第七話 セオドールさま
「条件がある」
その言葉を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。
条件。その言葉が意味するものは、ほとんど一つしか思いつかない。きっと、お金の話だ。
けれど、いくら王女の身分とはいえ、私が自由に動かせる財産など限られている。王都を離れた今となっては、なおさらだった。
膝の上で、無意識に指先が震える。
せっかくセオドールさまが私を信じて、この場を任せてくださったのに。
――やっぱり私は、期待に応えられないのではないか。
唇を噛む。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
そんな私の前で、村長の老婆はゆっくりと口を開く。
「王女さまも、一緒に引っ越しを手伝ってくれたらいい」
「……え?」
ニヤリと、人の悪い笑みを浮かべた老婆。その顔を、私はぽかんと見つめるしかなかった。
「……そ、それだけ、ですか?」
「なんじゃ。もっと無茶を言うと思ったか?」
途端、周囲を取り囲んでいた村人たちが、どっと笑い声を上げた。
――はははっ!
――王女さま、何を想像してたんだ!
――そんな困った顔しなくても、なんも要求せんて!!
その和ましい空気に、私は呆然としていた。
その朗らかな笑いに包まれて、私はしばらく言葉が出なかった。
――勝手に、無理難題を押しつけられると思い込んでいた。
見た目や雰囲気だけで身構えてしまった自分が、急に恥ずかしくなった。
同時に、自己嫌悪に蝕まれる。
――こんなにも優しく楽しそうな人たちなのに。
見た目や雰囲気だけで怖い人たちだと思うなんて。
私は、本当に無能だ。
――でもよぉ、
一人の村人が、ふと思い出したように言った。
「なんでいきなり穀物の税なんかなくしてくれたんだ、王女さん?」
「……はい?」
私は目を瞬かせる。
「なぜ、それを……?」
税の話は、騎士団を通じて簡単に通達しただけだ。細かな経緯までは説明していないし、ましてや、私が提案したなどと村人に伝わっているはずがなかった。
すると老婆は、杖の先で、私の背後をこんこんと指した。
「そこの坊主が、うるさいくらい話してたからな」
「――え?」
振り返る。
そこには、気まずそうに視線をそらすセオドールさまの姿があった。
「そいつなぁ、先週から何度もこの村に来てたんだよ」
「おい! それは言わない約束だろ!」
「黙っとれ」
老婆が一蹴する。セオドールさまが小さく呻いた。
「夜中にふらっと来ては、畑仕事を手伝ったり、荷運びをしたりしてな。そのたびに、王女さまの話ばっかりしていくんだ」
――俺の婚約者はすごい、とか。
――税収撤回は俺の婚約者が考えたんだぜ、だっけ。
――ちゃんと領民のこと考えてる優しい人だ。
「おい、全部言ってんじゃねえよ……」
セオドールさまは慌てていた。
普段、何があっても泰然としているあの方が。耳の先まで赤くしているのが、横目で見てもわかる。
村人たちは、その様子をますます楽しそうに眺めていた。
「まあ、領主さま自ら泥だらけになって頼みに来られたらなぁ」
「そこまでされて、断れるわけねぇよな」
「仕方ねぇから動いてやるかって話になったのさ」
村長は、やれやれと肩をすくめた。
「それにさっきの演説、うまく言ったもんじゃないか。
下手したら、この坊主が来なくとも、王女さまの説得で引越しとったかもしれん」
「いえ、そんな……とんでもありません」
私は思わず首を横に振り、セオドールさまの方を向いた。
「セオドールさまがいてくださったから、です」
すれば、村長が「ヒュー、ヒュー!」と口笛を吹いた。
だが、どういう意味だろうか?
口笛を吹くほど私の演説が?
セオドールさまに尋ねても、彼は、ますます慌てふためくばかりで、目を合わせてもくれなかった。
しかし――5日も前の夜から。
村長の話によると、セオドールさまは毎晩のようにこの村を訪れていたという。
都市テグニアへの移住を、頭を下げて頼み込んでいたのだと。
最初は当然、反対された。それでもセオドールさまは諦めず、夜ごと村に通っては畑仕事や困りごとを助けて回り――昨日、ようやく許可が下りたばかりなのだという。
なのに、セオドールさまは一言も、そのことを口にしなかった。ここに来るまでの道中も。会議の場でも。
私はなぜか、その理由がわかってしまった。
――人前で話すのが怖いと、私はずっと打ち明けてきた。
だからきっと、ほんの小さくてもいい、成功例を積ませてやりたかった。それが自信になるように、と。
私はセオドールさまの方を、もう一度見た。
彼はまだ誤魔化すように口をすぼめて、視線をあちこちに泳がせていた。
――胸の奥が、熱を持つ。
王都では、こんなこと、一度もなかった。
誰かが私のことを、こんなふうに話してくれることなんて。
誰かが、私のために、ここまで動いてくれるなんて。
気がついたときには、涙が頬を伝っていた。
「す、すまない! 嫌だったよな! シアは……自分の実力を試したかったのに、まったく俺は余計なことをしてしまった!!」
うろたえた声で、セオドールさまが駆け寄ってくる。
頬が熱い。胸のあたりが、そわそわと落ち着かない。
熱はないはずなのに、体の奥がふわふわしている。
――いえ。
私は首を振り、ゆっくりと微笑んだ。
「これは……嬉し涙、だと思います」
◇
引っ越し準備が始まったあと。
私は馬車の荷台に座り、村人たちに囲まれながら働くセオドールさまを見つめていた。
――それ、俺が持つよ!
――おい、子どもは走るな。危ないぞー!
セオドールさまは、いつの間にか人の輪の中心にいた。
まるで昔からこの村で暮らしていたかのように、自然に笑い、自然にそこにいる。
荷車を押し、重い荷物を抱え、泣きそうな子どもにはしゃがんで声をかける。
その姿に、村人たちも安心したように笑っていた。
「すごいですよねぇ」
隣で、エルバスさまが目を細めた。
「セオドールさまって、昔からああなんですよ。困ってる人を放っておけなくて」
「そうなんですか?」
「ええ、旅路でもよく困ってる人を助けるために平気で三週間くらい足止めしたりしてましたから。
最近も、領民全員に穀物を配って、国王さまからの報酬をほとんど使い切っちゃったみたいですしね??」
「え!! そうなんですか!?」
思わず聞き返してしまう。
報酬を、自分のためではなく、領民のために使う。
――王都では、そんな貴族、見たことがなかった。
私はずっと、"無能王女"と呼ばれてきた。
期待されたことなんてない。
褒められたこともない。
誰かに必要とされたことも、きっと一度も。
だからだろうか。
誰かのために当たり前みたいに動けるセオドールさまの姿が、私にはひどく眩しく見えた。
視線の先で、セオドールさまが村人と笑い合っている。
泥だらけの頬。汗で張りついた前髪。
年老いた村人から「助かるよ」と肩を叩かれて、照れくさそうに笑っていた。
――勇者なのに。
――貴族なのに。
そんなことを、欠片も気にした様子はない。
むしろ、誰よりも楽しそうに、誰よりも生き生きと働いている。
その姿を見ているうちに、胸の奥が、またじんわりと温かくなった。
「……すごい、です」
小さく呟いた、そのとき。
ふいに、セオドールさまがこちらに気づいた。
大きく手を振る、その仕草。
真っ直ぐで、屈託のない笑顔。
――ああ。
私の頬も、自然と緩んでいく。
小さく、手を振り返した。
「セオドールさまは――本当に、すごい人です」
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