第34話 鏡の中の私に勝つ
鏡の間は、あの日と同じ青い静けさに満ちていた。
高い天井まで届く黒い壁。中央には、縁へ古い銀細工が巻かれた巨大な魔導鏡が立っている。表面は水面みたいに揺れ、私たちの姿を映しているはずなのに、どこか微妙に遅れていた。
「気をつけて」
アリッサが囁く。
「この鏡は、見たいものではなく、見せれば折れるものを映します」
分かっていた。
分かっていたのに、最初に表面が波打った瞬間、私は息を呑んだ。
映ったのは、処刑台だった。
冬の風。震える子どもたち。マリベルの涙。ラフォントの乾いた目。あの時と一つも違わない。私は思わず一歩下がる。すると鏡の景色が切り替わり、今度は燃える救護院が映った。廊下の奥でミナが叫んでいる。次の瞬間には、血を流して倒れるエリシャの姿へ変わる。
「やめて……」
声が勝手に漏れた。
鏡は容赦がなかった。
泣いている子どもたち。私の名を消す破棄届。港で倒れるオリヴェル。裏切りの印章。どれも、起こり得た未来であり、まだ起こり得るかもしれない未来だった。
膝が少しだけ揺れる。
そのとき、背後から低い声がした。
「スカイラー」
振り返らなくても分かる。エリシャだ。
でも鏡は、まるでその声を消すみたいに、さらに深い後悔を映した。
血まみれの私が、処刑台の上からこちらを見ている。
首元を押さえ、泣きはらした顔で、それでも目だけは離さない。
――次は、泣くだけで終わらないで。
一年前、私をここへ戻した言葉。
けれど今、鏡の中の私はその続きも知っているような顔をしていた。
私は唇を噛んだ。
怖い。全部失う未来を、もう一度見るのは怖い。でも、それを認めることと、飲み込まれることは違う。
「今の私は、一人じゃない」
私は鏡へ向かって声を出した。
揺れていた鏡面が、ほんの少しだけ止まる。
「助けを呼べる」
私は続けた。
「タミアがいて、アリッサがいて、コバチェフがいて、オリヴェルがいて、ディウセがいて、マリソルがいて、ブレアナがいて……」
名前を呼ぶたび、鏡の映像が少しずつ薄くなる。
「そして、エリシャがいる」
最後の一人の名を口にした瞬間、処刑台の景色が水へ溶けた。
鏡の奥に残ったのは、血を流した私ではなく、泣きやんだ私だった。あの日と同じ顔なのに、今は少しだけやわらかく笑っている。
鏡の中の私は、静かに唇を動かした。
――もう大丈夫。
その言葉と同時に、鏡の縁の銀細工が一斉に光った。
床へ刻まれた文様が広がり、鏡の裏側の壁に隠れていた継ぎ目がゆっくり開いていく。
「保管庫だ!」
オリヴェルが叫ぶ。
鏡の奥には、幅の狭い石室があった。棚には封印箱が整然と並び、中央の台座に、他より大きい黒革装丁の台帳が一冊置かれている。表紙の端には、救護院寄付原本の印。
ずっと追ってきたもの。
会計院封印庫から消え、国外搬出未遂のあと王家の隠し保管庫へ移された本体が、ようやく目の前にあった。
私は震える手で台帳へ近づく。
開くと、中の筆跡、訂正の跡、寄付名目と支払先の不自然な書き換え、全部が前に見た写しより鮮明だった。偽造ではない。本物だ。
「見つけた……」
呟いた瞬間、全身の力が抜けそうになった。
けれど倒れる前に、後ろから支えが触れる。エリシャの手だった。
「まだ終わっていない」
「はい」
私は頷く。
「でも、ここまで来られた」
鏡の中の私へ勝つというのは、後悔を消すことではなかった。
後悔のあるまま、今の自分の手で未来を開くことだった。
その証みたいに、開いた保管庫の奥で、原本台帳の紙が静かに鳴った。




