第2話 体で払うという話
菫色の石が朝の卓を滑ってきた。
指輪だった。
金の台座に盾と双頭の鷲の細工。昨夜の宿代へ出すには似合わないほど上等な品だ。
「これで払うわ」
向かいに座ったセラフィーナが言った。
「滞在費と昨夜のことの口止め料。釣りはいらない」
朝飯のパンはまだ籠の中にある。卵にも手をつけていない。階段を降りてきて、俺を座らせ、真っ先に指輪を出した。
雨は夜明け前に上がっていた。開けた窓から入る空気は洗い立てのシーツみたいな匂いがする。
朝一番、町の車大工が荷馬を連れてきて、壊れた護送馬車を作業場へ曳いていった。修理代はひとまず町役場の預かりだ。
昨夜、元公爵令嬢を空き部屋へ泊めた俺は、ろくに眠れなかった。
原因の一つは打算だ。王太子暗殺未遂の罪人を置く危険と、借金金貨四十枚の重さを頭の中で量り続けた。答えは出なかった。
もう一つは煩悩だ。こっちは説明を省く。濡れた服の残像が悪いのであって、俺は悪くない。
それにしても、指輪である。
彼女は昨日と同じ旅装を着ていた。白金の髪だけは朝から隙なく結い直されている。手元に残ったものを調べ、宿代へ使える品を選び、朝食より先に借りを消しに来たらしい。
「これしか持ち出せなかったんですか」
「感傷で持ち出したわけではないわ。屋敷の資産で一番小さくて一番高いのが、これだった。それだけよ」
即答だった。
俺は滑ってきた指輪を指先で止めた。
つまみ上げ、窓の光にかざす。
前世でこういう物を見る場には何度も立ち会った。ホテルの備品処分、担保に入った品の査定。専門家ではないが、そばで数字が動くのは散々見てきた。
正確な額までは俺には言えない。ただ、これが本物だということと、宿代をはるかに超える価値があることだけは分かった。
だが。
「受け取れませんね」
「……値が足りないと言うの? この田舎の宿ごときで」
「逆です。良すぎる」
俺は指輪の彫りを彼女に向けた。
「これ、家紋でしょう。ヴァンドール家の」
彼女の眉がぴくりと動く。
「ミレットで宝石を扱える店は一軒だけです。持ち込めば、その日のうちに町中の噂になる。『ともしび亭が公爵家の紋章入りの指輪を売った』ってね。王都まで馬車で十日。噂が走るのはもっと速い」
「紋章くらい削ればいいでしょう」
「削った跡のある宝石を田舎の店に持ち込む。もっと怪しい。換金した瞬間に、あんたの居場所が知れます。口止め料のつもりが狼煙になる」
彼女は黙った。
黙って指輪を見ている。
たぶん本人も分かっていたんだと思う。分かっていて、これしか持っていなかったんだ。
「……そう」
指輪が布に包み直される。その手つきが妙に丁寧で、俺は少し目をそらした。
「なら」
彼女は顔を上げた。表情はぴくりとも動いていない。
「体で払うわ」
「……は?」
「対価は必要でしょう。物がだめなら、残っているのはこれだけよ」
そう言って、旅装の胸元の紐に指をかけた。
躊躇がない。恥じらいもない。市場で銅貨を数えるみたいな顔で、自分を差し出そうとしている。
「昨夜の部屋と食事なら銅貨二十。口止め料は言い値でしょうけれど、法外は認めない。回数と期間はそちらが提示なさい。交渉には応じるわ」
「条件交渉までするんですか」
「取引ですもの。当然でしょう」
正直に言う。
一瞬、頭が真っ白になった。
白金の髪。細い首。紐の下で、わずかに緩んだ襟元。
喉が鳴りそうになった。前世で三十四年生きてきて、こんな直球は初めてだ。
紐が一本ほどけて、肩口の布が下がる。鎖骨が覗いた。
「待った」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
彼女の指が止まる。
「不満かしら。言っておくけれど、男を知らないだけで知識はあるわ。侍女たちの噂話は正確だったもの」
「そういう問題じゃない」
男を知らないのかよ。いや、今はそれはどうでもいい。よくないが、どうでもいい。
俺は息を吐いて、頭を切り替える。欲望のままにうなずくのは簡単だ。だがそれをやったら終わる。この女の中で俺は、「体で払える相手」として確定する。宿の主人としても男としても、最悪の位置だ。
「うちは体で払わせる宿じゃない」
「なら対価がないわ。わたしは施しは受けない」
「施しじゃない。取引をしましょう」
俺はテーブルに指を一本立てた。
「働いて払え。住み込みだ。部屋と飯つき、給金は滞在費と相殺。口止め料は労働力で前払いしてもらう。それなら貸し借りなしだ」
彼女は紐に指をかけたまま、固まった。
「それは……取引として成立していないわ。わたしの労働力に宿代分の価値がある保証が、どこにあるの」
「ない。だから、試用期間つきです。使えなければ解雇する」
「……」
「逆も言っておきます。嫌になったら、あんたはいつ辞めてもいい。雇用ってのは、そういうもんです」
本音を言えば、使えなかったとしても、すぐに放り出す気はなかった。町で別の仕事を探させて、その口が見つかるまでは置くつもりだった。ただこの人には、温情より契約の言葉のほうが通じる。それだけは、もう分かっていた。
