第36話 ラフォントの切り札
最初に来たのは熱ではなく、匂いだった。
焦げた油と薬品の混じった、喉を刺す匂い。
次の瞬間、奥の回廊の天井裏から煙が一気に噴き出した。青白い魔導灯の光が濁り、書架の影が赤黒く揺れる。
「図書館ごと焼く気です!」
アリッサが叫ぶ。
ラフォントならやる。
証拠が残るくらいなら、建物ごと灰にして、事故だと書くだけだ。
「ディウセの薬を!」
私は袖口の小瓶を取り出した。入口で渡されていた煙避けの薬を布へ垂らし、口元へ当てる。皆もそれに倣う。多少は喉が楽になる。でも時間稼ぎにしかならない。
オリヴェルが周囲を見回した。
「搬出路を開ける。タミア、コバチェフを連れて先導を!」
「嫌です」
コバチェフが青い顔で言う。
「嫌だけど行きます!」
その返事に、こんな場面なのに少しだけ笑いそうになった。
エリシャは私の腕から台帳を受け取ろうとしたが、私は首を振る。
「これは私が持ちます」
「なら絶対に離すな」
「はい」
背後で、火の手が書架を舐める音がした。乾いた紙が焼ける匂いは最悪だ。文字が消える音が、耳ではなく胸へ響いてくる。
マリベルはすでに退路の方へ下がっていた。彼女を追うより先に、炎の勢いを見たラフォントの方へエリシャが目を向ける。
回廊の向こう、煙の切れ目に、逃げようとする男の影が見えた。
「ラフォント!」
呼びかけにも振り向かず、男は走る。
エリシャが追った。
「待って!」
私も叫んだが、その声は煙へ削られる。
一度目の人生で、この人は追いすぎて死んだ。
その記憶が体の方を先に動かした。私は台帳を胸へ抱えたまま、オリヴェルの指示を無視して追いかける。
「スカイラー!」
後ろで誰かが叫ぶ。
煙で視界が白い。熱で頬が痛い。曲がり角を抜けた先で、ようやくエリシャの背を見つけた。彼はラフォントへ迫っていた。ラフォントは足をもつれさせたふりをして、転んだように見せる。
次の瞬間、床へ倒れたままの姿勢から、袖の内側の短剣が跳ねた。
私は知っている。
この角度、この一瞬。前の人生で、見えなかった刃。
「だめ!」
叫びながら、私は横から体当たりした。
エリシャの肩へぶつかり、二人とも軸がずれる。短剣の先は急所を外れた。けれど完全には避け切れず、刃がエリシャの脇腹を浅く裂いた。
血が、黒い上着へ滲む。
ラフォントは舌打ちし、さらに逃げようとした。そこへオリヴェルが飛び込む。負傷しているのに、今度は突っ込むのが役に立った。騎士の体当たりでラフォントは壁へ叩きつけられ、短剣が床を滑る。
「火元は押さえきれない!」
タミアの声が遠くから飛ぶ。
天井の一部が崩れ、火の粉が散った。私は咄嗟に台帳を庇う。腕へ熱が走るが、焼くわけにはいかない。
エリシャが片手で傷口を押さえながら、私を見た。
「何をした」
「あなたを死なせないためです!」
怒鳴り返すと、彼は一瞬だけ目を見開いた。
そんな顔をしている場合ではないのに、少しだけ痛快だった。
だが次の瞬間、彼の顔色がさらに悪くなる。煙と失血と熱気。ここに長くいれば危ない。
「退く!」
私は叫んだ。
「台帳も人も、全部持って出ます!」
火の中で守るべきものは、もう一つではない。
私はそう決めて、エリシャの腕を掴んだ。




