第五話 黒竜
鬼神族の陣は、谷を見下ろす尾根に張られていた。
陣幕の外で、夜叉が谷の向こうの空を見据えている。
その背後へ、長い白髪をなびかせ、白夜が降り立った。
「夜叉、久しぶりだな」
夜叉は振り返り、顔をほころばせた。
永劫を持つ手を下げ、白夜を迎える。
「おお、よく来てくれた」
白夜も笑みを返した。
懐かしい顔を確かめてから、表情を改める。
「苦戦していると聞いた」
夜叉の笑みが薄れた。
「ああ。ここに黒竜がいてな。攻めてくるのだが……」
白夜の視線が、夜叉の手元の薙刀へ向いた。
夜叉は永劫を持ち上げ、その刃へ目を落とす。
「鱗が硬すぎて、斬れない」
白夜は顔を上げた。
幾度も手合わせをし、共に戦ってきた夜叉の力量は知っている。
その刃が通らないという。
「夜叉でも?」
夜叉は眉を寄せ、白夜を見返した。
永劫の柄を握る手に、力がこもった。
だが、久しぶりに会った白夜の顔を見ているうちに、その手が緩む。
「今夜は、酒でも酌み交わそう」
「ああ」
その夜、夜叉と白夜は差し向かいで飲んでいた。
夜叉が空いた杯を差し出すと、白夜が酒を注ぐ。
自分の杯にも注ぎ足したところで、白夜の手が止まった。
夜叉の顔を窺い、杯を置く。
「なあ、闇さまに夜の営みを教えたんだ」
夜叉は口元へ運びかけた杯を下ろした。
白夜の顔を見つめ、その意味を悟ると、がくりと肩を落とす。
「あああああ……駄目だろう、それは!」
白夜は目を伏せ、杯の縁を指でなぞった。
「一晩で後悔した。……すまない」
夜叉は額を押さえた。
指の間から、向かいの白夜を見る。
「そうなると分かっていたから、教えなかったのだ」
白夜の指が止まった。
夜叉は手を下ろし、残っていた酒を飲み干す。
「宮の時間で百年くらいは、ずっと執着なさるかもしれないな」
白夜は顔を上げた。
夜叉の顔を確かめたあと、手元の杯へ目を落とす。
やがて酒を取り、夜叉の空いた杯へ、なみなみと注いだ。
「……闇さまは、お前にも教えると仰っていた」
夜叉の手から、杯が滑りかけた。
「……白夜、恨むぞ」
そうして、白夜と夜叉の夜は過ぎていった。
数日後、二人は黒竜の前に立っていた。
黒い鱗に覆われた巨体が、行く手を塞いでいる。
地を掴む爪の下で石が砕け、長い首が持ち上がった。
その顎が開くと、喉の奥に赤い光が膨らみ始める。
夜叉は永劫を構え、白夜へ顔を向けた。
「左右から回るぞ」
白夜は刹那を抜き、腰を落とす。
「ああ」
二人が地を蹴った瞬間、黒竜の口から炎が噴き出した。
夜叉は左へ、白夜は右へ走る。
その間を灼熱の奔流が貫き、背後の岩へ叩きつけられた。
岩肌が赤く焼け、表面から溶け崩れていく。
吹き返した熱風に、二人の髪と神衣が激しく煽られた。
白夜は黒竜の側面へ回り込もうとした。
踏み出す足の先で、地面に丸い光が落ちる。
顔を上げると、黒竜の頭上に魔法陣が開いていた。
さらに翼の両側にも陣が浮かび、その内に無数の光が集まっていく。
白夜は足を踏み替えた。
直前まで走っていた場所へ、魔力の光弾が突き刺さる。
石が弾け、砕けた地面が背を追って噴き上がった。
顔の横を鋭い破片がかすめる。
白夜は身を低くし、次々と開く穴の間を駆け抜けた。
反対側では、夜叉も進む向きを変えていた。
光弾の列が足元を追い、跳び越えた岩を粉々に砕く。
着地するより早く次の光が迫り、夜叉は永劫を身体へ引き寄せて宙で身をひねった。
神衣の裾をかすめた一発が、その下の地面を深くえぐる。
黒竜が首を巡らせた。