「……わたしに働けと言っているの?」
「そうです」
「公爵令嬢に」
「元、でしょう」
我ながら容赦がなかった。菫色の瞳がすっと細くなる。頬に屈辱の血が上るのが分かった。
けれど。
その肩からほんのわずかに力が抜けたのを俺は見逃さなかった。
「……いいわ。雇われてあげる」
「上から目線の就職は初めて見ました」
帳場の引き出しから町役場の雇用届を出した。
《氏名》《家名》《職分》《保証人》
四つの欄を見て、セラフィーナの指が止まる。
「家名は剥奪されたわ。職分も同じ。保証人に至っては、王都じゅうが逃げ出すでしょうね」
「空欄じゃ出せない?」
「受け取る役人が困るわ」
「なら、困らせないでおきましょう」
俺は雇用届を裏返した。
《試用。部屋と食事は給金から相殺。合わなければ、どちらからでも終了》
書いて差し出すと、セラフィーナは上から一行ずつ読み、最後の一文で指を止めた。
「役場の書式を使わないの?」
「正式に雇うときは使います。今日はうちで働けるか試すだけだ」
「どちらからでも?」
「雇う側も、雇われる側もです」
「そう。なら公平ね」
紙を返すのかと思ったが、彼女は二つ折りにして懐へ入れた。
「字が雑だわ。正式な控えはあとでわたしが作ります」
朝飯の卵はすっかり冷めていた。
◇ ◇ ◇
昼前にマーサ婆さんが来た。
通いの飯炊きで、先代の頃からうちにいる。目端の利き方は行商人より鋭い。
婆さんは土間に立ったセラフィーナを頭のてっぺんからつま先まで一往復眺めて、こう言った。
「別嬪だねえ。だけどあんた、その手は皿洗いの手じゃないよ」
「今日からそうなるのよ。文句があって?」
「ないね。手が増えるのは、結構なことだよ」
それから婆さんは俺のほうへ首だけ回した。
「若旦那。あんたも、隅に置けないねえ」
「雇っただけです」
「あたしは、何も言ってないよ」
マーサはそれ以上何も聞かなかった。聞かないという答えが一番怖い。絶対に何か察している。
◇ ◇ ◇
で、皿洗いである。
セラフィーナは水場の前に立ったまま、三十秒ほど動かなかった。敵陣を観察する将軍の顔だった。
「どうしました」
「手順を確認しているの。……最初は水? それとも布?」
生まれて二十七年、皿を洗ったことが一度もない人間の質問だった。むしろ、新鮮だ。
「カイ。この皿、油が落ちないわ」
「灰を使ってください。そこの壺です」
「灰? 灰は汚れでしょう。なぜ汚れで、汚れを落とすの」
「そういうものなんです」
セラフィーナは壺から灰をひとつまみ取り、皿の上に厳かに振りかけた。さらさらと。香でも焚くのかという手つきだった。
「量が足りません。もっと、がばっと」
「がばっとという単位を初めて聞いたわ」
言いながらも彼女は袖をまくって灰を掴んだ。白い指が真っ黒になる。二十七年間絹しか触ってこなかったであろう手が欠けた皿の油と格闘している。
しばらくして、皿が跳ねた。
濡れた魚みたいに手から滑って宙を舞い、今度は間に合わなかった。硬い音を立てて、皿が土間で欠ける。
「……今のは皿が悪いわ」
「皿は無実でしょう」
「濡れると滑る食器を作った職人の責任よ。改善を要求するわ」
「誰にですか」
その後もう何枚か、同じように床へ落ちた。割った数は数えないことにする。数えたら、彼女がやめると言い出しかねない。
マーサが竈の前で肩を揺らしていた。笑いを堪えると、人はああいう動きになる。
だが妙なのは手つきだった。割りはするのに手順そのものは見る間に覚えていく。洗う順、灰の量、すすぎの一往復。三度見ただけで最短の動線に組み替えてくる。速さだけなら夕方にはもう俺を追い抜いていた。丁寧さのほうがまるで追いついていないだけで。
「カイ。この宿、洗い場と乾かし場の位置が逆よ。動線が三歩無駄だわ」
「一度入れ替えた。だがマーサは二十年、この順で動いてる。慣れないうちは、かえって遅くなった」
「なら明日、本人と両方試すわ。三歩は毎日積もるもの」
「初日から改善試験を始める皿洗いも初めて見ました」
「事実を確かめるだけよ。感謝なさい」
赤くなった指先を隠しもせずに胸を張る。俺は笑いを噛み殺すのに苦労した。
◇ ◇ ◇
夕暮れ。
マーサは帰り支度を済ませ、セラフィーナは二階で濡れた袖を替えている。俺は食堂の卓を拭きながら、今日一日の帳尻を頭の中で締めた。
従業員が一人増えた。給金は相殺。悪くない初日だ。
そう思った矢先だった。
食堂の窓から西日が差し込む時刻に俺は何気なく街道へ目をやった。
男が立っていた。
灰色の外套。旅人の身なり。それだけなら、珍しくもない。ここは街道沿いの宿場町だ。
ただ、その男は歩いていなかった。
道の向こうに立ったまま、まっすぐにこの宿を見ていた。
距離があるのに目が合った気がした。
背中に嫌な汗が伝う。
前世で覚えのある感覚だった。抜き打ち監査の前日、フロア全体がうっすら冷えるあの空気。あれは帳簿を見に来る人間の気配だ。
まばたきを一つ。
次に窓へ目を戻したとき、男はもう、どこにもいなかった。




