第5話 帳簿を勝手に直した女
セラフィーナが宿に来て五日目の夕方だった。
彼女は貯蔵庫から油差しを持って出てくると、厨房の使用控えを卓へ置いた。
「マーサ。ここ三日、揚げ物を増やした?」
「いいや。あんたが来てからも、鍋の中身は同じだよ」
「では、減り方が合わないわ」
答えるなり、また貯蔵庫へ戻る。油樽の残りを棒で測り、塩袋を持ち上げ、今度は帳場から仕入れ帳を抱えてきた。
人の返事を待たず、宿の中を行ったり来たりする。帳場、厨房、貯蔵庫。往復するたび、腕の帳面が一冊ずつ増えた。
その脇では、昼に畳ませたシーツが小さな塔のような形で自立している。
「畳んだのよ。布の目に沿って折ったわ」
「シーツは立てて保管しないよ」
マーサが三秒で平らに直す。セラフィーナは油樽より険しい目でその手順を見ていた。
「帳面は元の順で戻せよ」
「当然でしょう」
その返事を信じて、俺は先に寝た。
◇ ◇ ◇
目が覚めたのは物音のせいだ。
階下でかたんと何かが鳴った。
(泥棒か。それとも——)
あの灰色の男の顔が浮かんで、背中が冷えた。俺は音を立てずに部屋を出た。武器はない。仕方なく厨房の前で麺棒を拾った。戦闘力皆無の男の精一杯だ。
階段を半分降りたところで、足が止まった。
帳場に灯りが見えた。
蝋燭が三本、惜しげもなく燃えている。闇に沈んだ宿の中で、そこだけが昼だった。
空気にインクの匂いが混ざっている。夜の宿の匂いじゃない。役所か商会の執務室の匂いだ。
その灯りの中に彼女がいた。
寝間着の袖を肘までまくり上げて、床に座り込み、ペンを走らせている。唇がかすかに動いていた。声には出さずに数字を数えているんだ。
横顔から一切の氷が消えていた。
傲慢も皮肉もない。ただ紙と数字だけを見ている顔。蝋燭の火が揺れても、瞬きひとつしない。
俺は数秒その横顔に見入って——我に返って、視線を下げた。
帳場が戦場になっていた。
叔父の代からの仕入れ帳と出納帳が全部引っ張り出され、綴じ紐をほどかれ、一枚ずつばらされて、床まで並んでいる。三年分だ。しかも、でたらめに散らかっているんじゃない。日付順、品目別。几帳面に列を成して、床を埋めている。
「勝手に何してる!」
今度こそ、声が出た。
「帳簿は宿の心臓だぞ。ほどくやつがあるか!」
「静かになさい。夜よ」
「誰のせいだ!」
彼女は顔も上げなかった。
「ひどい帳簿だったから、直しているの。感謝しなさい」
そこでようやく彼女は視線だけをこちらに寄越した。正確には、俺の手元に。
「……その麺棒は何」
「泥棒対策だ」
「宿の主人の武器が麺棒一本。心強いこと」
「悪かったな。うちの武器庫は厨房なんだ」
話が逸れた。逸らされたのか。
「感謝……?」
言葉を叩きつけてやろうと、彼女の手元を覗き込んで。
俺は絶句した。
新しい紙の上に直近三か月分の表が組まれていた。左右二列、借方と貸方。日付、勘定、相手先、金額。仕入れは費用に、部屋代は収益に。借金は負債に振り分けられて月ごとに残高が締められている。
字は定規で引いたように揃っていた。紙の隅には検算の跡。左の合計と右の合計が三か月ともぴたりと一致している。
(——これは)
前世で嫌というほど見た形式だ。俺の知る言葉で言うなら複式簿記。この世界の商人が使うのは金の出入りを一列に書くだけの単式帳簿のはずだ。それがなぜここにある。
「これ……誰に習った」
「習う? いいえ」
彼女は初めて顔を上げた。心外だという顔で。
「王都の会計官が使う対照帳簿よ。本物はもっと複雑だけれど、この程度の宿なら二列で足りるわ。片側だけ記録するから嘘が混ざるの。金銭が動けば必ず理由が対になる。両側を書いて突き合わせれば、帳尻の合わない嘘は自分から浮き上がってくる。当然でしょう」
当然じゃない。俺は喉の奥でうなった。
「複式簿記に近い。……いや、ほとんど同じだ。俺が前世で——いや、俺が昔どこかで見たものと、ほとんど同じ形だ」
「前世?」
「言葉のあやだ。気にするな」
誤魔化しながら内心で舌を巻いた。王都の会計官が使う仕組みをこの女は宿一軒の規模に組み直している。
「三年分を全部やったのか」
「まさか。全部ではないわ」
彼女はあっさり首を振った。
「宿全体を組み直したのは直近三か月だけ。三年前まで遡ったのは仕入れ帳と主要な品目よ。怪しい数字を先に洗っただけ。……それでも面白いものが出たわ」
彼女は別の紙を突き出した。几帳面な字で品目と数字がびっしり並んでいる。
「ドッソ商会の納品価格を三年分、品目ごとに並べ直したの。塩、ランプ油、小麦粉、蝋燭。ここ——三年前の秋の小麦を見なさい」
「……納価が上がってる」
「そう。でもその年の秋は豊作だったわ。街道の相場は下がっていたはず。相場が下がる時期を狙って納価だけ上げているの。翌年の春も同じ。逆は一度もない。偶然でこうはならないわ」
早口だった。
いつもの命令形の氷が溶けて、言葉が転がるように出てくる。頬が蝋燭の灯りで上気して、目が輝いて、まるで別人だ。
