第4話 帰る場所のない朝
灰色の男を見送った朝も、心臓はまだうるさかった。
帳場の引き出しには王家の刻印が入った銀貨が一枚。
裏には針で引っかいたような文字がある。
【三日】
期限か。猶予か。ただの目印か。
分かるのは宿代じゃないってことだけだ。
「受け取っておきなさい」
振り向くと、セラフィーナが階段の下に立っていた。
屋根裏へ隠れたせいで、白金の髪に埃がついている。いつものように背筋は伸びているのに、右の袖だけが裏返ったままだった。
「銀貨一枚。今のあなたには大金でしょう」
「そうだな。うちの素泊まりなら、十六人分だ」
「なら、使いなさい。わたしは今日中に出ていくわ」
「どこへ」
返事がなかった。
「行き先を聞いてる」
「あなたに教える必要はないでしょう」
「ない場所は教えられないもんな」
菫色の目がきつく細くなった。
図星だったらしい。
「この銀貨が何を命じているかはまだ分からない」
「分からないから危険なのよ」
「それは同感だ。だから、分からないものに従って客を追い出す気はない」
「わたしは客ではなく、従業員よ」
「辞めるつもりなら、最後の朝飯まではうちの客だ」
「ずいぶん都合のいい勘定ね」
「宿主の特権だよ」
俺は銀貨を引き出しの奥へ戻した。
使う気はない。意味が分かるまで、預かっておく。
「それと、袖」
「袖?」
指さすと、セラフィーナは初めて気づいたらしい。裏返った右袖を見下ろし、さっと背中へ隠した。
「屋根裏が暗かっただけよ」
「何も言ってない」
「いま笑ったでしょう」
「笑ってない」
「口元が動いたわ」
朝からよく見てやがる。
彼女は背を向け、片手で袖を直しながら階段を上がった。踊り場まで行ってから、白金の髪についた埃を一度だけ乱暴に払う。
「朝食ができたら呼びなさい」
「出ていくんじゃなかったのか」
足音が止まった。
「朝食までは客なのでしょう」
それだけ言って、今度こそ上がっていった。
◇ ◇ ◇
その日は何事も起きなかった。
何事も起きないってのは、脅された側にとって案外きつい。
街道を荷馬車が通るたび戸口を見る。客が椀を置くたび銀貨の裏を思い出す。セラフィーナは帳場で古い納品書を並べていたが、車輪の音が近づくたびペン先がほんの少し止まった。
それでも夕方までに麦粉の請求書を二枚、日付順に分けた。
「休めよ」
「仕事の途中よ」
「その紙、さっきから同じところを三度読んでる」
「……字が汚いの」
「叔父の字は昼から急に汚くなったりしない」
彼女は何も言わず、紙を伏せた。
夜半、自室へ戻っても眠りは浅かった。
どれくらい経った頃か。廊下の向こうで、短い音がした。
悲鳴と呼ぶには小さい。息を呑んで、それでも呑みきれなかったような音だ。
三号室の前まで行くと、中で寝台が軋んだ。
戸を叩こうとして、やめた。
代わりに厨房へ下り、竈の残り火へ細薪を足した。
湯が沸く頃、階段から足音がした。
寝間着代わりに貸したマーサの肌着に肩掛けをきつく巻いている。裸足の爪先が冷えた床板の上で少し縮こまっていた。
「……起きていたの」
「宿の主人は夜中の足音で飯を食ってる」
「水を飲みに来ただけよ」
「夜中の冷や水は腹に悪い。白湯で我慢しろ」
椀を差し出すと、セラフィーナは眉を寄せた。
「砂糖は?」
「そんな高級品はない」
「気の利かない宿ね」
そう言いながら、椀は受け取る。
両手で包み、一口飲んだ。冷えていた指先が白い湯気の向こうで少しずつ色を取り戻していく。
「……夢見が悪かっただけよ」
聞いてもいないのに、彼女が言った。
「そうか」
「詮索しないの」
「客の夢は宿帳に書かない主義でね」
椀の縁へ口をつけたまま、菫色の目だけがこっちを見た。
