第31話 結婚契約の破棄届
契約結婚を紙で終わらせようとするなら、敵はきっと紙を使う。
そう口にしたのは私だったのに、実際にそれが王宮から届いた朝、胸の奥は思った以上に冷えた。
王家の紋章入り封書。封を切る前から嫌な予感しかしない。書斎へ集まった面々の前で広げると、中に入っていたのは公爵家婚姻契約の破棄届の写しだった。
提出者欄には、私の名。
署名も筆跡も、驚くほどよく似ている。
「ひどい」
アリッサが顔をしかめる。
「よく似せていますが、最後の払いが違います」
タミアは一瞥で言った。
「奥様はこういう終筆をなさいません」
「そこを分かるの、タミアだけですよ」
「ええ。だから腹立たしいのです」
王宮側の文面はもっと厄介だった。
双方合意による契約終了につき、公爵夫人としての後見権・出入り資格・文書照会権を停止する、とある。つまり私を、証拠集めの輪から外したいのだ。離縁というより、後ろ盾の切断だった。
「私がもう一度、無所属に戻ればいいと思っている」
紙を持つ指先が少し震える。
一度目の人生で失ったものが、頭を過った。
屋敷も、立場も、発言の資格も持たない女の言葉は、正しくても記録へ残らない。敵はそこへ戻したいのだ。
「王宮へ行く」
エリシャが言った。
「でも提出済みなら、受理前に止めないと」
「止める」
彼は短く答える。
「そのために入れた」
「何をですか」
エリシャは元の契約書の控えを取り出した。初めて署名した夜、真夜中の図書館で交わしたものだ。薄く見える紙面の一角を、彼は魔導灯へ傾ける。
すると、普段は見えない銀色の文字が、ゆっくり浮かび上がった。
――第三者の作成、代筆、脅迫、誘導による破棄申請は無効とする。
――当事者双方の立会署名と、契約締結時と同一の印章反応を要する。
私は言葉を失った。
「隠し文言……」
「初回署名時に入れてある」
エリシャは当然のように言う。
「君が切り捨てられる形で利用される可能性は、最初から高かった」
「だから、最初から守る文言を入れたんですか」
「そうだ」
あまりにも静かに答えるから、余計に胸へ刺さった。
契約結婚だと思っていた。互いに利益のため、必要だから組んだ関係だと思っていた。
もちろんそれは嘘ではない。けれどこの人は、最初の夜から、私が一人だけで切り落とされる未来を想定して、先回りしていたのだ。
私が知らないところで。
私がまだ、この人を完全には信じ切れていなかったころから。
「……どうして、言わなかったんですか」
「言えば、君はそこに甘える」
「甘えません」
「では、無茶を増やす」
反論できなかった。
少なくとも半分は、その通りだ。
王宮の小審議室で照合が行われたのは、その日の昼だった。
偽造された破棄届は、一見するとよくできていた。だが契約締結時の印章反応を再現できず、銀文字の条項にも触れていない。表面の筆跡だけを似せても、中身までは偽れなかった。
「無効です」
文書監理官が言う。
「本件の破棄申請は、正式手続を満たしておりません」
その一言で、胸に巻きついていた縄がようやく少し緩んだ。
帰りの馬車で、私は窓の外を見たまま、小さく言う。
「私、想像していたよりずっと守られていたんですね」
向かいに座るエリシャは、書類から目を上げなかった。
「今さら気づいたのか」
「今さらです」
彼はほんの少しだけ眉を動かした。
「遅い」
「すみません」
「謝るな」
そのやり取りのあと、沈黙が落ちた。
でも居心地の悪い沈黙ではなかった。膝の上へ置いた手を見下ろしながら、私はまだ胸の中で銀文字の条項をなぞっていた。
最初から守られていた。
そう知ってしまった今、契約という言葉だけでは、この気持ちを片づけにくくなっている。




