第7話 大好きな先生の遺した本
戸籍控えを仕分けた翌朝、私は救護院の旧教室へいた。
長机を三つ並べ、その上へ書類を山のように広げる。子どもたちの出生地、洗礼名、保護時の記録、寄付の受領票、医師の診断書。ばらばらの紙をつなぎ合わせる作業は、破れた布を一針ずつ縫い合わせるのに似ていた。
違うのは、縫い目を間違えれば誰かの人生がずれることだ。
寒さのせいで指先がかじかみ、私は何度目かの息を手へ吹きかけた。窓際の小さな火鉢では心もとない。けれど、これ以上炭を回してもらう余裕は院にない。
「先生、あったかいの飲む?」
振り向くと、ミナが湯気の立つ木杯を両手で持っていた。中身は薄い麦湯だろう。それでもありがたい。
「ありがとう」
「こぼしたらだめだよ。今日のはちょっとしかないから」
「分かった。王家の宝より丁寧に扱う」
「おうけのたからって何」
「たぶん、こんなふうに湯気は立たないもの」
ミナはよく分からないまま笑い、机の端に腰をかけた。
旧教室の隅には、亡くなった元教師の本箱がある。救護院の子どもたちが「先生の棚」と呼ぶその木箱を、私は何度も開けたことがあった。文字を覚えたての子へ絵本を選び、熱で眠れない子へ昔話を読んだ。そこには教科書よりも手垢のついた本が多い。繰り返し読まれた証拠だ。
その本箱の前へ立つと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
大好きな先生、と子どもみたいに呼ぶのは、もう年齢に合わないかもしれない。それでも私にとって、救護院へ来たばかりの頃から、その人はそういう存在だった。
本名はレナード先生。背が高く、いつも襟元の釦を一つ掛け違えたまま授業を始める人だった。計算が苦手な子へも声を荒げず、字を書けない子へは、最初の一文字を一緒に握ってくれた。誰かが転んだとき、いちばん先に膝をつく先生だった。
私が帳簿の数字へ妙に強いことに気づいて、「人の腹を満たす数字は、冷たく見えて温かいんだよ」と笑ったのもあの人だ。
だから亡くなったとき、私はひどく静かに泣いた。院の仕事が山ほどあり、大声で泣く暇もなかったから。
今も、その本箱を開けるときだけ、胸のどこかが昔のままになる。
「少し探し物をするね」
ミナに言い置き、私は古い蔵書を一冊ずつ取り出した。綴じ糸の緩んだ児童向けの歴史書。写本の入門書。寄付で入った詩集。植物図鑑。ページのあいだに押し花が挟まっているものもある。
三冊目の底で、手が止まった。
帳面だ。
革表紙の、小ぶりな古い帳面。表紙には何も書かれていない。開くと、寄付者名と品目、受領日が丁寧な字で綴られていた。先生の筆跡だ。
「これ……」
救護院の正式な寄付台帳とは別に、先生が独自につけていた控え帳らしい。表向きの帳簿に載らなかった細かな寄付や、現物支援の内容まで書かれている。
ページを繰るたび、胸がざわついた。
毛布四枚。靴二足。治療用の乾燥薬草。夜食用の乾燥豆。雨漏り修繕のための木材。どれもささやかな支援ばかりだ。でも、ささやかなものほど現場を生かす。先生はそれを知っていた。
その途中、一枚の手紙が挟まっていた。
折り目のついた便箋を開く。先生の字だ。
――名前を奪う者は、未来を奪う。
最初の一行を読んだ瞬間、喉の奥が熱くなった。
便箋には続きがあった。
――管理のためだ、効率のためだ、救うために数えるのだと、大人はもっともらしく言う。
――だが、数えられるばかりで名前を呼ばれない子は、自分が誰として明日を迎えるのか分からなくなる。
――お前は数字に強い。だからこそ忘れるな。数字は人を消すためではなく、人を取り戻すために使え。
視界がにじんだ。
泣くつもりなんてなかった。今は泣いている時間が惜しいと思っていた。けれど、手紙を持つ指が勝手に震えた。
「先生……」
ミナが心配そうに椅子から降りる気配がして、私は慌てて顔を上げた。
「大丈夫。少しだけ、懐かしくなったの」
