第8話 金貨九枚を認めさせる女
朝の帳場でセラフィーナは紙束を三つに分けていた。
二軒分の納品控え。商業組合の検査記録。それから、叔父の仕入れ帳。自分の前には、裏返した紙を一枚置いている。
「寝たのか」
「三時間は」
「足りないだろ」
「足りるわ」
即答したくせに、ペンを取ろうとした手が空を掴んだ。ペンは右ではなく、左にある。
俺が黙って渡すと、セラフィーナは受け取りながら顔を背けた。
「いまのは、寝不足ではないわ」
「そういうことにしておく」
「最初から、そうなのよ」
目の下には薄い隈がある。それでも紙を見下ろす菫色の瞳は、妙に生き生きしていた。
「手順を確認するわ。まず同じ日の値を並べる。次に升と樽の実際の量。最後に先代の記録と規約。途中で口を挟まないで」
「俺も行く意味あるか?」
「荷物持ちと、証人よ」
「頼もしい評価だ」
「適材適所でしょう」
台所からマーサが出てきて、握り飯の包みを二つ押しつけた。
「喧嘩するなら、腹へ入れてからにしな」
「商談よ」
「勝ってから言いな」
セラフィーナは反論せず握り飯を外套の内側へしまった。
俺の分まで。
◇ ◇ ◇
ドッソ商会は町の南端にある。
倉を二つ並べ、軒下には麦袋と油樽。景気のいい店構えの何割かは、うちから抜いた金でできている。
「これはこれは、ともしび亭の若旦那」
ドッソは奥の椅子から立ちもしなかった。
腹の上で指を組み、俺たちを眺める。セラフィーナのところで、目が止まった。
「値上げの件で泣きつきに来たかね。気持ちは分かるが、麦も油も上がってるんだ。こっちも商売でねえ」
「相場は上がっていないわ」
セラフィーナが言った。
「今期の麦は豊作見込み。油は春の関税撤廃で、仕入れ値が二割下がっている。上がったのは、あなたがともしび亭へ書いた値だけよ」
ドッソの指が止まった。
「詳しいねえ、お嬢さん。どこの誰だか知らんが」
奴の目が、髪を隠した布から菫色の瞳へ移る。
「王都じゃ最近、よく似た女の噂を聞くのさ。若旦那。素性の知れん女を置けば、宿の信用に——」
「その話を組合でするなら、わたしも同じ席で話すわ」
冷たい声だった。
「ともしび亭の三年分の仕入れ記録と、同じ日付の他店の納品控えを持ってきたもの」
紙束が机に置かれた。
ぱん、と乾いた音がした。
「麦は平均一割五分、油は二割二分、塩は三割一分。同じ日に、同じ品を他店へ卸した値との差額よ」
「どこの誰が書いたかも分からん紙切れだろう」
「二軒とも、店主の署名があるわ」
セラフィーナが二軒の納品控えを置く。
「値が違うだけだ。取引先ごとの都合ってもんが——」
「ええ。だから、届いた量も確かめたの」
続いて、商業組合の検査記録を置いた。
「麦の升は縁が削られて、正しい量より一割少ない。油樽は上げ底で、入っていた油は表示の八割だけ。商業組合員の立会いと署名つきよ」
ドッソの頬が引きつった。
「そ、それは先代との取り決めだ。あの人は承知の上で——」
「では、書面を」
最後に、叔父の仕入れ帳が置かれた。
「先代は天気も、荷の到着刻も、馬を替えた日まで書き残している。あなたとの取り決めだけ、三年間一度も書かなかったのかしら」
「口約束だ」
「死人にだけ都合のいい口約束ね」
セラフィーナはそこで初めて椅子へ腰を下ろした。
「値の差、量の不足、過払いを月ごとに分けたわ。異論がある月には印をつけなさい。全部見直してもいい。合計は変わらないもの」
机の上に月別の表が広がる。
俺にも追える数字だった。
ドッソも追えたらしい。最初の紙で唇を舐め、次の紙で鼻息が荒くなり、最後の行へ来ると動かなくなった。
金貨九枚。
セラフィーナは急かさなかった。
黙って待つ。
腹の鳴る音がした。
セラフィーナは紙から目を上げなかった。ドッソも何も言わなかった。
やがて、太い指が最終行を叩いた。
「……この額を認めれば、組合へは出さんのか」
「決めた日どおりに返す限りは」
「九枚を一度になんぞ払えん」
「知っているわ。最初の一枚を十日以内。残り八枚も、収穫祭まで十日ごとに一枚ずつ。金貨でも、組合の相場で金額を決めた品物でもいい」
