第35話 悪女の告白
原本台帳を手にしたまま保管庫を出ようとしたとき、通路の先から拍手が一つだけ響いた。
乾いた、遅い拍手。
マリベルだった。
青白い灯りの中でも分かるくらい顔色は悪いのに、口元だけは綺麗に笑っている。逃げ道を失った人間の笑みというより、最後まで舞台の中央を降りたくない役者の笑みだった。
「ここまで辿り着くなんて」
彼女はゆっくり扇を閉じる。
「昔から、あなたはしぶとかったわね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
私は台帳を抱え直した。
「本当に嫌な女」
マリベルは肩を竦める。
「泣けば同情される顔をしているくせに、どうして最後の最後でそうならないのかしら」
その言い方で、オリヴェルが一歩前へ出かける。けれど私は手で止めた。
「あなたはずっと、こうするしかなかったと言いたいんですか」
「違うわ」
マリベルは即座に否定した。
「こうする方が上手だっただけ。皆やっていることよ。貴族は寄付で名を買い、会計院は紙で人を選り分ける。弱い者から少しずつ削っても、誰も大声では怒らない。私は、その流れをうまく使っただけ」
彼女の声には開き直りと、わずかな本音が混ざっていた。
「貧しい子どもなんて、どこの家でも余る話でしょう?」
マリベルは続ける。
「救護院で眠っているだけでは、いずれ飢える。なら働かせて、そのぶん大人が回るようにした方が社会のためよ。あなたは綺麗事を言うけれど、綺麗事だけで鍋は煮えない」
「煮えない日を減らすために、寄付金があったんです」
私は言った。
「あなたたちが横取りしなければ、子どもたちは売られずに済んだ」
「一人や二人助けたところで、何が変わるの?」
「名前で呼ばれる子が一人増えます」
マリベルが、初めて笑みを崩した。
私は一歩だけ前へ出た。
昔の寄宿学校で、彼女はいつも上手に泣いてみせた。困っているように見せ、誰かに責任を肩代わりさせるのがうまかった。私はあの頃、それを見抜いても何も言えなかった。
でも、今は違う。
「同じ世界にいても、奪わない人はいました」
私ははっきり言う。
「先生はそうでした。救護院の子どもたちも、少ないパンを半分に割っていました。タミアも、ディウセも、オリヴェルも、エリシャも。踏みにじられても、踏みにじる側へ回らない人はいた」
通路の灯りが揺れる。
マリベルの扇が、ぎしりと軋んだ。
「環境のせいにしないで」
私は言い切った。
「あなたは自分で選んだんです」
しばらく沈黙が落ちた。
やがてマリベルは、静かに笑った。今度の笑いにはもう、慈善家の顔は混ざっていない。
「そうね」
彼女は小さく言う。
「私は、自分が飢える側へ落ちるのが嫌だった。だから、先に誰かを落としたの」
それは告白だった。
美しくもなく、言い訳にもなりきれない、ひどくみっともない本音の告白。
アリッサが横で息を吸う。
コバチェフは顔を強張らせたまま、その言葉を忘れまいとするように立っていた。
「その台帳を渡しなさい」
マリベルが最後に言う。
「まだ取り返せるわ。全部、なかったことにできる」
「できません」
私は首を振った。
「もう、名前を消させないから」
次の瞬間、どこか遠くで警鐘みたいな音が鳴った。
マリベルの目が、その音に合わせてわずかに揺れる。
嫌な予感がした。
エリシャも同時に振り向く。
「火だ」
彼が低く言った。
湿った地下の空気に、焦げた匂いが混じり始めていた。
ラフォントの切り札が、とうとう動いたのだと、その一言で分かった。




