第8話 最初の夫婦芝居
公爵夫人として初めて出る夜会の日、私は鏡の前でため息をついた。
公爵家の更衣室には、自分一人の呼吸音までよく響く。壁一面の鏡、磨かれた飾り台、針山のように整然と並ぶ簪と小箱。救護院の狭い部屋では、服を着替えるといえば寝台の端へ腰掛けて裾を直すくらいだったから、この空間はまだ少し現実味がない。
「苦しゅうございますか」
背後からタミアが訊いた。今日はいつも以上に隙のない顔で、私の背の留め具を最終確認している。
「少しだけ」
「締め付けではなく、心の方でしょうね」
「両方かもしれません」
「なら上等です。衣装だけ苦しいより、顔に表情が出ますから」
慰めているのか鍛えているのか分からない言い方だった。
今夜は王都北区の伯爵邸で、小規模な冬の夜会が開かれる。招待客は多くないが、そのぶん噂が濃く回る類の集まりだ。私は公爵夫人として初めて公式に人前へ出る。つまり、祝福の顔をした品定めを一晩で受けるということだ。
薄い銀鼠色のドレスは、タミアが「動けるもの」を基準に選んだらしい。豪華だが重すぎず、袖口も裾も邪魔にならない。飾り立てて縛り上げる衣装ではなく、歩いて戦える服だ。
「戦場みたいな言い方になりました」
私が言うと、タミアは髪飾りの角度を微調整しながら答えた。
「社交はたいてい、笑顔で行う戦です」
「前世で聞いた、貴族向けの舞台遊戯か何かの説明みたいですね」
「何ですか、それは」
「人を飾って育てる娯楽があると聞いたことがあって」
「でしたら今夜は、ご自分を上手に育ててお戻りください」
少しだけ笑ってしまった。
笑うと肩の力が抜ける。その状態を見計らったように、扉の向こうから低い声がした。
「入る」
エリシャだ。
タミアがすぐ扉を開ける。黒の正装に身を包んだ彼は、部屋へ入るなり一度だけ私を見て、ほんの短く言った。
「似合っている」
「ありがとうございます」
あまりに簡潔で、逆に心臓へ悪い。
タミアは何も言わなかったが、視線だけが一瞬こちらを見た。たぶん、今の一言で屋敷の女主人が夜会へ出るに足る雰囲気になったかを確かめたのだろう。
馬車の中で、私は膝の上に手を重ねた。窓の外を流れる街灯は少なく、冬の夜の王都は石と闇でできているみたいに見える。
「緊張しているな」
向かいのエリシャが言った。
「していない、と言えば格好がつくんでしょうけれど」
「必要ない」
「そうですか」
「君が平然として見えれば、それで十分だ」
それは、慰めではなく実務の言葉だった。だからこそ助かる。
「今夜、マリベルも来ますか」
「来る。招待状の返事は昨夜届いた」
「早いですね」
「こちらの動きも早いからな」
互いに笑わないまま、同じことを考えたのが分かった。向こうもこちらの婚姻を受けて、予定を前倒しにしている。なら、私たちも夫婦としての体裁を早く固める必要がある。
「一つ確認しておきたいんです」
「何だ」
「どこまで近づけば、不自然ではありませんか」
問うと、エリシャは一瞬だけ黙った。
馬車の揺れが、妙に大きく感じる沈黙だった。
「場面による」
「曖昧です」
「仕方ない。夫婦の距離は紙の上で決まらない」
「それはそうですが」
言い返しかけたところで、馬車が伯爵邸の前で止まる。
扉が開き、冷えた空気と光が一気に流れ込んだ。考える時間は終わりだ。
伯爵邸の大広間は、灯りと香水と笑い声で満ちていた。天井の高い空間に楽団の音が薄く流れ、壁際には冬花の生け込みが並ぶ。客たちの衣装は色とりどりなのに、そこを満たしている空気は意外なほど似通っていた。誰もが誰かを見て、誰もが見られている。
「ヴァレントワール公爵閣下、公爵夫人」
名が告げられた瞬間、視線が集まる。
胸の奥がひやりとした。けれど隣から、黒い手袋の手がそっと腰へ添えられる。
エリシャだった。
強くはない。逃がさないほどでもない。ただ、私が一人で矢面に立っているようには見えない絶妙な力加減だった。
「呼吸を」
彼が囁く。
「……はい」
私は一度だけ息を吸い、顔を上げた。
最初に近づいてきた年配の伯爵夫人は、口元だけで笑っていた。
「まあ、お噂は本当でしたのね。あまりに急で、皆さま驚いていらしてよ」
「ええ。私も驚いております」
私は微笑んだ。
「けれど、驚きの多い人生の方が、後で話の種になりますでしょう?」
伯爵夫人の目が一瞬だけ動いた。噂話の餌になることを恥じるどころか、先に皿へ盛って差し出したのだから無理もない。
「まあ、しっかりしていらっしゃるのね」
「そうでないと、閣下のお隣は務まりませんから」
言いながら、自分でも少し驚いた。こんな返しが自然に出るなんて。一度目の人生では、針のある言葉に針で返す勇気などなかったのに。
その後も、祝福を装った品定めは途切れなかった。
「救護院にいらした方ですって?」
「まあ、平民の暮らしにもお詳しいのね」
「公爵閣下は変わったご趣味でいらっしゃること」
笑みの奥に針がある。けれど、その針が見える今の私は強い。
「ええ。台所の薪代と香油の勘定、どちらもできます」
「紙を読むのは得意ですの」
「ですから、噂も数字も雑には扱いません」
何人目かの貴婦人が口を噤み、その横で若い令息が面白がるように肩を揺らした。
