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真夜中の図書館で死に戻った私は、冷血公爵と偽り結婚して家族を取り戻す  作者: 乾為天女


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第6話 名前のない子どもたち

 その日の午後、私は救護院へ向かった。


 公爵家の馬車は、救護院の前へ止まるだけで目立つ。古い煉瓦の壁、傾いた門、冬の冷気をまとった細い路地。その先へ黒塗りの馬車が入ってくると、近所の洗濯女たちが思わず手を止め、店先の少年が口を開けたまま見送っていた。


 私自身も、つい昨日までなら門の外から眺める側だった。


 「視線が集まっていますね」

 向かいの席でオリヴェルが言った。


 公爵家の護衛として今回ついたのは、王宮騎士のオリヴェルだった。明るい茶髪を後ろで乱暴に結び、きちんと礼装の上着を着ているのに、膝には小さな切り傷の跡が幾つもある。訓練場でも街角でも、よく膝をつく人なのだろう。困っている子どもへ先に目線を合わせる癖が、そのまま傷になったみたいな男だ。


 「公爵夫人がこんな場所へ、と思われているでしょうね」

 「こんな場所、ですか」

 「失礼。言葉を選び損ねました」


 彼は眉を下げた。悪意がないのは分かる。分かるからこそ、私はゆっくり首を振る。


 「いいえ。選び損ねるのはよくあることです。ここは、王都の人にとってそういう場所なんです」

 「……住む人の顔が見えない場所、という意味なら、確かに」


 その言い方に少しだけ救われた。


 馬車を降りると、冷たい風といっしょに、煮込みの薄い匂いが漂ってきた。今日の昼は豆のスープだろう。鍋の底を削るように伸ばした味を、私はよく知っている。


 門をくぐる前に、小さな足音がいくつも駆け寄ってきた。


 「スカイラー先生!」

 「ほんとに来た!」

 「馬車だ、でっかい!」


 先頭で飛びついてきたのはレオだった。鼻先を赤くしながら、私の外套へ両手でしがみつく。後ろからミナとユナ、さらに年下の子たちも顔を覗かせた。


 先生、と呼ばれて、胸が少し熱くなる。


 一度目の人生でも、子どもたちはそう呼んだ。帳簿係でも、書記でもなく、熱が出た夜に額へ布をのせる人として。


 「約束したでしょう。来るって」

 「遅い」

 ミナが唇を尖らせる。

 「半日も来なかった」

 「ごめんね。半日で済ませるために急いでいたの」


 そう言うと、ミナは怒った顔のまま、ほっとしたみたいに息をついた。


 そのとき、背後から甲高い声が飛んだ。


 「こら、三番、七番、十一番! 門前で騒がないの!」


 心臓が、ひやりと縮む。


 振り向くと、院長代行の補佐役をしている中年女が腕組みして立っていた。厳しいだけならまだいい。面倒を数字としてしか見ない人特有の乾いた目で、子どもたちを見ている。


 三番。七番。十一番。


 入所順の木札に刻まれた番号だ。


 「その呼び方、やめてください」


 私が言うと、女は眉をひそめた。

 「はあ? 正式な管理番号でしょう。名前の似た子もいるんだから、間違えないようにしてるだけですよ」

 「管理のために使うのと、日常で呼ぶのは違います」

 「綺麗事を言うのは簡単ね。人手も紙も足りないの。あなた、もうこの院の人間じゃないんでしょう」


 公爵夫人の格好をして戻ってきた私へ、刺すような視線が向く。嫉妬もあるのだろう。でもそれ以上に、この人は面倒が増えることを嫌っている。


 私はしゃがみ、レオの首から下がる木札を見た。


 七。


 墨で大きく書かれた数字の下に、小さく薄れて、本当の名前があった。何度も擦れて消えかけている。


 「レオ」

 私は札ではなく顔を見て呼んだ。

 「今日は寒いから、あとで耳まで隠せる帽子の寸法を取ろう」

 「うん!」


 レオがぱっと笑う。その横で、ミナも少し背を伸ばした。

 「私のも?」

 「もちろん。ミナも、ユナも、みんな」


 番号で呼ばれ慣れた子は、名前を呼ばれると最初だけ驚く。自分のものだったはずの音を、いったん遠くへ置いてきた子みたいな顔をする。


 それが悔しかった。


 子どもたちを中へ入れたあと、私は院長代行の部屋へ向かった。小さな執務室には、湿気た紙と古い薬草の匂いがこもっている。机の向こうには院長代行のグリンダ夫人が座っていた。病で長く臥せっている本来の院長に代わり、この半年ほど実務を見ている人物だ。