説明しながら、指はもう次の紙を探り当てている。目は俺を見ていない。数字を見ている。それなのに声だけは弾んでいる。歌ってるみたいに。
「しかも上げ幅が巧妙よ。一度に一割五分を超えない。素人の帳簿では気づけないほど絶妙な線よ。褒めてあげてもいいくらい。ランプ油は逆の手口。樽を小さくして単価を据え置いたの。量あたりで見れば二割の値上げよ」
「樽の大きさなんて、帳簿に書いてないだろ」
「仕入れ帳と厨房の使用記録を突き合わせたの。同じ銅貨で買った油が年々早く切れている。マーサの使い方が急に贅沢になったのでなければ、答えはひとつ。それから塩。こちらは升の底が怪しいわ。明日、実物を測りなさい」
「升まで疑うのか」
「疑うんじゃないわ。確かめるのよ。数字が変だと言っているんだもの」
彼女は組み上げた紙の端をとんと指で叩いた。
「合わせて三年で抜かれた総額は——今見えているだけで、ざっと金貨六枚。升と樽の実物を測れば、もっと増えるでしょうね」
「金貨六枚……」
借金の四十枚に頭を殴られていて気づかなかった。血は静かに抜かれ続けていたわけだ。
「あなたの叔父様は良い人だったのでしょうね。良い人の帳簿は獲物の匂いがするもの」
「……人はいいのに書くことだけは細かい人だったらしいな」
「ええ。仕入れ帳の隅にその日の天気と馬の替えと荷の着いた刻限まで書いてあるわ。値切りには一行も使っていないけれど」
「若い頃、荷改め所で働いてたそうだ。マーサから聞いた。書く癖だけ残ったんだろ」
「癖でここまで書ける人はいないわよ」
彼女はその話をそこで畳んだ。数字のほうが大事らしい。
「……あんた、それをこの数日の合間に一晩で?」
「一晩あれば十分よ。ヴァンドール領の決算は毎月この二十倍あったわ」
「領地の決算を? あんたがか?」
「当主が締めていたと思う? 父は決裁印を押すだけの人だったわ。数字は読まなかったの。読めないんじゃなく、読まないの。数字を読むのは使用人の仕事だと思っていた。貴族というのはそういう——」
そこで言葉が切れた。
彼女は自分の口を軽く睨むように黙って、それから何事もなかったようにペンを取り直した。仮面が戻る。だが遅い。聞こえていた。
(公爵家の領地経営を実際に回してたのはこの人だ)
蝋燭の下で唇だけを動かす姿が簡単に浮かんだ。
毒の件の真相は俺には分からない。断片だらけのゲーム知識は証拠にならない。ただ——少なくともこの人は、俺が断片的に知る〝悪役令嬢〟という一言では収まらない。
王国はとんでもない人材を捨てやがった。
「何よ、その顔」
「いや」
俺は床に散った紙をまたいで、隣にしゃがんだ。
「手伝う。読み上げるか」
「触らないで。順番が狂うわ」
「俺の宿の帳簿なんだが」
「今はわたしの戦場よ」
言い返す言葉もなく、俺は隣で紙を眺めることになった。
近い。
まくった袖から伸びる腕が蝋燭の灯りで白い。右手の指先は三本ともインクで黒く汚れて、ほつれた白金の髪が首筋に貼りついている。彼女は説明に夢中で距離を測っていない。紙を指すたび肩が触れそうになる。石鹸と紙とインクの匂いがした。
皿を割る手が数字の上でだけ迷いなく動く。
俺は目のやり場に困って、帳簿を見た。数字なら、少なくともこっちの顔を覗き込んではこない。
ふと見れば、彼女は裸足だった。板の間に直に座って何刻になる。俺は上着を取りに二階へ上がった。
廊下の突き当たりにある、先代の頃から釘で封じられた古い戸の前を通る。戸の下の隙間で紙切れの端がかすかに揺れていた。隙間風か。この宿はどこもかしこも建て付けが古い。
部屋から上着を取ってきて、階段を降り、彼女の肩にかけた。
「……何」
「夜は冷える。風邪の治療費も必要経費になるんでな」
彼女は言い返さなかった。上着の前を片手で少しだけ引き寄せ、それでもペンは止めなかった。
「なんでここまでやった。頼んでないぞ」
「わたしは数字しか信じないの」
即答だった。
「人は嘘をつくわ。笑顔でも、誓いでも、法廷でも。でも数字は裏切らない。嘘をつくのは数字を書く人間の方。だから裸にして並べ直せば、真実だけが残る。……この宿がわたしを置いている理由も数字で知りたかった」
最後だけ少し声が小さかった。
「で、答えは出たのか」
「ええ」
彼女は組み上がった帳簿の最後の一枚をめくった。そこだけ大きく数字が書かれている。収支の先を月ごとに延ばした見立てだ。前世なら資金繰り表と呼ぶやつ。
嫌な予感がした。この形式の最後の一枚で良い報せを見たことがない。
「聞きたくないと言ったら」
「聞かせるわ。あなたの宿の話よ」
「蝋燭三本も使った甲斐があったってことか」
「五本よ。二本は燃え尽きたわ。必要経費として計上済み」
「勝手に計上するな」
「この帳簿は蝋燭五本より価値があるわ。いいから聞きなさい」
セラフィーナは立ち上がった。
肩から俺の上着が滑り落ちる。彼女は気にも留めなかった。
寝間着姿でインクに汚れた指のまま、それでも法廷に立つような顔で、彼女はその一枚を俺に突きつけた。
「結論を言うわ。この宿——三か月で、潰れる」




