第一話 羅刹
遥か、遥か昔のこと。
一人の美しい鬼の前に、黒衣の男が現れた。
足音も気配もなく、何もなかったはずの場所に立っている。
鬼は息をのみ、一歩後ずさった。
白い髪が揺れ、その間から伸びる二本の黒い角が、男へ向く。
赤い瞳が、突然現れた黒衣の男を見据えた。
「どこから現れた?」
長い黒髪が、肩から胸元へ流れていた。
前髪の奥から、紫の瞳が鬼を捉えている。
背筋を冷たいものが伝う。
それなのに、目を逸らせなかった。
恐ろしいほどに美しく、退いた足をまた前へ出してしまいそうになる。
男は鬼の顔を眺め、唇を開いた。
「お前の名は?」
鬼はその場に踏みとどまった。
「突然現れた者に、名など言うわけがない」
「それもそうじゃな。私は闇。闇を司る柱だ。さあ、私が名乗ったのだ。お前も名乗るがよい」
差し出された名だけで、この得体の知れない存在を信じられるはずもない。
それでも、紫の瞳に見据えられているうちに、名が唇からこぼれた。
「……羅刹」
「よい名じゃな」
闇はその名を確かめるように、もう一度、羅刹と呼んだ。
少し考え、顔を近づける。
「羅刹、私の眷属にならぬか?」
「眷属? それは何だ」
闇は事もなげに答えた。
「鬼の生を捨て、私に仕える者になるということだ」
羅刹は眉を寄せた。
初めて会った者が、当然のように自分の生を差し出せと求めてくる。
「お前が何者なのかも分からないのに、そんなことができるわけがない。それに、私の忠誠は王にある」
闇は首を傾けた。
「困ったのう。私はお前が欲しい」
その姿が揺らいだ。
目の前に立つ身体の輪郭が変わり、黒髪が細くなった肩を滑り落ちる。
男のいた場所に、美しい女が立っていた。
紫の瞳だけが、変わらず羅刹を見つめている。
「これではどうだ? お前が望む限り、この姿でいよう」
羅刹の手が、引き寄せられるように上がった。
指先が触れる寸前で我に返り、その手を引き戻す。
強く首を振った。
「そんなものでは惑わされない」
闇の目が細くなる。
「精神力が強いな。あまり使いたくないのだが」
黒衣の周囲にまとわりついていた霞が、濃くなった。
羅刹は身を引こうとした。
ところが、退こうとする思いに逆らって、胸の奥から別の感情が湧き上がる。
闇から離れたくない。
もっと近くで、その顔を見ていたい。
妻の顔が浮かんだ。
その傍らに、幼い息子の姿が重なる。
帰らなければならない。
二人のもとへ戻らなければならないのに、目の前の女へ伸ばしかけた手を、今度は止められなかった。
――何だ、これは。どうして、この者が愛おしくなる。
自分の心に起きていることが分からない。
妻子を思う気持ちは確かにある。
それを押しのけて、闇を求める思いが膨れ上がっていく。
闇が羅刹に口づけた。
拒もうとしたはずの手は、その黒衣を掴んでいた。
闇が手をかざすと、視界が白く染まった。
光が引いた時、羅刹は見知らぬ部屋にいた。
目の前には闇が立ち、その向こうに月と星が輝いている。
淡い月明かりが室内に届き、黒髪の艶を照らしていた。
「ここは?」
「私の宮だ」
羅刹は部屋を見渡した。
地上で見上げていた時よりも、月も星も近く感じられる。
その美しさに目を奪われながらも、傍らの気配が気になり、すぐに闇へ顔を戻した。
長い睫毛の下に、紫の瞳がある。
覗き込めば、その奥へ吸い込まれてしまいそうだった。
羅刹は黒髪に触れた。
指の間を流れていく髪を見つめ、改めてその顔を確かめる。
黒髪の間から、黒豹の耳が覗いていた。
衣の裾の下では、長い黒い尾が床を打っている。
鬼でも、人でもない。
「何者なのですか?」
「この世の理を預かる柱だ。人や鬼が信仰する神とは違うが、神という存在だ」
羅刹の目が、黒い耳から尾へ移る。
闇はその視線に気づき、尾の先を揺らした。
