。
「はっ。もったいないお言葉、ありがたく存じます」
阿黒羅の口元が緩む。
肘掛けに預けていた片手を、二人へ差し出した。
「褒美を取らす。何か欲しいものはないか」
夜叉は顔を上げた。
「何もございません」
差し出されていた手が止まった。
阿黒羅は眉をつり上げ、玉座から身を乗り出す。
「何もないとは、どういうことだ。褒美も与えさせず、王の名に傷をつけるつもりか!」
夜叉は床へ目を落とした。
伏せた顔に、眉間の皺が刻まれる。
――面倒くさいな、もう。だから鬼神族は……。
膝の上で指をそろえ、顔を上げた。
「では、討伐に見合う金をお願いいたします」
阿黒羅は背もたれへ身体を戻した。
「よかろう」
傍らの部下を呼び寄せ、褒美を用意するよう命じる。
部下が頭を下げると、阿黒羅は再び二人へ向き直った。
今度は夜叉と白夜の顔を順に眺め、口元に笑みを浮かべる。
「どちらか一人、わしの娘の婿とならんか?」
白夜は目を見開き、素っ頓狂な声を上げた。
「えっ?」
夜叉は白夜の隣で、改めて頭を下げた。
「申し訳ございません。私も白夜も、心に決めた方がおりますので」
夜叉の脳裏に、闇の顔が浮かんだ。
――それは本当だ。
阿黒羅は顔をしかめた。
肘掛けに置いた指が、落ち着きなく動く。
「しばらく滞在して、姫に会ってみてほしい。……それは、二人とも同じ女を愛しているということか?」
夜叉は頭を起こし、王と目を合わせた。
「そうです。私と白夜は同じ女性を愛しております。そして、姫さまにお会いしても、考えは変わりません」
白夜も背筋を伸ばした。
赤い瞳を王へ向け、夜叉の言葉に重ねる。
「私にとっても、唯一無二の方です」
阿黒羅は二人を見比べ、顎を上げた。
「では、その女を連れてこい」
夜叉の眉が寄った。
膝の上にそろえていた指に力がこもる。
「……それはできません」
阿黒羅は肘掛けに肘をつき、口元を歪めた。
「そこまで言う女とは、どのようなものか見てみたい」
二人を眺める阿黒羅の目に、好色な光が宿っていた。
その時、一人の女が夜叉と白夜のそばへ進み出た。
阿黒羅へ顔を向け、眉を寄せる。
「お父さま、黒竜を討伐してくださった方々に、そのようなことをおっしゃるのは失礼ですよ」
姫は二人へ向き直り、頭を下げた。
「父が失礼をいたしました。阿黒羅の娘、紅葉と申します」
夜叉と白夜は、顔を上げた紅葉へ目を向けた。
白と赤が鮮やかな対照をなす髪から、二本の角がのぞいている。
その顔立ちは美しく、黒い瞳が跪く二人を見つめていた。
その目は、白夜よりも長く、夜叉に留まっていた。
阿黒羅は玉座に座り直し、夜叉と白夜を見渡した。
「まあよい。今宵は宴を開く」
その夜、黒竜の討伐を祝う宴が催された。
褒美の金を収めた箱が運ばれ、二人の席の傍らに置かれる。
夜叉と白夜の隣には、美しい鬼の女が一人ずつ付き、杯へ酒を注いでいた。
正面には阿黒羅と紅葉が座り、中央では踊り手たちが舞っている。
身体を返すたびに袖が広がり、裾が足元を流れた。
二人の前には、酒を注ごうとする者たちの列までできていた。
夜叉は差し出された酒器へ杯を傾けながら、その後ろへ目をやった。
――また、この流れか。
酒には強い方だが、並ぶ者全ての酌を受けて、最後まで座っていられるだろうか。
眷属とて酔う。
昨夜、卓に突っ伏して眠っていたことも、まだ記憶に新しかった。
夜叉は杯を干した。
――治癒が得意な眷属には、酒精を分解できる者もいるらしいが……。
隣から、白夜が身を寄せてきた。
杯を口元へ運び、夜叉にだけ届く声に落とす。
「なあ、闇さまは気づいているよな? 黒竜を倒したこと」
夜叉は杯を持ったまま頷いた。
「ああ」
白夜は酒をひと口含み、近づいてくる次の酒器へ目を向けた。
「なのに、まだ戻らずにいたら、まずくないか? お前は黒竜のために、もう何か月も宮を空けているんだぞ」
夜叉の手が止まった。
満たされた杯を見下ろし、眉を寄せる。
「……」
白夜は夜叉の顔を窺った。
「あのご様子だと、地上へ降りてこられそうなのだが」
正面で、阿黒羅が杯を置いた。
二人を眺め、身を乗り出す。
「夜叉と白夜は、どこの街へ帰るのだ?」
夜叉は白夜から身を離し、王へ向き直った。
「ここから東にある、名もなき村でございます」
阿黒羅は片手を広げ、料理の並ぶ膳を示した。
「そのようなところへ帰らず、ここにいたらどうだ? お前たちの面倒は、わしが見よう。贅沢な暮らしができるぞ」
夜叉は杯を置き、姿勢を正した。
「いえ、愛する方が待っておりますゆえ、ご容赦願えませんか」
白夜も膝の上へ手を戻し、王へ頭を下げる。
「そろそろ帰りませんと、その方が怒りますゆえ」
阿黒羅は口元を緩めた。
二人の困った顔を見比べ、膝を叩く。