「その本、先生の?」
「そう」
私は手紙を胸へ当てた。
「すごく、すごく大事なことが書いてあった」
そのとき、教室の扉が控えめに叩かれた。
振り向くと、エリシャが立っていた。今日も黒の外套だが、昨日の公爵家の廊下より、救護院の薄暗い教室の方が不思議と似合わない。似合わないのに、その場に立つだけで変に浮かないのは、この人が場所に合わせて黙れる人だからだろう。
「取り込み中だったか」
「いえ。……どうしてここへ?」
「法務官から、君の叔父が抱えていた質屋と貸付先の一覧が届いた。君にも見せる必要がある」
そう言って差し出された封書を受け取りながら、私はまだ目元の熱が引かないのを自覚していた。情けないところを見られた、と思った次の瞬間、エリシャの視線が手紙へ落ちる。
「それは」
「先生の遺した言葉です」
私は少し迷い、それでも隠さずに見せた。
エリシャは最後まで黙って読み、便箋を丁寧に返してきた。その所作に妙な乱暴さがないのが、この人らしい。
「良い教師だったようだ」
「ええ。私が泣いても、そのぶん手を動かせと言う人でした」
「では今の君を見たら、泣くのも許すだろう」
「どうでしょう」
「少なくとも、泣いたことを責めはしない」
その言葉に、胸の強張りが少しだけほどけた。
一度目の人生では、泣くことは弱さだと思い込んでいた。泣けば足元を見られる。泣けば、押し切られる。だから歯を食いしばり続けて、最後には処刑台でしか泣けなかった。
でも先生は違った。今目の前にいる人も、少なくともそこを利用する顔ではない。
私は椅子へ座り直し、帳面の後ろのページをめくった。
そこで、また手が止まる。
寄付者欄。
丁寧な筆跡で記された家名。
「……マリベル家」
思わず声が漏れた。
エリシャの目が細まる。
「確かか」
「はい。正式な台帳では金額だけの記載でした。けれど先生の控えには、現物支援の名目と受け取り日時まであります」
さらにその下には、寄付品の内訳に不自然な偏りがあった。毛布や薬草の名の横に、なぜか「人員輸送用荷車一台、補修費名目」とある。慈善寄付としては妙だ。
「救護院へ寄付するのに、どうして荷車の補修費が要るんでしょう」
「人を運ぶためだろうな」
エリシャが低く言った。
「荷物ではなく」
教室の空気が冷えた気がした。
一度目の人生の断片が、また喉元をかすめる。夜明け前、裏門へ横付けされた荷車。泣く声を押し込めるような音。誰かが「記録どおりに運べ」と言っていた。
私は帳面を強く抱きしめた。けれど今回は、震えながら立ち尽くすだけでは終わらせない。
「これは使えます」
「まだ控えだ。決定打には足りない」
「分かっています。でも、つながります。寄付台帳、輸送費、戸籍の空欄、叔父の借財……全部」
私はエリシャを見上げた。
「私の復讐は、あの人たちを泣かせて終わりではありません」
「知っている」
即答だった。
「君が守ろうとしているのは、怒りの形をした生活だ。私怨だけでは、ここまで紙を拾わない」
その言い方が、不思議と胸へ沁みた。
怒りの形をした生活。
確かにそうだと思う。私はマリベルを許さない。ラフォントも、叔父も許さない。でもそれは憎いからだけではない。あの人たちが壊した食卓や寝台や呼び名を、元へ戻したいからだ。
窓の外で、子どもたちの笑い声がした。石蹴りでもしているのか、小さな歓声が二つ三つ重なる。
私は手紙を机の上へ置き、静かに息を吸った。
「先生なら、ここで泣き終わるなと言います」
「なら動け」
「はい」
そう返し、もう一度帳面へ目を落とす。
ページの端に、小さな注記があった。
――夜間搬入は伯爵家の名ではなく別口で行うこと。会計院に知られると面倒。
面倒、の一語が妙に軽い。
大きな罪ほど、こういう軽い言葉の裏へ隠れる。
私は注記を指でなぞり、決意を確かめるみたいに呟いた。
「必ず暴きます」
返事は要らなかった。けれど隣で、エリシャがほんのわずかに頷く気配がした。