「これが、私の本来の姿じゃ。この姿でいられるのは、宮の中だけでな。地上で戻れば、地上の方が耐えられぬ」
「そんな存在が……。眷属とは、何をするのですか」
「私の手足となり、地上で働いてもらう。今以上の力を得て、老いることもなくなる」
羅刹の指が止まった。
老いないという言葉から、妻と息子を思い出す。
「家族とは?」
「もう会わぬ方がよいだろうな。相手は年を取る。残酷なことだ。それに、私の仕事がある。会いには行けぬ。地上での仕事がない時は、ここで私と過ごすのだ」
羅刹は息をのんだ。
「……そんな」
黒髪に触れていた手が下がった。
妻も息子も、羅刹が帰るのを待っている。
別れの言葉さえ交わしていない。
顔を見ることも許されなくなるなど、考えたこともなかった。
闇は、その手を取った。
「心配するな。眷属となれば、私がお前の唯一無二の存在となる。ただ、合意がなければ眷属にはできぬ。だから、こうして誘っている」
羅刹は、重なった手を見下ろした。
この手を離して帰りたい。
そう思う一方で、離されたくないと願う自分がいる。
「断ることはできないのですか?」
闇は少し考え、間を置いた。
「できるが、私はお前を手放したくない。力を得て、永遠の命を手にするのだぞ? 人や鬼が求めてやまぬものではないか」
「でも、自分の意思は奪われる」
闇は羅刹の頬に指を添えた。
「何事も、そう都合よくはいかぬ」
闇は再び羅刹に口づけた。
家族のもとへ帰るという言葉は、口にできないまま途切れた。
その後、どれほどの時が過ぎたのか。
闇に導かれるまま寝台へ移り、羅刹は宮に留まっていた。
目を覚ますと、胸の上に黒い髪が流れている。
闇は女の姿のまま、羅刹の肩に頬を寄せて眠っていた。
羅刹が身じろぐと瞼が開き、紫の瞳がこちらを見上げる。
細い指が伸び、羅刹の額の角をなぞった。
指先は角の根元から髪へ下り、頬を辿って唇の上で止まる。
闇はそのまま顔を寄せ、羅刹に口づけた。
眷属になると承諾した覚えはない。
それでも、帰らなければと思うたび、闇の魅了がその思いを覆っていく。
家族を思い出すのは、決まって闇が寝台を離れた時だった。
戸口で見送る妻の姿が浮かび、抱き上げた子の重さが腕に戻ってくる。
羅刹は寝台から足を下ろし、扉へ向かった。
扉に手をかけたところで、背後から声がした。
「どこへ行くのじゃ?」
振り向くと、闇が部屋の奥に立っていた。
その身にまとう霞が濃くなり、足元から部屋へ広がっていく。
霞が羅刹の膝に絡み、胸の高さまで満ちた。
羅刹は口を開いた。
扉の前へ来た理由が、どこにも見つからない。
闇は羅刹の手を取り、扉から離した。
引かれるまま寝台へ戻り、羅刹は再び闇の腕に収まった。
腹が空くことも、喉が渇くこともない。
見上げれば、月はいつも同じ高さにかかっている。
星も、初めてこの部屋を見た時から一つも位置を変えていなかった。
羅刹は目を覚ますたびに、寝台の縁へ爪で一本ずつ傷をつけていた。
傷が十を超えた頃から、今日の分をつけたかどうかを思い出せなくなった。
指でなぞると、傷は数えきれないほど並んでいる。
――私は、いつからここにいる。
月と星の輝く部屋で、夜の終わりさえ見失っていた。
やがて、地上での務めから戻った男が、部屋の奥に姿を現した。
「闇さま、説明が足りません。きちんと説明しなければ、受けるにも受けられません」
闇は羅刹の傍らから顔を上げた。
「……そうかの?」
「はい。私の時も、ほとんど説明がありませんでした」
闇は唇を尖らせた。
「でも、お前は受けたではないか」
男は寝台の羅刹へ目を向けた。
「私は地上の政に絶望していましたし、大切な者もいませんでした。私から説明をします。そのうえで断られたら、諦めてくださいませ」
闇は羅刹を引き寄せた。
