第3話 枕の硬さと灰色の客
セラフィーナを雇って二日目の朝だった。
昨夜、街道の向こうに灰色の男を見たあと、マーサと三人で表向きの身元を決めた。
「あたしの姪だ。遠方から来たから、町の者も顔を知らない。それでいこう」
「名はどうする」
「セラでいいわ。呼ばれて振り向けない名のほうがかえって怪しいもの」
「本名に近すぎないか」
「セラフィーナと呼ぶよりはましよ。仕事中も、そう呼びなさい」
六号室に泊まった女客が眠そうな顔で階段を降りてきた。
昨夜、日が落ちてから来た客だ。朱色の肩掛けをした王都帰りの小間物商。宿代は前払い、食事への苦情もなし。問題なく送り出せると思っていた。
「若旦那。ひとつだけ、いいかい」
「どうぞ」
「枕が硬くてね。ほとんど眠れなかったよ」
帳場の脇で皿を拭いていたセラフィーナの手が止まった。
昨夜、寝台を整えたのは彼女だ。客用の枕を四つ並べ、掌で一つずつ押し、いちばん硬いものを選んでいた。
理由を聞くと、「首が沈まないものが最も上等でしょう」と言った。あまりに迷いがなかったので、俺も任せてしまった。
「詰め物は十分に入っていたはずです」
「だから硬かったんだよ」
「頭を支える道具が頭の重さで沈んでは意味がないでしょう」
女客は目を丸くした。それから俺を見た。
助けろ、という目だった。
「セラ。お客さんが欲しいのは一番上等な枕じゃない」
「では、何なの」
「眠れる枕だ」
「同じでしょう」
「同じじゃなかったから、眠れてないんだよ」
セラフィーナは女客へ向き直った。
「……どの程度の柔らかさをお望みなの」
聞き方が仕入れ規格の確認だった。
女客は笑いながら、両手でふわりと丸を作った。
「頭が半分、沈むくらいさ」
「半分」
セラフィーナは復唱し、二階へ上がった。
しばらくして、客室の枕を全部抱えて戻ってきた。食堂の長椅子へ一列に並べ、片端から押し始める。押して、目盛りでも読むように眺め、詰め物を抜いて、また押す。
「そこまでしなくても、次から柔らかいのを出せばいいよ」
「次とは、いつ」
「帰りにも、この街道を使うよ」
「なら、そのとき間違えないようにする必要があるわ」
セラフィーナは女客の名と朱色の肩掛け、それから《枕・柔》を宿帳の余白へ書き足した。
女客が発ったあとも、彼女は枕を押し続けていた。
「硬い、普通、柔らかい。三種類で足りるかしら」
「最初から増やしすぎるな。三つでいい」
「わかったわ」
宿帳の《枕・柔》へ小さく丸をつける。
それから帳面を一つ前の日へ戻した。
そこには俺が書いた《三号室/女一名/名は未記入》がある。事情のある客は名を空けたまま泊める。叔父から継いだ本当の宿帳の決まりだ。
セラフィーナは空いた末尾へ《枕・硬》と書き足した。
「……そっちは誰の好みだ」
「記録は条件を揃えないと比較できないでしょう」
彼女は澄ました顔で帳面を閉じた。自分の名だけは空けたまま、枕の硬さはきっちり残してある。
「次から客へ聞くことが一つ増えたわね」
「失敗した割に、偉そうだな」
「同じ失敗をしなければ、損失ではなく調査費よ」
そう言って、いちばん硬い枕を三号室へ持っていった。
足取りが心なしか速かった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
扉を叩いたのは昨日、街道の向こうから宿を見ていた男だった。
「夜分にすまない。部屋は空いているかね」
灰色の外套。歳は四十絡みで、物腰は柔らかい。名乗りは薬の行商。
だが荷が軽すぎる。靴も良すぎた。差し出された手のひらの付け根には固い剣だこがある。
