第二話 白夜
闇の宮には、変わらぬ月明かりが差していた。
戻ってきた夜叉は、寝台にいる闇の前で足を止めた。
地上で胸元を掴んだ羅刹の手の震えが、まだ身体に残っている。
「なぜ、地上の時も止めずに、ここへ連れてきたのですか」
闇は夜叉を見上げた。
「時が経てば、諦めるかと思ってのう」
「逆効果だと思います。闇さまも見ていらしたでしょう。羅刹は絶望しています」
闇は首を傾けた。
「この世への未練がなくなったではないか」
夜叉は唇を引き結んだ。
闇の顔には、咎められている理由を探すような戸惑いが浮かんでいる。
「あなたという方は……」
「駄目だったかの?」
夜叉は額に手を当てた。
「駄目でしょう」
紫の瞳が揺れた。
睫毛の際に涙が滲むのを見た途端、夜叉は寝台へ歩み寄っていた。
「ああ、泣かないでください」
腕を伸ばし、闇を抱き寄せる。
伝えなければならないことは、まだあった。
けれど、腕の中で顔を上げた闇を見ると、その目元へ手が伸びる。
涙を拭う夜叉に、闇は口づけた。
やがて夜叉は寝台に身を預け、寄り添う闇の頭を撫でていた。
指に沿って、長い黒髪が流れていく。
闇はその手に身を任せながら、片腕を上げた。
かざした掌の先に、水鏡が開く。
月明かりの中へ、地上の街並みが映し出された。
羅刹がいた。
家族の暮らす街を離れ、別の街で働いている。
闇は夜叉の胸から顔を上げ、その姿を目で追った。
「何をしているのかの?」
「暮らしていくために、働いているのでしょう」
闇は水鏡へ指先を伸ばした。
「私のもとへ来ればよいのに」
夜叉の手が、黒髪の上で止まった。
水鏡の中の羅刹は、こちらを知ることもなく働き続けている。
「闇さまは、恨まれていますよ。少し時を置いて、恨みが薄れるのを待ちましょう」
「私の魅了は切れておらぬ」
夜叉は闇の横顔を見つめた。
紫の瞳は、羅刹に向けられたままだった。
髪から手を離し、その肩へ添える。
「……私一人では、満足できませんか」
闇は夜叉を振り返った。
身を寄せ直し、その胸へ顔を埋める。
「そんなことはない。でも、羅刹も欲しい」
夜叉は長く息を吐いた。
闇の背へ腕を回すと、再び黒髪を撫で始めた。
その傍らでは、水鏡が地上を映し続けていた。
あれから、地上では三十年が過ぎた。
闇も夜叉も、羅刹の前には現れなかった。
知らぬ街で暮らしを立て、働いて一日を終える。
そうした日々を幾度重ねても、闇の宮で過ごした時間だけは、過去のものにならなかった。
家族から引き離された。
帰る場所も、父である自分も、奪われた。
闇を恨む理由は、何一つ変わっていない。
それなのに、ふとした折に浮かぶのは、紫の瞳だった。
妻の声を思い出そうとすると、記憶の中を探さなければならなくなっていた。
幼い息子の顔にも、別れ際に見た青年の顔が重なる。
共に暮らした日々は確かにあったはずなのに、その細部は歳月の中で薄れていく。
闇の姿だけは、鮮明だった。
月と星の輝く部屋。
長い睫毛の下から、自分を見つめていた瞳。
忘れようとするほど、その顔が近くに浮かぶ。
腹立たしさに目を閉じても、会いたいという思いまで消すことはできなかった。
この思いが自分のものなのか、闇にかけられた魅了の名残なのか、それさえ分からなかった。
家族を求めることも、自分の意思で生きることも、闇に出会うまでは当たり前だった。
今は、その当たり前を奪った者を求めている。
羅刹は掌を見下ろした。
――もう一度、この手に。
思い浮かべた姿を抱き寄せるように指が動き、やがて、何もない手の中で固く握り込まれた。
それから、長い歳月が流れた。
闇と出会ってから、およそ二百年が過ぎた頃だった。
羅刹の前に、夜叉に抱きかかえられた闇が現れた。
目を見開いた途端、羅刹の口元がほころんだ。
何度も思い描いた紫の瞳が、今、自分に向けられている。
羅刹は唇を引き結び、こみ上げた喜びを押し留めた。
初めて闇に会った時、自分は二百歳だった。
今年で四百歳になる。
それほどの歳月を隔てても、目の前の二人は、記憶の中と同じ美しい姿をしていた。
夜叉の腕に身を預けた闇の黒髪も、こちらを見つめる瞳も、何一つ変わっていない。
羅刹は自分の手へ目を落とした。
鬼の寿命は、およそ五百年。
かつて闇の髪に触れた手には、今は皺が刻まれている。
指を伸ばすと、皮膚の上に寄った細かな筋が動いた。
「羅刹、あの時はすまぬことをした。反省したから、私のもとへ来ぬか?」
羅刹は顔を上げた。
闇は夜叉の腕の中から身を乗り出し、返事を待っている。
夜叉は抱えている身体を支え直した。
「闇さま、それでは全く説得になっていませんよ」
「どうすればよいのじゃ」
闇が夜叉を見上げる。
紫の瞳が潤み、睫毛の際に涙が溜まり始めた。
「ああ、泣かないでください」
夜叉は闇を胸元へ抱き寄せ、その顔を覗き込んだ。
先ほどまで諭していた声が、涙をなだめる響きに変わっている。
羅刹の口から、思いがけず笑いがこぼれた。
二人がこちらを向く。
羅刹は口元へ手を当て、なお残る笑みのまま、闇を見つめた。