「ますます気になるではないか。その者も連れて、三人でここに暮らせばよい。家も用意させよう」
夜叉は背筋を伸ばしたまま、王を見上げた。
「陛下、申し訳ございませんが、宴が終わりましたら帰らせていただきます」
阿黒羅は運ばれてきた酒へ杯を差し出した。
満ちていく酒を眺めながら、鷹揚に頷く。
「では、三日三晩祝った後に帰るがよい」
夜叉は膝の上で指を握り、頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げると、白夜と目が合った。
互いの眉間に寄った皺を見て、二人はまた杯を取った。
その日の宴がお開きになると、夜叉と白夜には、それぞれ部屋が与えられた。
夜叉は寝所へ足を踏み入れ、その場で止まった。
寝台の縁に、一人の女が座っている。
こちらを見つけると、膝の上で手をそろえ、笑みを浮かべた。
夜叉は頭を抱えた。
――何としても帰したくないのか。
女は寝台から立ち上がり、衣の裾を整えて礼を取った。
「夜叉さま、今宵のお相手をさせていただきます。小春と申します。どうぞよしなに」
白夜に与えられた部屋でも、女が一人、寝台の傍らに座っていた。
白夜が入ると顔を上げ、立ち上がって迎えに出る。
「白夜さま、お待ちしておりました」
白夜は戸口で足を止めた。
女と寝台を見比べ、結い上げた髪へ手をやる。
――ここまで用意しているのか。
女は白夜の前へ進み、衣へ手を伸ばした。
「お召し物をお取りいたしましょう」
白夜はその手を受け止め、衣から離した。
「すまない。今夜は一人で休みたい。下がってもらえるか」
女の目が、白夜の手元から顔へ移った。
やがて手を引き、胸元で重ねる。
「……承知いたしました」
白夜は入口を空け、女が通れるよう身を引いた。
「来てもらったところ、すまなかったな」
女はもう一度礼を取り、部屋を出ていった。
扉が閉まると、白夜は寝台へ腰を下ろした。
髪の結い目をほどき、肩へ落ちてきた白髪を背へ払う。
――戻ったら、何と言われることか。
両手で顔を覆い、そのまま膝へ肘をついた。
指の間から、床に垂れた神衣の裾が見えていた。
夜叉の部屋では、小春がその袖へ手を添えていた。
「夜叉さま、こちらへ」
夜叉は額から手を下ろした。
袖に添えられた小春の手を取り、自分の衣から離す。
「すまないが、今夜の相手は断らせてくれ」
小春の指が、夜叉の手の中で縮まった。
笑みを収め、その顔を見上げる。
「私では、お気に召しませんか」
夜叉は眉を下げ、小春の手を放した。
「お前のせいではない。私には、心に決めた方がいるのだ」
小春は手を胸元へ戻した。
指を重ね合わせ、夜叉の顔を窺う。
「では、せめてお話し相手だけでも。お休みになるまでで構いません」
夜叉は小春を見つめ、やがて肩の力を抜いた。
「それなら、少し頼もうか。ただ、酒はもう勘弁してくれ」
小春の口元がほころんだ。
「では、水をお持ちいたします」
用意された水を受け取り、夜叉は寝台の縁へ腰を下ろした。
冷たい水が喉を通る。
杯を唇から離すと、長い息が漏れた。
小春は傍らに座り、杯を持つ夜叉の手元へ目を向けた。
「宴では、皆がお引き留めしてしまいましたね」
夜叉は杯の中へ目を落とした。
「ああ。皆、よく飲むものだ」
小春は口元へ手を添えた。
笑いを収めてから、夜叉へ顔を向ける。
「心に決めた方は、どのようなお方なのですか」
夜叉の指が、杯の縁で止まった。
腕を伸ばし、抱き上げてほしいとねだる闇の顔が浮かぶ。
思いどおりにならなければ眉を寄せ、目を潤ませて、こちらを見上げてくる。
夜叉の口元が緩んだ。
「寂しがりで、我儘な方だ」
小春はその表情を見つめ、膝の上で手を重ねた。
「それでも、大切なお方なのですね」
夜叉は小春へ目を戻した。
「ああ」
小春は頷き、空になった杯へ手を差し出した。
夜叉が渡すと、それを受け取り、脇へ置く。
「では、帰られるまで、お身体を休めておかなくてはなりませんね」
夜叉は肩へかかっていた髪を払い、息をついた。
「そうだな。明日も宴が待っている」
小春は笑みを浮かべ、立ち上がった。
「今宵は、どうぞお休みください」
夜叉は寝台に腰を掛けたまま、小春を見上げる。
「ありがとう。お前も休むといい」
小春は礼を取り、寝所を辞した。
夜叉は扉が閉まるのを見届け、髪の結い目へ指を入れた。
ほどいた黒髪が背へ流れ、肩を覆っていく。
襟元を緩めて寝台へ横たわると、片腕を目の上へ乗せた。
「闇さま、早く会いたい」
そう呟き、夜叉は眠りに落ちていった。
その寝顔を、宮の水鏡が映していた。
闇は鏡面へ指を伸ばし、眠る夜叉の頬をなぞった。
鏡の端では、寝所を辞したばかりの女の背が、廊下の奥へ遠ざかっていく。
闇の尾が、ぴたりと止まった。




