表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
断罪令嬢を拾った辺境宿に、王国が捨てた有能な女たちが集まってくる ~転生支配人と断罪令嬢の宿再生記~  作者: 宿木ロク


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/9

第8話 金貨九枚を認めさせる女

 朝の帳場でセラフィーナは紙束を三つに分けていた。


 二軒分の納品控え。商業組合の検査記録。それから、叔父の仕入れ帳。自分の前には、裏返した紙を一枚置いている。


「寝たのか」


「三時間は」


「足りないだろ」


「足りるわ」


 即答したくせに、ペンを取ろうとした手が空を掴んだ。ペンは右ではなく、左にある。


 俺が黙って渡すと、セラフィーナは受け取りながら顔を背けた。


「いまのは、寝不足ではないわ」


「そういうことにしておく」


「最初から、そうなのよ」


 目の下には薄い隈がある。それでも紙を見下ろす菫色の瞳は、妙に生き生きしていた。


「手順を確認するわ。まず同じ日の値を並べる。次に升と樽の実際の量。最後に先代の記録と規約。途中で口を挟まないで」


「俺も行く意味あるか?」


「荷物持ちと、証人よ」


「頼もしい評価だ」


「適材適所でしょう」


 台所からマーサが出てきて、握り飯の包みを二つ押しつけた。


「喧嘩するなら、腹へ入れてからにしな」


「商談よ」


「勝ってから言いな」


 セラフィーナは反論せず握り飯を外套の内側へしまった。


 俺の分まで。


 ◇ ◇ ◇


 ドッソ商会は町の南端にある。


 倉を二つ並べ、軒下には麦袋と油樽。景気のいい店構えの何割かは、うちから抜いた金でできている。


「これはこれは、ともしび亭の若旦那」


 ドッソは奥の椅子から立ちもしなかった。


 腹の上で指を組み、俺たちを眺める。セラフィーナのところで、目が止まった。


「値上げの件で泣きつきに来たかね。気持ちは分かるが、麦も油も上がってるんだ。こっちも商売でねえ」


「相場は上がっていないわ」


 セラフィーナが言った。


「今期の麦は豊作見込み。油は春の関税撤廃で、仕入れ値が二割下がっている。上がったのは、あなたがともしび亭へ書いた値だけよ」


 ドッソの指が止まった。


「詳しいねえ、お嬢さん。どこの誰だか知らんが」


 奴の目が、髪を隠した布から菫色の瞳へ移る。


「王都じゃ最近、よく似た女の噂を聞くのさ。若旦那。素性の知れん女を置けば、宿の信用に——」


「その話を組合でするなら、わたしも同じ席で話すわ」


 冷たい声だった。


「ともしび亭の三年分の仕入れ記録と、同じ日付の他店の納品控えを持ってきたもの」


 紙束が机に置かれた。


 ぱん、と乾いた音がした。


「麦は平均一割五分、油は二割二分、塩は三割一分。同じ日に、同じ品を他店へ卸した値との差額よ」


「どこの誰が書いたかも分からん紙切れだろう」


「二軒とも、店主の署名があるわ」


 セラフィーナが二軒の納品控えを置く。


「値が違うだけだ。取引先ごとの都合ってもんが——」


「ええ。だから、届いた量も確かめたの」


 続いて、商業組合の検査記録を置いた。


「麦の升は縁が削られて、正しい量より一割少ない。油樽は上げ底で、入っていた油は表示の八割だけ。商業組合員の立会いと署名つきよ」


 ドッソの頬が引きつった。


「そ、それは先代との取り決めだ。あの人は承知の上で——」


「では、書面を」


 最後に、叔父の仕入れ帳が置かれた。


「先代は天気も、荷の到着刻も、馬を替えた日まで書き残している。あなたとの取り決めだけ、三年間一度も書かなかったのかしら」


「口約束だ」


「死人にだけ都合のいい口約束ね」


 セラフィーナはそこで初めて椅子へ腰を下ろした。


「値の差、量の不足、過払いを月ごとに分けたわ。異論がある月には印をつけなさい。全部見直してもいい。合計は変わらないもの」


 机の上に月別の表が広がる。


 俺にも追える数字だった。


 ドッソも追えたらしい。最初の紙で唇を舐め、次の紙で鼻息が荒くなり、最後の行へ来ると動かなくなった。


 金貨九枚。


 セラフィーナは急かさなかった。


 黙って待つ。


 腹の鳴る音がした。


 セラフィーナは紙から目を上げなかった。ドッソも何も言わなかった。


 やがて、太い指が最終行を叩いた。


「……この額を認めれば、組合へは出さんのか」


「決めた日どおりに返す限りは」


「九枚を一度になんぞ払えん」