「闇さま、私はあなたに仕えましょう」
闇の目が大きく開いた。
睫毛に涙を残したまま、羅刹へ手を伸ばす。
「よいのか?」
「ええ。家の整理をしてきます。七日後に、また迎えに来ていただけますか」
羅刹は差し出された手を取った。
七日後、約束どおり、闇と夜叉が現れた。
羅刹は二人を迎え、再び闇の手を取った。
その瞬間、見慣れた景色が消える。
目の前に広がったのは、月と星の光に満ちた宮だった。
百八十年ぶりに足を踏み入れたその場所で、羅刹は顔を上げた。
記憶の中にあり続けた美しさが、今は手の届くところにある。
闇が、繋いだ手を引いた。
「眷属となれば、もう元には戻れぬ。よいか?」
羅刹は紫の瞳を見つめた。
「ええ。あなたに全てを捧げます」
闇の顔に笑みが広がった。
羅刹の手を握り直し、宮の奥へ歩き出す。
「こっちだ」
案内された部屋では、床に描かれた陣が紫の光を放っていた。
幾重にも重なる線が、部屋の中央を囲んでいる。
夜叉は陣の手前で足を止め、二人を見送った。
闇は羅刹の手を離し、中央を示した。
「真ん中に立て」
羅刹は陣の中へ進んだ。
足元の光が衣の裾を照らし、一歩ごとに、その身体を深い紫に染めていく。
中央で振り返ると、闇が目の前に立っていた。
闇は羅刹の胸元へ手をかざした。
「――闇の理よ。古き始源より続く、力の流れよ」
言霊が部屋に響き渡った。
床を巡る線の色が深まり、その内から紫の光が溢れ出す。
羅刹は足元から立ち昇る力を感じ、闇を見つめた。
闇は長い言霊を紡ぎ続けた。
声に応じて陣の輝きが増し、二人の衣と髪を大きく揺らす。
広がる光の中で、かざされた掌だけが揺るがず羅刹へ向けられていた。
「――ここに、眷属の誕生を宣言する。闇の名のもとに。我の名のもとに。理の定めのもとに――」
言霊が結ばれると、闇は手を下ろした。
羅刹の頬を包み、顔を寄せる。
羅刹は目を閉じ、その口づけを受けた。
触れた唇から、身体の奥へ力が流れ込んでくる。
胸の内を満たし、さらに深く、魂へと届いていく力に、衣を掴もうとした指が止まった。
やがて闇は唇を離し、羅刹の額へ掌を移した。
「我は、汝を白夜と名づける」
羅刹は目を開いた。
間近にある紫の瞳を見つめ、その名を受け止める。
「お受けします」
陣が眩い光を放った。
授けられた名が魂に刻まれ、闇との繋がりが結ばれていく。
羅刹の身体そのものが輝き始めた。
頬や手に刻まれていた皺が消え、腕にも脚にも、かつての力が戻っていく。
白い髪が艶を取り戻し、光の中で広がった。
一本一本が白く輝きながら靡き、若返っていく顔を縁取る。
その瞳は、鬼であった頃と変わらぬ赤を宿していた。
身体を満たす力とともに、理が魂へ流れ込んでくる。
地上で抱いていた思いが、その大きな流れの中へ沈んでいった。
家族を失った痛みも、闇へ向けていた恨みも、胸を刺すものではなくなっていく。
目の前にいる闇が、唯一無二の主となる。
光が収まると、陣の中央には、全盛期の姿を取り戻した白夜が立っていた。
艶やかな白髪が肩へ流れ落ちる。
夜叉が衣を携え、陣の中へ入ってきた。
白夜の前で、その衣を広げる。
「これに手を当てて」
白夜が掌を当てると、身につけていた衣が解け、足元へ落ちた。
差し出された衣が身体を包み、肩から胸へ、腕へと沿っていく。
やがて神衣をまとった白夜が、袖から出た両手を見下ろした。
指を開き、握る。
もう一度、両手を開いた。
関節は滑らかに動き、握り込むたび、腕の内に満ちた力が伝わってくる。
夜叉は白夜の手から、その顔へ目を移した。
「路地でお前に掴まれた胸元が、今も痛む気がする」
白夜は、自分の拳が震えていたことを思い出した。
あれほど胸を焼いていた怒りは、今はもう遠い。
「……あの時は、すまなかった」
夜叉は首を振った。
その目は、怒りの消えた白夜の顔から、しばらく離れなかった。
闇が指を鳴らした。
何もなかった空間に、一振りの刀が現れた。
落ち始めた柄を闇が握り、白夜へ向き直る。
刀身に、陣の紫の光が映っていた。
「銘は、刹那。白夜、お前にこれを授ける」
白夜は差し出された柄へ手を伸ばし、刀を受け取った。
その重みを掌に確かめ、闇へ頭を下げる。
「闇さま、ありがとうございます」
闇は満足そうに白夜を眺め、それから夜叉へ顔を向けた。
「分からぬことは、夜叉から教わるがよい。夜叉、白夜が眷属として働けるよう、仕込め」
夜叉は、闇の瞳を見返した。
白夜を眺めていた紫の瞳は、水鏡の中の羅刹を追っていた時と同じ色をしていた。
夜叉は闇へ一礼した。
「承知しました」
白夜が顔を上げると、夜叉が傍らに並んだ。
闇には届かぬほどの声で、夜叉は言った。
「これからは、闇さまが泣くたびに、二人でなだめることになるぞ」
白夜は、地上で見た二人のやりとりを思い出した。
こらえきれず、口元が緩む。
夜叉も、目を伏せて笑った。
艶やかな黒髪の夜叉と、白く輝く髪の白夜。
二人とも赤い瞳を持ち、髪の間から二本の角が伸びている。
白夜の手にした刹那の刀身には、並び立つ二人の姿が映っていた。