腰の旅灯には火の代わりに親指ほどの照明石が入っていた。白い光は弱く、男の靴先まで届いていない。
視線は俺に笑いかけながら土間、窓、階段の順に動いた。客室の数と逃げ道を見ている。
「ええ、空いてますよ。ただ夕食はもう終わってまして。白湯と部屋の支度に少々お時間を」
「構わないよ。急がない旅だ」
俺は愛想笑いのまま厨房へ引っ込んだ。
セラフィーナの腕を掴む。
「ちょっと。何のつもり――」
「声を落とせ。たぶん、あんたを探しに来た」
菫色の目が旅灯へ向いた。
「……急がない旅人が宿場で灯し直しもせず、照明石をあそこまで弱らせるかしら」
「俺もそう思う」
表情が一拍で冷えた。
「マーサ。布をくれ。それと竈の灰を」
「あいよ」
マーサは何も聞かずに動いた。
白金の髪を布で包み、後れ毛まで押し込む。それから手の甲へ灰を擦り込んだ。
「……昨日は皿で、今日はわたし。あなた、灰に頼りすぎではなくて」
「貴族の手は目立つ。水仕事をしない手は甲が光る。爪の際が白い」
彼女は自分で灰をつまみ、爪の際まで擦り込んだ。
「歩き方も変えろ。床の真ん中を踏みすぎる。背筋も伸びすぎだ」
「姿勢を教え込まれた人間は、崩し方も知っているわ」
肩が落ち、歩幅が狭くなる。さっきまで枕を抱えて二階を行き来していた女が腰を庇う湯治客へ変わった。
大したものだ。見ている場合じゃないが。
◇ ◇ ◇
男は白湯を舐めながら、長い世間話をした。
街道の景気。麦の値。王都の流行り病。話題は当たり障りがないのに、質問だけが細かい。
「そういえば先日、この街道で護送馬車が壊れたと聞いたがね」
「ああ、車軸をやったやつでしょう。うちの前で往生してましたよ。役人さんたちは大慌てで、王都へ帰っちまいました」
「乗っていた者は」
「さあ。俺は車輪しか見てませんでしたから。商売柄、直せるかどうかのほうが気になりましてね」
嘘は言っていない。事実を全部は出していないだけだ。
男は頷いた。信じた顔ではなかった。
「ときに主人。宿帳を見せてもらえないかね。人を捜していてね」
「人捜し?」
「親族でね。ここひと月の客を確かめたい。手間賃は払うよ」
卓に銀貨が一枚置かれた。
昼間セラフィーナが《枕・柔》と書いた帳面が帳場の下にある。
あれは見せない。
うちの宿帳は二冊ある。検め役に見せる帳面と、床下に沈めた本当の宿泊記録だ。事情を聞かず客を泊めた叔父が残した習慣を俺が継いでいる。
表の帳面には昨日の日付で《セラ/湯治/マーサの姪》とある。本当の帳面には《三号室/女一名/名は未記入》と書いた。
本当の名を記すかどうかは泊まった本人に任せている。
俺は表の宿帳を差し出した。
男は丁寧に紙をめくった。指の運びが素人じゃない。墨の色と紙の継ぎ目を見ている。
《セラ》の二文字で、指が一度だけ止まった。
「……最近、貴族の女を見なかったか」
「貴族様?」
俺は吹き出してみせた。
「うちは素泊まり銅貨六枚の安宿ですよ。貴族様がお越しになったら、俺が拝みますね」
「歳は二十代の半ば。供も連れず、東へ流れたはずだ。白金の髪の女だ」
「白金ねえ。この辺じゃ見ない色だ。いたら、とっくに町中の噂ですよ」
そのとき、厨房からセラが出てきた。盆に白湯の替え。俯き加減。殺した歩幅。
男の視線が灰で荒れた手に落ちる。
「マーサの姪です。腰を悪くして、湯治がてら手伝いに来ましてね」
「湯治? この辺りに湯なんてあったかね」
「東山に鉱泉が湧いてます。ぬるいわりに腰にはよく効くって評判で」
