第7話 六人分の朝食
計画表の墨が乾いた翌朝。
夜明け前の厨房は思ったより騒がしい。
竈の火が爆ぜる。鍋が湯気を噴く。マーサが豆を掻き回す。そこへ、階段の軋みがひとつ。
「品書きは帳場に置いたわ。釣り銭も数えてある。あなたは看板を出して」
降りてくるなりセラフィーナが言った。空はまだ白んでもいない。
「おはよう、くらい言ったらどうだ」
「おはよう。看板を出して」
命令形の朝の挨拶だった。だが帳場を見れば、俺の分の段取りまで組んである。看板の横に釘と槌、貸し出し用の古い雨具まで一揃い。言われる前に、こっちの手順の先を読んでやがる。
俺が看板を担いで戻るまで、彼女は扉の閂に手をかけたまま待っていた。開けるのは、俺が中に入ってからだ。誰が決めたわけでもない。ただ数日のうちに、そういう順番になった。
一人目の客は、夜明けの薄闇と一緒に入ってきた。
革の背負い荷を下ろしもせず、「飯が食えるってのは本当か」と言う。出したばかりの看板を見たらしい。
「豆と干し肉のスープ、黒麦パン、ゆで卵。銅貨八枚です」
「もらう」
行商人は、湯気ごと掻き込んだ。うまいともまずいとも言わない。ただ、匙が一度も止まらなかった。空の椀の横に銅貨を八枚並べて、男は腰を上げかけ、思い出したように聞いた。
「……弁当ってのは」
「堅パンに燻し肉と酢漬け野菜。銅貨十枚。次に泊まる時、包み布を返してくれりゃ、麦酒を一杯つけます」
「もらう」
その朝の客は三人だった。十食の見立てには遠い。それでも、昨日まではゼロだった。
◇ ◇ ◇
昼は街道に出た。
御者が馬に水をやる場所へ椅子を二つと、井戸で冷やした水瓶を運び込む。売り込みはしない。通りかかった御者に、冷えた水を汲んで渡すだけだ。
「……いくらだ」
「ただですよ。うちの井戸は、水だけは自慢でね」
初日の御者は、疑う顔で飲んで、疑う顔のまま行った。二日目の御者は、椅子に四半刻座っていった。三日目には初日の御者がまた通りかかって、今度は自分から馬を止めた。
「あんた、ともしび亭の若旦那だろう。妙な商売をするね」
「商売はしてませんよ。水を配ってるだけで」
「それを商売って言うんだよ」
御者は笑って、弁当を二つ買っていった。
銀貨に刻まれた《三日》は、もう過ぎていた。灰色の男は戻らない。意味の分からない銀貨だけが、帳場の引き出しに残っていた。
◇ ◇ ◇
朝食を始めて四日目。
早発ちの客を二人送り出して、鍋の残りを数えていた頃。街道の方から、聞き慣れない音が近づいてきた。車輪が四つに、馬が二頭。乗合馬車の音だ。
乗合馬車は、うちの前で停まった。
御者台から降りてきたのは、弁当を二つ買っていったあの男だった。
「休憩だ! 四半刻!」
客車の扉が開いて、乗客がぞろぞろと降りてくる。一人、二人——六人。
六人だ。
あの夜、彼女が紙の上に置いた数字と同じ数が、うちの土間に立っている。
「いらっしゃいませ。朝食は銅貨八枚。席は暖炉の前が空いてます」
帳場のセラが何でもない顔で品書きを掲げた。髪は布で包み、指には灰が残っている。どこから見ても、湯治に来た宿の手伝いだ。俺にだけ見える角度で、指を六本立ててみせる。
「先に二人、食わせてくれ」
御者が扉際の母子を顎で示した。
「川向こうで降りる。あと、その子は干し肉が食えん」
初めて乗合馬車を迎えた日に、品書きにない注文が来た。
「二人は戸口の卓へ。残り四人は暖炉前で、湯を先に出します」
俺は椅子を入れ替え、母子の荷を扉の脇へ寄せた。出発時に、ほかの客を立たせずに済む。
「肉なし一食。卵を一つ増やして、銅貨七枚」
セラが勘定札を書き替える。
マーサは塩水で戻してあった豆を小鍋へ移し、卵を落とした。俺が馬の水を替えて戻る頃には、最初の二椀が戸口の卓に並んでいる。
「熱いから、先にパンをお食べ」
子どもが頷く。その間に、セラは残り四人から銅貨を受け取り、食べ終わる順に弁当の注文まで取っていた。
俺が空の盆を差し出す。セラが次の椀で埋める。彼女が指定した卓へ、俺が匙を足す。マーサが鍋の底をさらう。
六人目の椀を置くまで、誰の足も止まらなかった。
六人が食い終わる頃には、鍋の底が見えていた。
うまいと声にしたのは乗客一人だけだった。六つの椀が空になる頃、マーサが御者へ七つ目を出す。御者の食事は、計画どおり無料だ。それでも男は空の椀の横へ銅貨四枚を置いた。
「次も、ここで停める」
御者は腰の革鞄から折り畳んだ紙を出した。乗合馬車の停車帳だった。町ごとの休憩先と、井戸、飼い葉、食事の有無を書き込む欄がある。
「俺の一存で正式な停車地にはできん。だが休憩先には載せられる。載せた宿には、街道役所から通行止めや手配の更新も回る。井戸あり、朝飯あり、馬の水は無料。これでいいか?」
