第30話 あの日、好きだと言えなかった
先生の墓は、王都の北外れにある小さな丘の上にあった。
春の気配はまだ浅く、草の間には昨夜の霜が細く残っている。救護院から少し歩いただけなのに、街のざわめきは遠かった。古い石の墓標には、派手な装飾も、立派な肩書きもない。ただ名前だけが刻まれている。
先生らしいと思った。
救護院で文字を教え、帳簿の見方を教え、寒い夜には鍋の蓋をずらして「焦がさない程度に待つことも大事」と笑っていた人。私が数字の並びから人の困りごとを読むようになったのは、あの人がいたからだ。
私は持ってきた白い花を一輪ずつ供えた。
後ろではエリシャが何も言わず、少し離れた場所で立っている。近すぎず、遠すぎず。泣くにも怒るにも邪魔にならない距離だった。
「先生」
石へ向かって声をかけると、それだけで胸が詰まった。
前の人生では、ここへ来る余裕すらなかった。助けを求めに走り、書類に追われ、子どもたちの熱に付き添い、それでも間に合わなくて、最後は処刑台へ連れて行かれた。先生へ報告したいことが山ほどあったのに、何一つ言えないままだった。
「ミナは、まだ泣き虫です。でも前よりずっと、年下の子の手を引くのがうまくなりました」
風が、花の茎を細く揺らした。
「レオは相変わらず寝相がひどいです。昨日も毛布を二枚巻き込んで、起きたら誇らしそうな顔をしていました」
私は一人ずつ名前を口にした。
前の人生で守れなかった子どもたちの名を、今度はちゃんと、先生の前で呼びたかった。ユナ。テオ。サラ。みんな、今はまだ救護院にいる。笑って、食べて、喧嘩して、生きている。
「でも、怖いです」
気づけばそう零していた。
「次は守れると思って動いてきたのに、敵が大きくなるたび、まだ奪われるんじゃないかって思います。先生なら、どうしたでしょう」
もちろん答えは返らない。
ただ、沈黙の中で、昔先生が言った声だけを思い出す。
名前を奪う者は、未来を奪う。だから書き残しなさい。呼び続けなさい。
私は唇を噛んだ。
「あの時……好きだと言えなかったんです」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも半分しか分からなかった。
先生へかもしれない。あの人の教えがどれほど私の支えだったか、生きているうちにきちんと伝えられなかった。
子どもたちへかもしれない。忙しいからと頭を撫でるだけで、怖くないよと抱きしめる余裕を持てなかった。
あるいは、もっと別の人へかもしれない。
そこまで考えたところで、涙がぽろりと落ちた。
一粒落ちたら、二粒目は止まらなかった。私は墓標の前にしゃがみ込み、花を濡らさないように両手で顔を覆った。泣くのは後回しにしてきた分だけ、胸の奥に水が溜まっていたらしい。
どれくらいそうしていたのか分からない。
泣き切るまで、エリシャは一歩も近づいてこなかった。
やがて呼吸が落ち着いたころ、足音が一つだけ草を踏んだ。
見上げると、彼が手巾を差し出していた。
「ありがとうございます」
受け取りながら鼻にかかった声で言うと、彼は少しだけ目を細めた。
「礼は墓の前で言うものではない」
「では、先生が代わりに受け取っておいてください」
「都合よく使うな」
呆れた口調だったのに、その声はやわらかかった。
丘を下りる道は、来たときより少し風が強かった。私は泣いたせいで瞼が重く、うまく前を見られないまま歩いた。
「……怖いのに」
自分でも聞こえるかどうか分からない声で言う。
「隣にいると、歩けるんです」
エリシャはすぐには答えなかった。
ただ、数歩先で立ち止まり、振り返り、それから右手を差し出した。
手袋越しの手。
握れば熱が分かるくらい近くて、それでいて逃げ道まで奪う押しつけがましさはなかった。
「道がぬかるんでいる」
それだけ言う。
ずるい人だと思った。
こんなふうに、理由を別のところへ置いて手を差し出すから、私はそのたびに救われてしまう。
私は何も言わず、その手を取った。
霜の残る坂道を、二人でゆっくり下りていく。
握ったままの手は、もう怖いことを否定してはくれなくても、怖さの中で立つための支えにはなっていた。