「知っているわ。最初の一枚を十日以内。残り八枚も、収穫祭まで十日ごとに一枚ずつ。金貨でも、組合の相場で金額を決めた品物でもいい」


 返済の取り決めはすでに書き上げてあった。ドッソが受け入れられる条件まで、昨夜のうちに詰めてきたのだ。


「……恐ろしい女だな」


「褒め言葉として受け取るわ」


 ドッソは返済条件を読み、二か所を書き直させた。


 一つは、品物で返す場合、その品を受け取った日の組合相場で値を決めること。もう一つは、荷が壊れた場合にどちらが負担するか。


 条件を読み飛ばして、何も考えずに印を押す男ではなかった。


 最後に自分の名を書いた。


「これで、金貨九枚はあなたの借りよ」


 セラフィーナが紙を引き寄せる。


「ああ。認めるよ」


 ドッソは墨のついた親指を布で拭い、俺を見た。


「だが、今後の取引は別だ」


「何?」


「過去の借りは返す。決めた日どおりにな。だが、ともしび亭への新しい荷は、今日で終わりだ」


 今度は、俺たちが黙る番だった。


「売る相手を選ぶのは、こっちの権利だろう。組合規約にも、嫌いな宿と取引を続けろとは書いちゃいない」


 俺には反論できない。


「町の粉屋も、油屋も、うちから買ってる。あんたらが直接頼んだところで、誰が運ぶ? 倉は? 毎日の少量の注文は? 帳簿だけで荷車は走らんよ」


 ドッソは椅子へ深く座り直した。


「さあ。返済条件の写しを持って帰りな。金貨九枚を取り返すまで、宿が残っていればいいがね」


 ◇ ◇ ◇


 商会を出るまで、セラフィーナは何も言わなかった。


 街角をひとつ曲がってから、急に立ち止まる。


「……ごめんなさい」


 風に消えそうな声だった。


「聞こえない」


「二度は言わないわ」


「じゃあ、今のは聞かなかったことにする」


 振り返った顔が、本気で困っていた。


「おまえ一人の判断じゃない。俺も、あそこで九枚を認めさせるほうを選んだ」


「でも、代わりの仕入れ先がないわ」


「だから作る」


「簡単に言わないで。麦は袋で歩いてこないのよ」


「麦が歩かないなら、運ぶ道を作る。そこまでは見えた」


 セラフィーナは眉を寄せたまま、外套から握り飯の包みを二つ取り出した。どちらも少し潰れている。


「食べるのか」


「決着はしたわ」


「負けたのに?」


「金貨九枚は認めさせたもの」


 片方を俺へ突き出した。


「そっちは、荷物持ちの取り分よ」


「会計責任者の取り分も、同じでいいのか」


「寝不足で、食欲がないだけ」


 そう言った女が、自分の握り飯を三口で食べた。


 ◇ ◇ ◇


 帰り道で、雨に降られた。


 宿へ転がり込んだ時には、二人ともずぶ濡れだった。


 マーサは買い出しでいない。俺は乾いた布を二枚出し、一枚を投げた。


 セラフィーナは髪を隠していた布を外した。濡れた白金が頬へ張りつき、本人はそれをどうしていいか分からない顔をしている。


「貸せ。後ろは自分じゃ拭きにくい」


「できるわ」


「さっきから同じ場所しか拭けてない」


 彼女は布を持ったまま、しばらく俺を見た。


 それから背を向け、ほんの少しだけ顎を引く。


 布越しに髪を挟み、水気を取る。最初は肩に力が入っていたが、しばらくすると抜けた。


「痛くないか」


「……平気よ」


「ならいい」


 髪の先まで拭く頃には、その重さをこちらへ預けてきた。


 目を閉じたまま、俺の手に任せている。


「セラ」


 呼ぶと肩が跳ねた。


「な、なによ」


「終わった」


「そう」


 振り向くのが妙に速かった。


 顔が近くなる。


 濡れた睫毛の先に雫が残っていた。彼女の手が伸び、俺の前髪から雫を拭う。指先が額に触れたまま、止まった。


 どちらも動かなかった。


 先に目を逸らしたのは、セラフィーナだった。


「……在庫を数えるわ」


「いま?」


「いまよ。濡れた髪を見ていても、麦は増えないでしょう」


 布を抱えるように持ち、厨房へ逃げていった。


 俺も布を片づけ、厨房の貯蔵棚を開けた。


 麦粉はあと一日半。


 油はあと二日。


 塩はあと四日。


 数字を書き終えたセラフィーナが、紙を握った。


 まだ少し湿った髪が、頬へ一筋だけ張りついている。


「金貨九枚は取り返すわ」


「ああ」


「でも、その前に」


「明日の飯だな」


 帳簿の外で、荷車を走らせる必要があった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