「従業員の夢なら?」
「朝の仕事に響くようなら、白湯を出す」
「同じではないの」
「砂糖がない分、従業員のほうが安上がりだ」
ふ、と湯気の向こうで、短い息がこぼれた。
だがすぐに椀を持ち上げ、口元を隠された。
俺は竈の火を突いた。薪が小さく爆ぜる。
しばらくして、彼女が言った。
「……宿を立て直す手順にずいぶん慣れているのね」
「前にいたところではな」
「どうやるの」
命令でも、皮肉でもなかった。
「まず数字を見る。金がどこから入ってどこへ漏れてるか。その次に人だ。できることと置かれた場所が合ってるかを見る」
「合っていなければ?」
「選び直せるようにする。決めるのは本人だ」
セラフィーナは椀の中を見た。
「それで、本当に立ち直るの」
「全員じゃない。だが、立ち直る奴はいる」
「無責任な答えね」
「できなかった奴まで、できたことにするよりましだろ」
返事はなかった。
空になった椀をまだ両手で抱えている。
「……ごちそうさま」
立ち上がり、二歩進んでから振り返った。
「白湯にしては悪くなかったわ」
「及第点にも届かないのか」
「砂糖がなかったもの」
今度は笑ったのが分かった。
ほんの一瞬だけ。けれど隠すのが遅れて、本人もそれに気づいたらしい。肩掛けを鼻先まで引き上げると、逃げるみたいに階段を上がっていった。
卓には空の椀だけが残った。
取っ手のない椀をあれだけ大事そうに抱える客は初めてだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
三号室はもぬけの殻だった。
寝台は角まできっちり整えられ、借りた服は洗って畳んである。乾ききらなかった袖だけは窓辺へ向けて広げてあった。
卓の上には指輪がひとつ。
その下に紙が挟まっている。
『一晩の宿代と白湯の代金。釣りは要らないわ。あなたの宿は』
そこで一度、強く線を引いて消してあった。
その下に小さく書き直してある。
『悪くなかった』
紙の隅にはさらに小さい字で、
『椀は洗ってあります』
とあった。
一番どうでもいいところだけやけに丁寧だ。
俺は指輪を掴み、外へ出た。
朝もやの街道を見渡す。
宿から百歩も行かないところにセラフィーナはいた。
街道は王都へも、東の村々へも続いている。だが彼女は分かれ道の真ん中で荷物を足元に置いたまま立ち尽くしていた。
王都へは戻れない。流刑地へ向かう理由もない。知り合いを頼れば、その相手まで巻き込む。
道が二本あっても、行き先はひとつもなかった。
俺は彼女の横を通り過ぎ、足元の荷物を拾った。
「……何をしているの」
「朝飯がまだだ」
「わたしは出ていくと」
「聞いた。で、どっちへ行く」
彼女は右の道を見た。次に左を見る。
それから黙った。
「うちなら帰り道は百歩だ」
「帰るとは言っていないわ」
「じゃあ荷物だけ泊める」
「人の荷物を勝手に運ばないで」
取り返そうと伸びた手を避けると、彼女は本気でむっとした顔をした。だが追いかけてくる。
宿の前まで戻ったところで、歩幅が急に小さくなった。
俺より半歩後ろで止まり、扉を見上げる。
「……まだ朝食の時間かしら」
「客なら宿代をもらう。従業員なら賄いつきだ」
「ずいぶん差があるのね」
「どっちにする」
セラフィーナは俺の持つ荷物を見て、それから扉の取っ手へ手を伸ばした。
触れる寸前で一度止まり、袖口を握る。
「賄いの内容を見てから決めるわ」
取っ手を回したのは彼女だった。
中へ入ると、昨夜の椀が水切り棚のいちばん端に伏せてあった。
自分で洗ったくせに、まるで初めからそこが定位置だったみたいな顔をして、セラフィーナはその隣へ新しい椀を二つ並べた。
その朝、セラが割った皿は一枚だけだった。




