第6話 破綻まで九十日
翌朝、日が昇る前に俺はセラフィーナを宿の外へ連れ出した。
「借金の話をするのではなかったの」
「するよ。その前に、客を見る」
街道はまだ青暗い。店はどこも戸を閉ざし、荷を背負った行商人だけが東へ歩いていた。
「朝飯は?」
声をかけると、男は足を止めずに答えた。
「次の町まで我慢だ。ここらの宿は、日が出なきゃ竈を起こさん」
腹が鳴ったらしく、男は腹巻きを押さえて歩いていった。
セラフィーナが袖から指先だけを出す。
「朝食一人分」
「まだ売ってないぞ」
「失った売上を数えたのよ」
馬へ水をやる広場では、二人の御者が言い争っていた。
「次は川向こうで止める」
「遠い。客が先に参るぞ」
「なら、おまえが休ませる場所を探せ」
水だけ飲ませ、二台とも町を抜けていく。休む場所は決まっていないらしい。
その先で、杖をついた老夫婦に呼び止められた。
「東山の湯へ行くんだが、酒場から離れた静かな部屋のある宿を知らないかね」
「ともしび亭にあります。今夜なら二階の奥が空いてますよ」
答えると、妻のほうが夫の肘をつついた。
「帰りに泊まりましょう。前の宿は、夜じゅう酒場の音がしてねえ」
三組を見送ったところで、セラフィーナが俺を見た。
「腹を空かせた行商人。休憩先のない馬車。静けさを買いたい湯治客」
「客がいないんじゃない。うちが、通り過ぎる客を拾ってない」
「では、宿へ戻りましょう」
歩みが急に速くなった。
◇ ◇ ◇
一番大きな卓へ宿の恥を全部並べた。
商業ギルドの借用証書、催促状が三通、古い帳簿が五冊、昨夜セラフィーナが組み直した新しい帳簿が一冊。
「借金は金貨四十枚。期限は秋の収穫祭」
「あと九十日。利子を入れれば、用意するのは金貨四十三枚。今の売上を九十日続けても、よくて金貨十二枚ね」
「三倍半か」
「それと、出ていく金にも穴があるわ」
仕入れ帳を開き、小麦と油と塩の欄を示す。
「先代の頃の相場と請求額を並べると、三年で銀貨三十枚前後。ただし、古い紙が何枚か抜かれている。升と樽も実際に量るまでは、返せと言える額ではないわ」
「そっちは証拠を揃えてからだ。先に、今朝の三組を金にする」
夜明け前の朝食は、豆と干し肉のスープ、黒麦パン、ゆで卵。銅貨八枚。
「原価は三枚ほど。暗いうちに食べるなら、速くて、熱くて、腹に残るほうがいい」
「朝食を十食。売れ残りにくい弁当を八食」
セラフィーナのペンが走る。
弁当は、堅パンに燻し肉と酢漬け野菜。包み布を返せば、次の泊まりで麦酒を一杯つける。
「布の原価が下がる。再訪の理由にもなるわ」
「馬車には、休憩を売る。御者の飯と馬の水は無料だ」
「無料?」
「停める場所を決めるのは客じゃない。手綱を握ってる男だ。明日から水場へ椅子と冷たい水を持っていく。売り込むのはそのあと」
「回りくどいわね」
「毎日売り込まれてる人間は、売り込まない相手の話だけ聞く」
「乗合馬車は一台で、だいたい六人乗せてくる」
セラフィーナは《馬車一台 六人》と書き、御者一人分の原価を加えた。
「朝食と弁当、馬車の客。食材、薪、廃棄、御者の無料分を引いて、一日で銀貨一枚半ほど。九十日で金貨二十七枚」
「今のまま稼げる十二枚と合わせて、三十九枚。あと四枚だ」
俺はさっきの老夫婦を思い出した。
「二階の奥二室を、湯治客向けにする。酒場の音が届きにくい部屋と、部屋まで運ぶ夕食をまとめて売る」
「二室を合わせて八十泊。今の料金との差を一泊銅貨二十五枚にできれば、金貨四枚」
「高いか?」
「さっきの二人には、先に値段を言わなかったわね」
「あ」
「今夜、確かめなさい。払わないなら、計画を直す」
紙の隅へ《要・聞き取り》と書かれた。
「部屋を増やす手は?」
彼女が二階を見た。
