第32話 私の夫です
破棄届の一件が無効になっても、敵は黙らなかった。
三日後、王宮の公開審問室で行われた中間審理は、私を引きずり下ろすための舞台そのものだった。高窓から差す光は明るいのに、席へ並ぶ貴族たちの目は冷たく、壁際の書記は忙しなく羽根ペンを走らせている。
私は証言台の近くで立ち、視線だけで人の値踏みを受けた。
その少し後ろに、エリシャがいる。
それだけで背筋は伸びる。でも、今日の場はそれを壊すために用意されたのだと、嫌でも分かった。
先に口を開いたのはマリベルだった。
薄桃色の衣装でいかにも憔悴した顔を作り、扇の陰からこちらを見ている。
「お気の毒ですわ」
彼女は優しい声で言った。
「公爵家へ引き取られて、便利に使われて。挙げ句の果てには危ない調査へまで駆り出されるなんて。若い女性が、大きな権力に振り回される姿を見るのは忍びありません」
場内に、あえて同情するようなざわめきが広がる。
利用された女。
守られているのではなく、使われているだけの駒。
そういう顔を私へ貼りつけたいのだ。
かつてなら、私はその場で言葉を探していたと思う。
誰かの機嫌を損ねない言い方を。証拠が届くまでの時間稼ぎを。ぎりぎりで傷を浅くする返しを。
けれど、その日だけは違った。
言葉は探す前に出た。
「違います」
審問室のざわめきが少し下がる。
「私は利用されていません」
自分でも驚くほど、声はまっすぐだった。
「この人は、私を切り捨てるためではなく、守るために立ってきました」
マリベルの扇が止まる。
私はもう一歩だけ前へ出た。
視界の端に、エリシャの黒い袖が見える。
「この人は」
一度だけ息を吸う。
「私の夫です」
言った瞬間、空気が変わった。
契約結婚。
ずっとそう呼んできた関係なのに、私の口は勝手に、その内側を飛び越えていた。
言い終えてから頬へ熱が一気に集まる。自分で何を言ったのか、遅れて理解して、心臓がひどくうるさくなった。
審問室はしんと静まり返った。
沈黙を破ったのは、どこかの貴族が小さく息を呑む音だった。
私は正面を見るしかない。
振り返れない。今振り返ったら、自分の顔の熱がばれてしまう。
「夫人」
審理官が咳払いをした。
「その発言は、感情論に過ぎません」
「感情があるから、守る理由になることもあります」
私は答えた。
「少なくとも、私はそういうふうに守られてきました」
マリベルがようやく笑みを作り直す。
「まあ、なんてお優しい。けれど公爵閣下ご自身は、どうお考えなのかしら」
そのとき、背後で靴音が一つした。
エリシャが私の横へ並ぶ。
「私の考えは、夫人が今述べた通りだ」
低い声が審問室へ落ちた。
「それ以上を求めるなら、根拠なき印象操作を続けた者の名を、今ここで議事録へ残そう」
数人の顔色が変わる。
逃げ場を一つだけ残して追い詰める。この人らしいやり方だった。
審理官は咳払いを重ね、話題を証拠整理へ戻した。結局、その日の審問自体は継続扱いになった。王家文書の照合結果が揃うまで、最終判断は持ち越しだ。
けれど私の中では、別の何かが持ち越されずに進んでしまっていた。
退室のため横を向いたとき、ようやくエリシャと目が合った。
灰色の目の色が、見たことのないくらい深く変わっている。
驚いたような、でも嬉しいのを隠し損ねたような、そんな顔だった。
私は慌てて視線を逸らす。
言い直しはできない。したくもない。
審問室を出たあとも、胸の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
契約だったはずの言葉が、自分の口から本音になって零れた。
その事実だけが、春前の冷たい廊下を歩いているのに、頬をずっと熱くしていた。




