第9話 空荷の馬車は飯を運ぶ
翌朝になっても、貯蔵棚の数字は増えなかった。
「客を断れば、もう少し延ばせるわ」
「断らない」
「そう言うと思った」
俺は戸口へ出た。
定刻どおり、夜明けの街道を乗合馬車が来る。ともしび亭は休憩先として停車帳に載っていた。
御者は馬を止めるなり、客車の前についた灯りから照明石を外して俺へ放った。昨夜の便で光を使い切った石は、白さを失って曇っている。
「帰りまでに、町の魔道具屋で灯し直してくれ」
「灯し直す代金は立て替える。朝飯とは別だぞ」
「分かってるよ。細けえ宿主だな」
それから、鼻を鳴らした。
「今日は飯の匂いが薄いな」
「明日のぶんが危ないんでね。相談がある」
「水の次は相談まで無料かい」
「朝飯をつける」
「聞こう」
食堂の卓へ路線図を広げた。
といっても、立派な地図じゃない。宿場の名と、馬を替える場所を書いただけの紙だ。西は王都。東は農村と粉ひき場。その間を、二台の馬車がすれ違うように往復している。
「東へ行く便は、客と荷で重い」
俺が言うと、御者が頷く。
「西へ戻る便は?」
「客が半分。荷は、あっても手荷物くらいだな」
「荷台が空いてる」
「空気を運ぶのは、楽でいい」
「空気は銅貨を払わないだろ」
御者の目が少し変わった。
俺は四日間、馬車を見ていた。
行きの車軸は沈み、帰りは高い。幌の紐も、帰りだけ余る。宿の前で水を飲ませていれば、それくらいは分かる。
「東のハーネ村に共同の粉ひき場がある。麦粉と油と塩を、十日分買いたい。今日の便で注文書と前金を運び、明日の戻り便で荷を載せる。空いてる場所の半分だけだ」
「俺は荷運び屋じゃない」
「停車帳の裏を見ろ」
御者が紙を裏返した。
《沿線小口荷受け》の欄がある。客の忘れ物や、村役場の書状を運ぶための決まりだ。決められた重さまでなら、御者が運賃を取って荷を引き受けられる。
前世の送迎車でも似た仕組みがあった。人だけ運んで帰る車ほど、無駄なものはない。
「袋を分けて、重さを上限内に収める。運賃は銅貨二十四枚」
「安い」
「空気よりは高い」
「もし粉ひき場が売らんと言ったら?」
「前金を返してもらう。あんたの朝飯代は払う」
「荷が破れたら?」
「それは——」
「六枚よ」
帳場からセラフィーナの声が飛んできた。
見ると、こっちを見もしないでペンを走らせている。
「袋の破れと油漏れに備える分よ。停車帳に残る直近十六件の荷受けでは、六枚あれば足りているわ。品代が三百六十、運賃二十四、予備が六。宿へ着くまでの合計は、銅貨三百九十枚」
「いつ計算した」
「いまよ。麦粉と油と塩の重さは、昨日から出してあるもの」
セラフィーナは帳場から白い紙を一枚抜き、俺と御者のあいだへ割って入った。
「袋ごとの上限は?」
「麦粉の小袋四つ、油壺一つ、塩袋一つなら規定内だ」
御者が答える。彼女のペンが走った。
運ぶ品、上限の重さ、運賃、破損時の扱い。俺が空荷の使い道を話し終える頃には、紙の下に署名欄までできていた。
「用意がいいな」
「思いついた人が話して、計算できる人が紙にする。何か問題がある?」
紙の下にもう一枚あった。
俺が考えつかなかった場合の、食数を減らす案だ。
見なかったことにした。
御者は契約書を端から端まで読み、笑った。
「夫婦で逃げ道を塞いでくる宿だな」
「夫婦ではないわ」
即答だった。
それでも俺のほうを見てから言った。
「共同経営者でもない。いまは、会計を手伝っているだけよ」
「そうかい」
御者はそれ以上追及しなかった。代わりに銅貨二十四枚の数字を指で叩く。
「三十」
「二十四」
「坂道だ。馬も腹が減る」
「帰り道の弁当を一つつけるわ」
「荷を運んだ便は、毎回?」
「荷を運んだ便だけ」
「二十六と弁当」
「二十四と弁当。弁当の原価は四枚。宿へ着くまでの合計は三百九十四。ドッソの通告どおりなら、同じ量で四百八十枚よ」
「……分かったよ」
御者が署名した。
続いて俺が書く。セラフィーナは最後に金額を確かめ、欄外へ小さな丸をつけた。
その丸が妙に丁寧だった。
◇ ◇ ◇
問題は、粉ひき場が売るかどうかだ。
注文書には、品目と量だけでなく、今後も十日ごとに買う場合の見込みを書いた。宿一軒では注文量が少ない。だが乗合馬車が運ぶなら、村側に新しい荷車は要らない。
銀貨二枚を前金にする。革袋へ入れた。
「持ち逃げされたら?」
セラフィーナが聞いた。
「馬車組合の停車帳に署名が残る。あの人は毎日この道を走る。銀貨二枚のために、仕事も信用も捨てるとは思えない」