「嫌だ。鬼から天零が生まれるのは珍しいのだぞ。お前以来、五百年ぶりだ」
「人からは生まれています」
闇は夜叉の言葉を聞き流した。
「私は強い眷属にしか興味がない。他の柱に取られるのは嫌だ。夜叉、お前が説得しろ」
夜叉と呼ばれた男は、長く息を吐いた。
羅刹へ歩み寄り、その顔を覗き込む。
「羅刹といったか。……もう、こうなっては諦めた方がいい。私から説明しよう」
羅刹は寝台の上で身を起こした。
闇に取られている腕へ目を落とし、それから夜叉を見上げる。
「諦めなければならないのか」
「……闇さまがこうなってはな。地上へ降りれば分かる」
夜叉は闇へ向き直った。
「闇さま、少し外します」
闇の手が離れた。
夜叉が羅刹に触れると、月明かりの部屋は目の前から消えた。
二人は、街の上空にいた。
眼下に広がるのは、羅刹が暮らしていた街だった。
通りの位置も、家々の並びも見覚えがある。
そのはずなのに、目で辿るほど、記憶と食い違うものが見つかった。
知らない建物がある。
見慣れた屋根の色も違う。
あの壁は、これほど傷んでいただろうか。
羅刹は身を乗り出し、街を見下ろした。
「お前が住んでいた街だ。ざっと二十年は経っている」
「え?」
夜叉の顔を見た。
聞き違いを確かめようとする羅刹に、夜叉は眼下の街を示す。
「宮と地上では、時の流れが違う」
「そんなにいた記憶はない」
羅刹は頭を振った。
闇が目の前に現れた時のことも、妻と息子の顔も、つい先ほどのことのように思い出せる。
夜叉は息をついた。
「ずっと闇さまの傍らにいたではないか」
羅刹の唇が開き、息だけが漏れた。
二十年という長さと、自分の中にある記憶が結びつかない。
夜叉は地上へ目を戻した。
「隠蔽をかける」
二人の姿が、空に溶けるように消えた。
夜叉に伴われ、羅刹は自分の家へ降りていった。
そこに、知らない男がいた。
家の中から妻が出てくる。
羅刹は足を止めた。
何度も思い浮かべていた顔が、目の前にある。
その口元に笑みが浮かぶのを見て、胸が緩みかけた。
「あなた、行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
男が家を離れていく。
妻はその背を見送り、羅刹のいる方へ顔を向けることなく、戸口へ戻った。
羅刹の足が、地面に縫い留められたように動かなくなる。
隣で、夜叉が声を落とした。
「闇さまの我儘ですまぬな。地上では二十年、お前は行方不明だった」
鬼の寿命は長い。
二十年を経ても、妻の面影はほとんど変わっていなかった。
だからこそ、いつものように家へ入れば、こちらを振り返ってくれる気がした。
自分に向けられていた呼びかけを、別の男に向けた唇を見てなお、その姿から目を離せない。
「……息子は」
家の奥から、一人の青年が現れた。
「母さん、行ってくるよ」
「ああ、行っておいで」
羅刹は青年を見つめた。
記憶の中にある幼い顔と、目の前の顔が重なる。
手足が伸び、肩幅も広がっていた。
声まで変わっている。
それでも、息子だと分かった。
胸の奥から突き上げたものが、そのまま声になった。
「茨木」
「あっ、馬鹿」
夜叉が手を伸ばすより早く、隠蔽が解けた。
青年の足が止まった。
大きく目を見開き、羅刹の顔を見つめる。
「父さん……?」
「ああ」
羅刹の顔がほころびかけた。
息子が、自分を覚えていた。
差し出そうとした手を、茨木が掴む。
茨木は家を振り返り、母が気づいていないのを確かめると、父の腕を引いて路地へ入った。
家の前から見えない所まで来て、ようやく足を止める。
掴んでいた腕を放し、羅刹へ向き直った。
「女と消えたと聞いている。今更、何しに来たんだよ」
羅刹は言葉を失った。
息子の眉間には、深い皺が寄っている。