吐き出される炎が地を薙ぎ、白夜の進路を横切る。
白夜は踏み切り、迫る火の先を越えた。
着地した足のすぐ後ろで、岩が赤く崩れ落ちる。
熱に歪む景色の向こうへ、夜叉の黒髪が見えた。
近づく道を探る二人の前で、黒竜が翼を広げた。
空を覆うほどの翼が、一度、大きく打ち下ろされる。
風が押し寄せた。
地を這っていた炎が巻き上がり、砕けた石とともに二人へ襲いかかる。
白夜は片腕で顔をかばい、足を踏みしめた。
肩を押す風に、靴底が地面を削る。
神衣の端で、ちりちりと音がした。
頬が焼ける。
息を吸えば、喉の奥まで熱が入り込んだ。
炎の向こうで、夜叉が腰を沈めた。
「白夜、上を取る!」
地面が砕け、夜叉の身体が跳ね上がる。
そのまま炎を越え、黒竜の頭上へ飛んだ。
黒竜が夜叉を追って首を持ち上げた。
頭上の魔法陣が傾き、光の列が空へ走る。
夜叉は永劫を脇へ引き、光弾の間を斜めに抜けた。
肩のすぐ横で光が弾け、黒髪が大きく散る。
迫る一発をかわした先へ、すでに次の陣が向けられていた。
その間に、白夜は刀を立てた。
黒竜の目は夜叉を追っている。
白夜は刹那を両手で握り、焼け残った地面を蹴った。
走るたびに、足元から砕けた石が跳ねる。
黒い巨体が迫り、重なり合う鱗の一枚一枚が見えるところまで踏み込んだ。
刹那を振り抜く。
刃が前脚の付け根を捉え、甲高い音が響いた。
火花が散る。
手首から肘へ突き上げた衝撃に、白夜は歯を食いしばった。
鱗の表面を滑った刃が、外へ弾かれる。
――これほどか。
刀を引き戻す白夜の頭上で、黒竜の肩が動いた。
持ち上がった前脚から、巨大な爪が振り下ろされる。
白夜は横へ跳んだ。
爪が地面を裂き、叩きつけられた風が背を打つ。
着地した片足が崩れた石に沈んだ。
白夜はそこを蹴り崩し、続けて迫る顎の前から飛び退いた。
その首へ、上空から永劫が振り下ろされた。
黒竜が頭を振る。
夜叉の刃は鱗を叩き、長い首に沿って火花を引いた。
硬い手応えに腕が痺れる。
夜叉は弾かれる力に逆らわず、柄を引いて身体を返した。
黒竜の顎が、そのすぐ下を通り過ぎた。
噛み合った牙の音が、腹へ響く。
夜叉は首の横を抜け、白夜のいる側へ降りた。
着地とともに永劫を構え直す。
白夜も刀を戻し、その隣へ並んだ。
夜叉は黒竜から目を離さず、柄を握る位置を変えた。
「分かっただろう」
白夜は痺れの残る指で、刹那を握り締めた。
「ああ。嫌になるほどな」
黒竜の翼が動いた。
二人は同時に身を低くする。
巻き起こった風が頭上を抜け、背後で燃えていた炎を引き寄せた。
火の粉が肩へ降りかかる。
白夜は横へ足を出しかけ、赤く溶けた地面を見て止めた。
先ほどまで走れた場所が、今は熱を放つ窪みに変わっている。
正面では、黒竜が口を開いていた。
喉の奥が赤く染まる。
夜叉は永劫の切っ先を下げ、黒竜の左側へ踏み出した。
「私に向けさせる。お前は反対へ」
白夜は刀を引き寄せ、右へ身体を向ける。
「分かった」
夜叉が飛び上がった。
黒竜の目の前を横切り、その鼻先へ永劫を突き出す。
刃が触れる寸前、巨大な顎が夜叉へ向いた。
炎が噴き出す。
夜叉は上へ逃れず、首の横を低く飛んだ。
背後へ熱が迫り、神衣が激しくはためく。
炎に追われるまま大きく弧を描き、黒竜の首をさらに横へ向かせた。
白夜は、その反対側から駆け込んだ。
黒竜は後脚を踏み替え、夜叉へ身体ごと向きを変えようとしていた。
片方の前脚が地を離れる。
残る前脚へ巨体の重みが移った瞬間、白夜はその足元へ入った。
刹那を低く構え、脚の内側から斬り上げる。