「信用したの」
「持ち逃げしないほうが得だと計算した」
「それは、信用とは言わないわ」
「最初はそれで十分だ」
彼女は少し考え、前金袋の紐を結び直した。
俺が一度結んだ上から、もう一度。
「ほどけないようにしただけよ」
「ずいぶん念入りだな」
「前金を失うほうが、面倒でしょう」
注文書と前金は、朝の便で東へ向かった。
あとは待つしかない。
待っている間も、客は来る。
朝食を出し、弁当を包み、空いた部屋を整える。昼前には麦粉の袋が底を見せた。マーサが木匙で掻き集め、セラフィーナが残量を書き直す。
「夕食のパンを薄くするかい」
マーサが聞いた。
「同じ厚さでお願いします」
答えたのはセラフィーナだった。
「足りなくなったら、わたしのぶんを抜いて」
「従業員の賄いを先に削る宿は、長続きしない」
俺が言うと、彼女は不満そうにこっちを見た。
「では、あなたと半分ずつ」
「削らない」
「頑固ね」
「宿主だからな」
夕刻まで、東からの返事はなかった。
セラフィーナは帳場で同じ数字を何度も足した。足しても麦粉は増えない。それでも別の紙へ書き直し、さらにもう一度、運賃を確かめる。
「銅貨三百九十四枚」
「さっきもそう言ってた」
「確認よ」
「七回目だ」
「数えていたの?」
「横で聞いてればな」
彼女はむっとして、紙を伏せた。
しばらくすると、俺の前へ皿がひとつ滑ってきた。
朝の残りの黒麦パンと、薄く切った干し肉。
「食べて」
「あんたのは」
「先に食べたわ」
嘘だ。朝から、彼女が口にしたのは冷めた白湯だけだ。
俺はパンを半分に割り、片方を皿ごと押し返した。
「帳簿に載ってない食事は受け取らない」
「面倒な客ね」
「宿主だよ」
セラフィーナは半分を睨み、それから小さくちぎって口へ運んだ。
食べ終わるまで、俺も残りには手をつけなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
馬車の音はいつもの刻を少し過ぎても聞こえなかった。
最後の麦粉は、朝食のパンで尽きた。
セラフィーナは戸口に立ち、街道を見ている。寒くもないのに、両手を袖へ入れたままだった。
「帳場はいいのか」
「外の明るさを見ているの。油の減りを計算するためよ」
「街道しか見てないぞ」
「うるさいわね」
車輪の音がした。
彼女の肩が小さく跳ねた。両手はまだ袖の中だ。
東から戻る乗合馬車だった。
屋根には麦粉の小袋が四つ。後ろに油壺と塩袋。揺れないよう、古い毛布と縄で固めてある。
御者が手綱を引き、紙を一枚掲げた。
「ハーネの粉ひき場からだ! 次も同じ条件なら売るとよ!」
俺より先にセラフィーナが街道へ駆け出した。
最後の一歩で裾を踏みかけ、何事もなかった顔で荷台の前に立つ。
「荷を先に確かめます。喜ぶのは、そのあとよ」
「誰が喜んでるって?」
「一般論です」
俺が笑うと、検品表で肩を叩かれた。
荷を量る。注文どおり。油漏れなし。
品代は予定どおり銅貨三百六十枚。前金を引いた残りは銀貨一枚と銅貨六十枚だ。
運賃二十四枚と弁当の原価四枚を合わせ、実際の支出は銅貨三百八十八枚。予備の六枚は使わずに済み、見込みより六枚安く収まった。
しかも帰り便の空いた場所は、まだ半分残っている。
「次は、空袋と空壺を返せるな」
「容器代が浮くわ」
「村へ売る荷ができたら、行きの便にも載せられる」
「燻し肉と、マーサの酢漬け。季節が変われば、湯治客向けの薬草も」
紙の上で、一本の往復路ができていった。
空いていた帰り道が、仕入れ路になった。
「金貨九枚を認めさせたのは、あんただ」
俺が言うと、ペン先が止まった。
「でも、明日の食事を残したのは、あなたが見つけた帰り道よ」
「俺が見つけただけだ。運んだのは、あの御者だ」
「そういう意味ではないわ」
分かっている。
だが、聞き返した。
「じゃあ、どういう意味だ」
セラフィーナは答えず、契約書を取り上げた。
さっきまでなかった文字が、欄外にひとつ増えている。
《継続》
その二文字を俺に見られたと気づくと、彼女は紙を裏返した。
「十日ごとの仕入れ契約のことよ」
「何も言ってない」
「顔が言っていたわ」
けれど口元が緩んでいて、まるで隠せていなかった。
その日の朝食は、六人分すべて出た。
御者へ渡す弁当だけ、干し肉が一枚多かった。
会計責任者に理由を聞くと、
「契約に含まれる必要経費よ」
と返された。