でまかせじゃない。実在する話だけを使う。
「ほう。覚えておこう」
男は椀を受け取った。それきり彼女を見なかった。
見ないことがかえって怖かった。
俺は卓の銀貨を押し返した。
「手間賃をいただくほどの帳面じゃありませんや」
「欲のない主人だ」
男は銀貨を仕舞い、薄く笑った。
◇ ◇ ◇
深夜。二階の床板が軋んだ。
俺は帳場の奥で起きていた。眠れるわけがない。
男は客室を端から検めている。宿帳だけで帰る気はないらしい。
俺は三号室へ滑り込んだ。セラフィーナはもう起きていた。布に包んだ髪もそのままだ。
いや、起きていただけじゃない。
寝台の上掛けは半分まで畳まれ、水差しの中身も捨ててある。朝、自分用に選んだ硬い枕を胸の前へ抱えていた。
「上ね」
「気づいてたのか」
「あれだけ下手に床を踏まれれば、誰でも気づくわ。空室へ戻すのでしょう。何をすればいいの」
「その枕は四号室へ。上掛けは寝台脇の木箱へ。荷物は納戸の空箱へ隠す」
二人で動いた。俺が上掛けを寝台脇の木箱へ押し込み、彼女が枕を隣室の列へ戻す。荷物は納戸の空箱へ運んだ。最後に残った白金の髪を一本、セラフィーナ自身が寝台から拾った。
半年の修繕で、宿の隅々まで頭に入っていた。どこへ何を戻せば、人の泊まった部屋がただの空室へ戻るか、迷いはない。
納戸の天井の点検口から屋根裏へ上がり、梯子を引き上げる。
屋根裏で体重をかけられるのは太い梁一本だけだった。
「掴まれ。板は踏むな」
狭い梁の上で、彼女は俺の背へ張りついた。寝間着の布を握る手に力が入る。
階下で覆いをした角灯が動いた。
錠が鳴る音はしなかった。それでも、三号室の戸が開いた。
木箱。寝台。床。
節穴の下で、男の影が長く止まった。
首筋へ浅い息がかかる。俺の背を掴む指が震えるたびに強くなる。
やがて光は廊下へ戻った。階段を下り、客室の戸が閉まる。
それでも、すぐには動かなかった。
「……重かったなら、言いなさい」
耳元で、威張った小声がした。
「軽くはなかったな」
「落とすわよ」
「先にあんたが落ちるぞ」
寝間着を掴んだ手は離れなかった。
納戸へ降りてから、彼女は髪の布を直した。結び目が一度うまく作れず、二度目でようやく締まる。
「白湯を淹れなさい。……眠れそうにないもの」
「俺も一杯もらう」
「二杯、命じたつもりよ」
厨房の隅で、二人分の白湯を飲んだ。
「あの男は戻ってくるかしら」
「戻らせない算段を明日から立てる。今夜は寝ろ」
「命令しないで」
「ご提案です。お嬢様」
「その呼び方もやめなさい」
椀を置く位置だけはぴたりと揃っていた。
◇ ◇ ◇
男は夜明け前に発った。
「世話になった。いい宿だ」
宿代を几帳面に払い、戸口で一度だけ振り返る。
「仕事でなければ、長居したい宿だった」
その瞬間だけ、商人の顔が消えた。
口を滑らせたんじゃない。聞かせたのだ。逃げても無駄だと。
足音が朝もやに消えてから、男の席を片づけた。
椀の下に銀貨が一枚あった。
王家の刻印。市場にはほとんど流れない王室鋳造の銀貨だ。
裏には爪で二文字が刻まれていた。
【三日】
三日で消えろ。
最初に浮かんだのはそれだった。
だが宿代は別に払っている。殺すだけなら昨夜の屋根裏でできた。銀貨を残す必要もない。
脅しなのか。期限なのか。俺たちに何かをさせるための印なのか。
答えは出なかった。
銀貨を帳場の奥へ仕舞う。
床下の本当の宿帳には、昨日の女客の《枕・柔》と、その下に《名は未記入/枕・硬》が並んでいる。
俺は帳面を元の位置へ戻し、床板を閉じた。
鍵が小さく鳴った。