私は会話の合間に、会場全体を観察した。マリベルはまだ中央へ出てこない。代わりに彼女の取り巻きたちが、こちらの反応を測るように散っている。見せたいのは親しげな笑顔ではなく、「公爵夫人がどこまで持つか」の観察結果だろう。
やがて、楽の音が一段ゆるみ、人の輪の奥から淡い藤色が現れた。
マリベルだ。
柔らかい色の衣装に身を包み、何も知らないふりの顔でこちらへ歩いてくる。その歩き方を見ただけで、寄宿学校の廊下を思い出した。誰より早く泣きそうな顔を作れるくせに、最後に得をする場所だけは外さない足取りだ。
「スカイラーさん」
昔と変わらぬ呼び方で、彼女は私の前へ立った。
「ご結婚、おめでとうございます。突然のことで、本当に驚きましたわ。救護院でお会いしたときは、こんな日が来るなんて」
救護院でお会いしたとき、の部分に、あえて以前の立場を混ぜてくる。忘れていませんよ、と言いたいのだ。
「ありがとうございます、マリベル様」
私は笑みを崩さない。
「私も驚きました。寄宿学校で席順にこだわっていた方が、今では王都じゅうの席順を動かしていらっしゃるのですもの」
「まあ、昔のお話を」
「懐かしいでしょう? 私、最近そういうお話を自分からするようにしているんです」
「どうして?」
「誰かに失敗談として飾られる前に、自分で持ち方を決められますから」
周囲の空気がわずかに揺れた。
マリベルの笑みは崩れない。けれど目だけが、ほんの少し硬くなる。
「お強くなられたのね」
「必要がありましたので」
その返答へ重ねるように、隣のエリシャが自然な仕草で私の腰の位置を少し引き寄せた。夫婦が人前で距離を取らないのは普通のことだ。普通のことなのに、体温が薄い布越しに伝わってきて、私は一瞬だけ呼吸を忘れそうになる。
「夫人は昔話も上手だが、長話は苦手でね」
エリシャが穏やかに言った。
「今夜はあまり囲まないでいただけると助かる」
助かる、という言い方なのに、断りとして完璧だった。
マリベルは肩をすくめて見せる。
「もちろんですわ。閣下がそこまで大切になさるなら」
わざとらしい一言。けれど周囲の耳には、ただの夫婦いじりに聞こえるだろう。
それでも、エリシャは眉一つ動かさなかった。
「大切にしない理由がない」
場が、一拍だけ静まった。
その一言が演技だと、私たちだけは知っている。知っているのに、どうしてこんなに胸が騒ぐのか分からない。
マリベルはわずかに目を細め、礼を取って離れた。取り巻きたちも散っていく。第一波はしのいだ、と言っていいだろう。
会場の端へ移動したところで、私は小さく息を吐いた。
「今のは効きすぎでは」
「何が」
「最後の一言です」
「演技は徹底しろと言ったのは君だ」
「言いましたけど」
「なら問題ない」
問題だらけだと思うのに、横顔はいつも通り涼しい。
夜会はその後も続いた。乾杯、楽士への拍手、冬花の品評、形式ばった談笑。私はひとつひとつの会話に意味を拾い、誰が誰と親しく、誰がマリベルを見てから言葉を選ぶかを観察した。
帰りの馬車へ乗り込んだときには、脚の力が少し抜けていた。
「座って」
エリシャが短く言う。
「座っています」
「倒れ込むように座るなという意味だ」
「公爵語は難しいですね」
そう返すのがやっとだった。気が張っていたぶん、気力が一気に抜ける。窓へ寄りかかりかけたところで、ふいに肩へ上着がかかった。
エリシャの外套だった。
「風邪を引く」
「閣下は」
「私は平気だ」
「そう見えても、人は平気な顔で倒れるんですよ」
「それは今夜、君に返したい台詞だな」
馬車の揺れに合わせ、外套の重みがじわりと肩へ馴染む。
屋敷へ戻ると、夜はすでに深くなっていた。私は自室へ戻るつもりだったのに、廊下の角でエリシャに呼び止められる。
「一つだけ確認だ」
「はい」
「今夜の距離は、不自然だったか」
急に問われて、私はまばたいた。
「……不自然では、ありませんでした」
「なら次回も同程度でいく」
「次回もあるんですね」
「ある。君はもう隠しきれない」
それは社交界へ出た以上、という意味だ。分かっている。分かっているのに、言われ方のせいで妙に鼓動が乱れる。
「今夜は休め」
そう言って彼は去りかけ、ふと足を止めた。
「いや、待て」
数歩戻ってきたかと思うと、隣の小卓へ湯気の立つ小鍋と杯を置く。いつの間に用意させたのか分からないが、薬草の香りがやわらかく漂った。
「薬湯だ。喉と足の疲れに効く」
「……ありがとうございます」
「君が倒れる方が契約違反だ」
言い残して、エリシャは今度こそ廊下の向こうへ消える。
私はしばらく、その背中が見えなくなった先を眺めていた。
契約違反。
ただの合理的な言葉だ。そう自分へ言い聞かせる。でも小卓の上の薬湯は、夜気の冷えた廊下でやけに温かく湯気を立てていた。
杯を持ち上げると、薬草の匂いの奥に、ほんの少しだけ蜂蜜が混じっている。
飲みやすいようにしたのだろう。
そこまで気づいた瞬間、私は一人で小さく息を吐いた。
今夜の私は、誰より自然に庇われた。
偽りの夫婦芝居のはずなのに、その手の位置も、声の落ち方も、あまりに迷いがなかった。
きっとあの人は、演技が上手いのだ。
そうでなければ困る。
困るのに、薬湯を飲む喉の奥は、冷たい夜会の余韻より少しだけ温かかった。