「突き当たりの区画は、先代の頃から閉めてる。床と壁を直すだけで金貨三枚はかかる」
「なら数えないわ。裏の浴場跡は?」
「東山の湯を引こうとして、途中で崩れた。石積みから直す金はない」
「夢だけは多い宿ね」
「叔父の置き土産だよ」
彼女は閉鎖区画と浴場へ二本の線を引き、紙の下端に《返済後》と書き直した。
四十三枚の横へ丸ではなく細い線が引かれた。
「一つ外せば足りないわ」
その下へ《予備・金貨五枚》と書き足す。
気づけば、卓の水差しは空になっていた。
顔を上げると、セラフィーナがすぐ近くにいた。俺の紙へ数字を書き足すため、いつの間にか卓を半周していたらしい。重なった袖には目もくれず、数字ばかり見ている。
「顔がにやけてるわよ」
「そっちこそ。頬にインクがついてる」
彼女は慌てて頬を拭いた。反対側を。
インクが伸びた。俺は、黙っておくことにした。
◇ ◇ ◇
夕方、厨房から湯気の壁が押し寄せてきた。
「話は聞いたよ。夜明け前の飯だろ」
マーサが竈に鍋を三つ並べていた。早い。頼む前に試作が始まってる。
「豆と干し肉のスープ。水加減と仕込みで三通り作った。食べ比べな」
一杯目は、普通にうまかった。二杯目で、俺は匙を止めた。
豆が煮崩れる寸前で止まってる。干し肉の塩気が汁全体に回って、冷めても味が痩せない濃さだ。
「ばあさん。これ何を足した」
「豆を朝から薄い塩水に漬けておいただけさ。先代がやってた仕込みだよ。手間はかからない、忘れられてただけ」
セラフィーナは無言で二杯目を飲み干した。匙を置いて言った。
「銅貨八枚では安いわ」
「値上げするか」
「しないわよ。安いと思わせて、通わせるの。行商人は口が軽い。この味は、街道を勝手に歩いて宣伝してくれる。看板になるわ」
マーサがけらけら笑った。
「あんたたち、朝から晩まで数字数字って。飯は数字で食うもんじゃないよ」
「いや、ばあさん。あんたの飯は数字になる」
俺は三杯目の鍋を覗き込みながら言った。世辞じゃなかった。
「この宿の一番の武器はあんただ。今日、はっきりわかった」
「おだてても賄いしか出ないよ」
マーサは背を向け、三つ目の鍋の蓋をきっちり置き直した。
◇ ◇ ◇
夜。
計画表の清書が終わったのは、蝋燭が二本目に替わった頃だった。
マーサはとっくに帰った。厨房で白湯を二杯用意して戻ると、セラフィーナは卓に頬杖をついて計画表を眺めていた。
蝋燭の灯りで、伏せた睫毛が揺れている。
「ねえ」
白湯を受け取ると、彼女は視線を落としたまま言った。
「なぜ、捨てられた女にここまでするの」
命令形じゃなかった。
「雇い主が従業員の働きに報いるのは当然だろ」
「はぐらかさないで」
彼女は計画表から目を上げない。
「わたしは荷物よ。置けば追っ手が来る。飯代もかかる。皿は割る。数字で見れば、どこから見ても損だわ。あなたは数字のわかる男よ。なのに」
俺は白湯を一口飲んだ。
「捨てられた宿と捨てられた女なら、気が合うだろ」
彼女が顔を上げた。
彼女は一度まばたきをした。口の端がわずかに持ち上がる。
笑いかけて――やめた。
セラフィーナは自分の口元に指先を触れ、首を傾げた。
「……変な男」
彼女は白湯に口をつけて、それきり黙った。
俺も黙って向かいに座っていた。蝋燭の芯が小さく爆ぜた。
やがてセラフィーナは立ち上がり、空の椀を二つ重ねた。
「これは、わたしが片づけるわ」
「割るなよ」
「今日のわたしを、昨日のわたしと一緒にしないで」
胸を張って厨房へ向かい、敷居の手前で足を止める。
こちらを振り返り、今度こそ何も言わずに行った。
椀の触れ合う音はしたが、割れる音はしなかった。
卓に残った計画表の一行目には、彼女の字で《明朝 十食》とあった。
窓の外の街道には、まだ誰もいなかった。