硬い鱗が刃を拒んだ。
白夜は柄を握り込み、踏み込んだ足から力を乗せた。
竜族のもとで身につけた踏み込みだった。
刃が滑る。
両腕に衝撃が走っても、そのまま振り抜いた。
黒竜の前脚が外へずれた。
爪が地面を掴み直そうとする。
だが、その下にあったのは、自らの魔力の光弾で砕いた石だった。
巨体を支えた足場が崩れ、肩が沈む。
炎の軌道が下がった。
夜叉はその上へ身を返した。
永劫を両手で振りかぶり、体勢を戻そうとする黒竜の首へ打ち下ろす。
轟くような音が響いた。
黒竜の頭が沈み、吐き続けていた炎が地面へ叩きつけられた。
白夜は前脚の下から駆け抜ける。
その背後で炎が爆ぜ、砕けた岩が赤く焼けながら宙を舞った。
黒竜が咆哮した。
夜叉は永劫を引き戻し、広がる翼を越えて飛び退く。
白夜も距離を取り、振り返った。
刀を握る掌に、まだ衝撃が残っている。
黒竜は崩れた地面へ爪を食い込ませ、巨体を起こした。
首を打たれた鱗も、前脚の鱗も、厚く重なったままだった。
白夜の隣へ夜叉が降り立つ。
二人は互いの位置を確かめ、再び左右へ間を開けた。
黒竜の周囲に、魔法陣が次々と開いていく。
その光が満ちるより早く、永劫と刹那を構えた二人が、砕けた大地を蹴った。
左右から駆け上がり、黒竜の首へ迫る。
振り抜かれた二人の刃が、黒い鱗を捉えた。
硬い音が響き、柄を握る手へ激しい衝撃が返る。
夜叉は両腕に力を込め、永劫の刃を押し当てた。
反対側では、白夜も刹那を握り直している。
黒竜が首を振り上げる。
二人の身体が煽られ、神衣が大きくはためいた。
刃を当てたまま言霊を重ねれば、鱗の内へ力を通せる。
だがそれには、振り落とされずに首へ取りついていなければならなかった。
夜叉の唇から、言霊が紡がれた。
白夜も声を重ねる。
その響きとともに、永劫の刃が光を帯びた。
刹那にも光が走り、鱗に接したところから眩い輝きがあふれ出す。
黒竜の首を挟み、二つの光が強まっていった。
刃の下で、鱗が割れた。
夜叉が永劫の柄を引き、白夜は刹那を押し進める。
先ほどまで刃を拒んでいた鱗を裂き、二人はさらに深く斬り込んだ。
黒竜が咆哮した。
大きく開いた顎が空を向く。
二人はその首を捉えたまま、最後まで刃を振り抜いた。
首が断ち切られた。
咆哮の響きが残る中、巨体が傾いていく。
広げられた翼が地面を打ち、砕けた石を押し潰しながら、黒竜は崩れ落ちた。
地響きが足元から伝わり、土煙が二人を包む。
夜叉と白夜は地へ降り立ち、武器を構えたまま黒竜を見据えた。
倒れた巨体から、黒い霧が立ち上った。
首も翼も、その輪郭が崩れ、霧の中へ溶けていく。
重なり合っていた鱗が消え、地を掴んでいた爪も見えなくなった。
霧が薄れたあと、そこには一人の男が横たわっていた。
黒い髪が、砕けた石の上に広がっている。
白夜は刀を鞘へ収め、男の傍らへ膝をついた。
頭の下へ手を差し入れ、首を支えながら抱え起こす。
男の瞼が動いた。
半ば開いた目に黒い瞳が現れ、白夜の顔を捉える。
唇が震え、かすれた息が漏れた。
「……止めてくれて、あ……ありがとう」
その頬が、白夜の目の前でほどけた。
黒い粒子が浮かび上がり、髪も、肩も、支えていた頭も形を失っていく。
掌にかかっていた重みが消えた。
白夜は手を差し出したまま、その指の間を抜けていく粒子を見つめていた。
傍らで、夜叉が永劫の切っ先を下ろした。
顔を上げた白夜とともに、宙へ漂う黒い粒子を目で追う。
二人の前で、最後のひと欠片が薄れ、消えていった。




