第37話 死なせない
傷は浅い。
そう自分へ言い聞かせても、血が見えるだけで呼吸が乱れた。
真夜中の図書館からの退路は、煙で白く濁っていた。オリヴェルが前を切り開き、タミアとアリッサが棚の倒れた脇を見て道を選ぶ。コバチェフは半泣きで咳き込みながらも、封印扉の開閉盤へ張りつき、閉じかける通路をこじ開けた。
私は台帳を片腕で抱え、もう片方でエリシャを支える。
彼は歩いている。意識もある。なのに、指先が冷えていくのを見るたび、処刑台のときとは別の種類の恐怖が胸を締めた。
「しっかりしてください」
「している」
返事はある。
「なら、もっと腹立たしい声で言ってください」
「注文が多いな」
その応答に、かすかに力が戻る。まだ大丈夫。まだ離さない。
入口近くまで辿り着いたところで、ディウセが待っていた。薬箱を抱え、煙避け布を追加で放ってくる。
「床へ寝かせて」
彼はいつも通り余計なことを聞かない声で言った。
「浅く見えても、動かして広がった傷は面倒だ」
石段の踊り場へエリシャを横たえる。私はようやく台帳を床へ置いた。手放した瞬間、腕の震えに気づく。
「スカイラー」
ディウセが私を見る。
「泣くのは縫い終わってから」
「泣いていません」
「声が泣く直前」
言い返す前に、彼は鮮やかな手つきで傷口を確かめた。布、止血薬、針、糸。オリヴェルが灯りを寄せ、アリッサが清水を押さえる。皆が動く。私も動かなくては。
「タミア、外へ出たら馬車を表門じゃなく北回しで」
「承知しました」
「オリヴェル、ラフォントは?」
「逃がしてない」
彼は短く答える。
「縄付きで上へ送った」
「コバチェフ、書庫火災の発生時刻と見た場所、覚えてますか」
「はい、はい、覚えてます……多分、全部……」
「多分では困ります。全部です」
「全部です!」
自分でも驚くほど、声がよく出た。
怖い。怖いけれど、今は取り乱している場合じゃない。泣くより先に指示を飛ばせる。それが今回の私だ。
ディウセが縫合を終え、きつく布を巻いたころ、ようやくエリシャの呼吸が少し落ち着いた。
でも顔色はまだ白い。
私は膝をつき、彼の手を握った。
「聞こえますか」
まぶたが重そうに動く。
「……聞こえる」
「死なないでください」
抑えるつもりだったのに、声が震えた。
「今度こそ、あなたまで失うのは嫌です」
彼は薄く笑った。いつもの余裕のある笑みではない。血を流した人間の、無理に形を作ったみたいな笑みだった。
「次は私が先に着くと言っただろう」
前に言われた言葉。
あのときは少し腹立たしかったのに、今はそれだけで涙腺が危うくなる。
「約束を守ってください」
「君もだ」
そこまで言って、彼は再び目を閉じた。
私は反射的に脈を探る。ある。弱いけれど、確かにある。
石段の上の方では、火を消しに入った者たちの声がまだ響いていた。真夜中の図書館の一部は焼けた。でも、原本台帳は残った。仲間も、今のところ全員いる。
私は握った手へ額を寄せ、ひとつだけ深く息を吐いた。
死なせない。
その言葉は、願いではなく、今夜の私の仕事になった。