「ええ」
俺より先に答えたセラフィーナが、差し出されたペンを受け取った。
宿名を書く手は堂々としていたのに、最後の署名欄で一度だけ止まった。
彼女は俺へペンを押しつけた。
「宿主の仕事よ」
俺が署名すると、その横へ小さく《会計確認済み》と書き足した。
馬車が街道の先に消えたあと、俺とセラフィーナは土間の隅で、しばらく並んで立っていた。
「……回ったわね」
「回ったな」
それだけだった。それだけの会話が、妙にうまい酒みたいだった。彼女の額に汗が浮いて、後れ毛が頬に貼りついている。指摘はしないでおいた。俺も似たような顔をしてるはずだ。
「紙の上の数字が、飯を食ったわ」
「ああ。銅貨も置いてった」
セラフィーナは帳場へ戻り、六枚の勘定札を端まで揃え直した。二度も。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、俺は町へ弁当を届けに出た。
粉屋と金物屋。どっちも朝の早い商売で、うちの弁当を昼飯に取ってくれるようになった、最初の二軒だ。
届けたついでに、頼み事をひとつ。
「ドッソから仕入れた納品の控えを、写させてもらえませんか。セラが印をつけた日付と同じ分だけでいい。品目と値段もお願いします」
粉屋の親父は、太い眉を寄せた。
「……何に使うね」
「ドッソとの話に使います。商業組合へ証拠として出すこともある。署名のない紙では役に立たない。嫌なら断ってください」
「ドッソの旦那とやり合う気かい」
「やり合うかどうかを、決めるための紙です」
親父はしばらく黙って、帳場の綴りを差し出した。
「……先代には世話になった。写しな」
金物屋でも同じように署名をもらえた。同じ日に同じ品を、ドッソが他所へいくらで卸したか。うちの帳簿と並べれば、差額は言い逃れのできない数字になる。
帰り道、商業組合の出張所に寄って、段取りをもうひとつ。升と樽を、組合員の前で量り直す。
「量り直すのは勝手だがね」と、番の組合員は面倒くさそうに言った。「揉め事なら、御免だよ」
「揉めないための立会いですよ。うちで勝手に量ったんじゃ水掛け論だが、組合の人が見てれば、数字は数字だ」
「……ま、それも仕事のうちか」
夕方、うちの土間で、組合員の立会いのもと升と樽を量り直した。升は縁を削られ、正しい量より一割少ない。油樽は上げ底で、入っていた油は表示の八割だけだった。
組合員は仏頂面のまま、量り直した数字に署名して帰っていった。
◇ ◇ ◇
夜。帳場で、この四日の勘定を締めた。
朝食が延べ二十一食。弁当が十七。乗合馬車の停車が一回。売上を銅貨で積んで、食材と薪を引いて、残りは銀貨一枚に届かない。
「届かないわね」
「届かないな。だが、ゼロだった朝の商売が、銀貨一枚弱だ」
帳場の奥の木箱に銅貨を移す。返済箱。金貨四十三枚への最初の一掴みだ。音だけは、やけに景気がよかった。
セラフィーナは傍らで、叔父の代の古い仕入れ帳をめくっていた。昼にもらった納品控えと、突き合わせるためだ。
「ねえ。あなたの叔父様、御者の名前まで書いてあるわ。どの馬車で、何刻に着いたかも」
「またか。天気と馬の替えまで書く人だぞ」
「発想があなたと同じよ。宿で客を待つだけでなく、御者へ目を向けていたの」
「……そうかい」
褒められたのは俺なのか、死んだ叔父なのか。どっちにしても、悪い気はしなかった。
銅貨を数え終えた手を止めて、彼女がぽつりと言った。
「宿の名が街道の停車帳に載るのは……良いことばかりでは、ないわね。名の知れた場所は、探しやすい場所よ」
俺は帳面を閉じて、努めて軽く返した。
「だろうな。だが客を減らして返せる借金じゃない。——夜の見回りを、一つ増やす。うちにできる備えは、そういう地味なやつだけだ」
「……そうね」
彼女は銅貨の残りを箱に落とした。乾いた音が二人分の返事の代わりだった。
◇ ◇ ◇
五日目の朝も、上々の滑り出しだった。
マーサが夜明け前から鍋を仕込み、セラフィーナが品書きを書き直し、俺は街道に出す看板の文句を捻り直していた。
そこへ来客だ。
ドッソ商会の使いの小僧が油紙の封書を突き出してくる。
「旦那様からです」
嫌な予感しかない封蝋を割る。
――値上げ通告書。
小麦二割増し、油三割増し、塩と香辛料は四割増し。来週の納品分から適用。理由の欄には白々しく一言。『相場の変化によるもの』。
うちだけ高く買わされていたと見抜かれた腹いせにしては早い。いや、早すぎる。まるで、こっちが反撃の準備を始めたことを知ってるみたいな――
「あと、旦那が言ってやした」
小僧は帰りかけて、思い出したように振り向いた。悪気のない顔だった。
「おたくの新しい女中、どこの『訳あり』だい、って」