返済の取り決めはすでに書き上げてあった。ドッソが受け入れられる条件まで、昨夜のうちに詰めてきたのだ。
「……恐ろしい女だな」
「褒め言葉として受け取るわ」
ドッソは返済条件を読み、二か所を書き直させた。
一つは、品物で返す場合、その品を受け取った日の組合相場で値を決めること。もう一つは、荷が壊れた場合にどちらが負担するか。
条件を読み飛ばして、何も考えずに印を押す男ではなかった。
最後に自分の名を書いた。
「これで、金貨九枚はあなたの借りよ」
セラフィーナが紙を引き寄せる。
「ああ。認めるよ」
ドッソは墨のついた親指を布で拭い、俺を見た。
「だが、今後の取引は別だ」
「何?」
「過去の借りは返す。決めた日どおりにな。だが、ともしび亭への新しい荷は、今日で終わりだ」
今度は、俺たちが黙る番だった。
「売る相手を選ぶのは、こっちの権利だろう。組合規約にも、嫌いな宿と取引を続けろとは書いちゃいない」
俺には反論できない。
「町の粉屋も、油屋も、うちから買ってる。あんたらが直接頼んだところで、誰が運ぶ? 倉は? 毎日の少量の注文は? 帳簿だけで荷車は走らんよ」
ドッソは椅子へ深く座り直した。
「さあ。返済条件の写しを持って帰りな。金貨九枚を取り返すまで、宿が残っていればいいがね」
◇ ◇ ◇
商会を出るまで、セラフィーナは何も言わなかった。
街角をひとつ曲がってから、急に立ち止まる。
「……ごめんなさい」
風に消えそうな声だった。
「聞こえない」
「二度は言わないわ」
「じゃあ、今のは聞かなかったことにする」
振り返った顔が、本気で困っていた。
「おまえ一人の判断じゃない。俺も、あそこで九枚を認めさせるほうを選んだ」
「でも、代わりの仕入れ先がないわ」
「だから作る」
「簡単に言わないで。麦は袋で歩いてこないのよ」
「麦が歩かないなら、運ぶ道を作る。そこまでは見えた」
セラフィーナは眉を寄せたまま、外套から握り飯の包みを二つ取り出した。どちらも少し潰れている。
「食べるのか」
「決着はしたわ」
「負けたのに?」
「金貨九枚は認めさせたもの」
片方を俺へ突き出した。
「そっちは、荷物持ちの取り分よ」
「会計責任者の取り分も、同じでいいのか」
「寝不足で、食欲がないだけ」
そう言った女が、自分の握り飯を三口で食べた。
◇ ◇ ◇
帰り道で、雨に降られた。
宿へ転がり込んだ時には、二人ともずぶ濡れだった。
マーサは買い出しでいない。俺は乾いた布を二枚出し、一枚を投げた。
セラフィーナは髪を隠していた布を外した。濡れた白金が頬へ張りつき、本人はそれをどうしていいか分からない顔をしている。
「貸せ。後ろは自分じゃ拭きにくい」
「できるわ」
「さっきから同じ場所しか拭けてない」
彼女は布を持ったまま、しばらく俺を見た。
それから背を向け、ほんの少しだけ顎を引く。
布越しに髪を挟み、水気を取る。最初は肩に力が入っていたが、しばらくすると抜けた。
「痛くないか」
「……平気よ」
「ならいい」
髪の先まで拭く頃には、その重さをこちらへ預けてきた。
目を閉じたまま、俺の手に任せている。
「セラ」
呼ぶと肩が跳ねた。
「な、なによ」
「終わった」
「そう」
振り向くのが妙に速かった。
顔が近くなる。
濡れた睫毛の先に雫が残っていた。彼女の手が伸び、俺の前髪から雫を拭う。指先が額に触れたまま、止まった。
どちらも動かなかった。
先に目を逸らしたのは、セラフィーナだった。
「……在庫を数えるわ」
「いま?」
「いまよ。濡れた髪を見ていても、麦は増えないでしょう」
布を抱えるように持ち、厨房へ逃げていった。
俺も布を片づけ、厨房の貯蔵棚を開けた。
麦粉はあと一日半。
油はあと二日。
塩はあと四日。
数字を書き終えたセラフィーナが、紙を握った。
まだ少し湿った髪が、頬へ一筋だけ張りついている。
「金貨九枚は取り返すわ」
「ああ」
「でも、その前に」
「明日の飯だな」
帳簿の外で、荷車を走らせる必要があった。