 彼女は私の顔を見るなり、疲れたように目を細めた。

 「派手なところへお嫁入りしたようね」

 「服は借り物です。用件は別です」

 「でしょうね。祝いの菓子を持ってくる顔じゃないもの」


 皮肉のつもりだろうが、今の私にはむしろありがたい。話を飾らずに済む。


 「保護児童全員分の戸籍照会と保護証の再発行を、今週中に申請したいんです」

 「今週中?」


 グリンダ夫人が椅子へ背を預けた。

 「あなた、役所が何日で動くと思っているの。紙を出せばその日に判が落ちるとでも?」

 「思っていません。だからこそ先に出します」

 「予算は」

 「私が持ちます」

 「誰のお金で?」


 問いの形をしていたが、責める響きだった。


 「公爵家の金庫を開けさせるつもりなら、私は反対よ。ここは慈善施設であって、公爵夫人の道楽の舞台じゃない」

 「道楽なら、もっと見栄えのいいことをします」


 自分でも少しきつい言い方になったと思った。でも引けなかった。


 「来月の監査前に、子どもたち一人ひとりの身元と保護先を紙で固めなければなりません。今のままでは、誰かが札を持って行けば、子どもも一緒に運べてしまう」

 「大げさね」

 「大げさではありません」


 一度目の人生では、それが起きたのだ。


 熱のある子が寝台から引き剥がされ、泣く子が荷馬車へ押し込まれた。奉公先の一覧だと言われて差し出された紙に、誰も逆らえなかった。名前より番号が先にある子どもたちは、紙の上でも荷物みたいに扱われた。


 思い出しかけて、私は爪先へ力を入れた。


 今はまだ、知らないふりができる時間だ。けれど私は、知っている側の人間として動くしかない。


 「紙がないなら作ります。書式が古いなら新しいものを取りに行きます。必要なら私が徹夜します」

 「そんなことをして、何になるの」

 「名前が残ります」


 部屋が静かになった。


 「名前が紙に残って、保護先が明記されて、移送には誰の承認が要るかが決まれば、勝手に連れ出されにくくなるんです。子どもたちを守るには、優しさだけでは足りません。紙も要ります」


 グリンダ夫人はしばらく私を見ていた。信じたわけではない。でも、無視もできない顔だった。


 やがて彼女は、机の隅の鍵束から一本を抜き、こちらへ滑らせた。

 「古い戸籍控えは西倉庫の二段目よ。濡れて読めないものも多い」

 「ありがとうございます」

 「礼は要らないわ。どうせ途中で音を上げる」

 「そのときは、そのときに笑ってください」


 部屋を出ると、廊下の先でオリヴェルが壁にもたれて待っていた。


 「怒鳴り声は聞こえませんでしたが、勝てましたか」

 「勝ったというより、まだ机に着けたくらいです」

 「十分大きい進歩ですね」


 私は鍵を見せた。

 「西倉庫を開けます」

 「では護衛はそこまで」

 「倉庫の護衛なんて退屈でしょう」

 「泣いている子どもを置いて帰る任務よりはましです」


 その答えが、少しだけおかしくて笑った。


 西倉庫は湿っていた。木箱、古布、壊れた椅子、昔の教材、寄付されたのに使い道を失った雑多な物。埃の匂いにくしゃみを堪えながら、私は二段目の棚を探る。


 奥から出てきた紙束は、案の定ひどい状態だった。にじんだ文字。角の欠けた証明書。出生地不明、保護者不在、照会未了。子どもたちの過去が、未完のまま押し込まれている。


 そこへ、後ろから小さな声がした。


 「スカイラー先生、それ、なに?」


 振り返ると、ユナが半開きの扉から顔を覗かせていた。熱を出しやすくて、冬になるとすぐ頬が赤くなる子だ。胸元の札には十一と書いてある。


 「大事な紙よ」

 「おべんきょう?」

 「ううん。ユナがユナだって、誰にも勝手に消されないようにする紙」


 ユナは意味が分からないまま頷き、それでも嬉しそうに笑った。

 「じゃあ、だいじ」


 「ええ。とても大事」


 私は札に触れた。

 「ねえ、ユナ。あなたは何番?」

 「じゅういち」

 「違うでしょう」

 「……ユナ?」


 「そう。ユナ」


 その名前を聞いた瞬間、オリヴェルがわずかに視線を伏せた。彼も気づいたのだろう。番号が先に口をついて出る暮らしが、どれだけ長かったか。


 私は立ち上がり、紙束を抱え直した。


 「全員分の戸籍と保護証を先に揃える」


 オリヴェルへでも、ユナへでもなく、自分へ言い聞かせるように口にする。


 「来月までに、絶対に」


 窓の外では、冬の陽が短く傾き始めていた。時間は少ない。けれど、まだある。



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