再び父の顔を確かめた目が、怒りに揺れた。
「……私は」
「ずっと探していたのに」
茨木の声が震えた。
唇を噛み、一度だけ家のある方を見る。
「母さんは十年間、泣き続けた。やっと今の父さんと出会って、幸せになったんだ」
羅刹の脳裏に、戸口で男を見送っていた妻の顔が浮かんだ。
あの笑顔に至るまでの十年を、自分は知らない。
茨木は父へ向き直り、拳を握った。
「今更、帰ってこないでよ。俺も、父さんを恨んでいる!」
「すまない」
謝罪が口をついて出た。
けれど、自分が二十年も家族を置き去りにしたという事実を、どうしても受け止めきれなかった。
――傷は、十を超えたところで数えられなくなった。だが、二十年もの数だったはずがない。
思い出そうとすると、闇の姿が浮かぶ。
紫の瞳と、月星の輝く部屋。
そこに留められている間に、妻は自分を待ち、泣き続け、別の男と生き始めていた。
幼かった息子は、父を責める言葉を持つ青年になっている。
羅刹は、目の前の息子へ手を伸ばしかけた。
その手が触れる前に、茨木は一歩退いた。
「悪いけど、もうあなたを父とは思っていない。家族の中では、もう死んだことになっている。このまま、どこかへ行ってほしい。もう二度と来ないで」
羅刹の手が、二人の間で止まった。
茨木はその脇を通り抜け、路地を出ていく。
呼び止めようと唇を開いたが、去っていく背に、先ほどの幼い面影を見つけられなかった。
伸ばした手を下ろす。
息子に掴まれた腕には、その指の感触さえ残っていなかった。
傍らに夜叉が姿を現した。
羅刹はその黒い影へ向き直り、胸元を掴む。
布を握り込んだ拳が震えていた。
「なぜ……! なぜ、私がこんな目に遭わなければならない!」
夜叉は羅刹の手を見下ろした。
振り払うこともせず、握り締められた衣越しに、その怒りを受けている。
「柱さま方は、理にしか興味がない。この世の常識は通じないのだ」
羅刹の拳に、さらに力がこもった。
「何も悪いとは思っていない。善も悪も、理のうちにあるものとしか捉えていないのだ。そして、ご自身の行いもまた、理のうちにある。この世では酷い仕打ちであっても、柱さま方にとっては、悪いことにはならない」
目の前に浮かぶのは、息子の顔だった。
父とは思っていないと告げた時の声が、耳を離れない。
妻が泣き続けた十年も、息子が父を恨むまでに過ごした日々も、その一言の中に収められてしまう。
「理解できない!」
夜叉は、羅刹の顔を見据えた。
「眷属となれば、理解できる」
羅刹は胸元を掴んでいた手を緩めた。
目の前の夜叉も、すでにその側にいる。
自分の怒りを受け止めながら、闇のもとへ戻ることを勧めているのだ。
指をほどき、皺の寄った衣から手を離した。
「柱さま方ということは、一人ではないのか」
「闇さまを含めて五人いる。それぞれ、司っているものが違う」
夜叉は衣の乱れを直し、羅刹へ向き直った。
「眷属とは、その柱さま方を補佐し、地上での仕事を担う者だ。そして、柱さま方が心穏やかに過ごされるよう、唯一無二の主としてお仕えする」
羅刹は眉根を寄せた。
家族から引き離された自分に、今度は、その主の心を安らげよという。
「なぜ、私なのだ」
「お前が天零だからだ。理が定めた枠を超える力を持って生まれた者でなければ、眷属にはなれぬ」
羅刹は自分の掌を見下ろした。
この身に生まれついた力が、自分を家族から引き離したのだ。
「そんなもの、ただの奴隷ではないか。自由な意思もなく、主に仕えるなど」
吐き出した声が、狭い路地に響いた。
羅刹は片手で顔を覆った。
息子の言葉も、夜叉の説明も、次々と胸に押し寄せてくる。
「しばらく、一人にしてくれないか。……もう、うんざりだ」
夜叉は羅刹から一歩離れた。
その姿が消え、路地には羅刹だけが残された。




