第29話 王家の中の裏切り
港から戻った夜明け前、公爵家の書斎だけがまだ起きていた。
石炭の火は小さく、机の上には奪い返した封筒束、移送札、港倉庫の荷印控え、そして王家の隠し保管庫を示す符丁を書き写した紙が並んでいる。徹夜続きで頭は重いのに、眠気だけがどこかへ置き去りになっていた。
「倉庫番の証言と、昨夜の荷印は繋がります」
アリッサが紙を繰りながら言う。
「問題は、その先です。王家の文書保管係が動かなければ、この札は発行されません」
ブレアナは窓際に立ったまま、長い手袋の指先を一度だけ握りしめた。
「つまり、身内の中にいるわ。偶然では済まないくらい深く」
その言葉は、紙の上へ落ちるより先に、私の胸へ落ちた。
伯爵家と会計院だけでも十分に大きな敵だと思っていた。けれど違った。帳簿をずらし、人を飢えさせ、子どもたちの行き先を書き換えられる仕組みは、もっと高い場所から黙認されていたのだ。手を伸ばした先が、とうとう王家の内側へ触れてしまったのだと理解した瞬間、指先が少し冷えた。
「怖じ気づいた?」
机の端へ腰を乗せたマリソルが、わざと軽い口調で言う。
「怖いです」
私は正直に答えた。
「相手が大きすぎて、何人の子どもを守る前に、何人の大人が潰されるのかと考えます」
オリヴェルは負傷した脇腹を押さえながら、むっと眉を寄せた。
「その数に俺を勝手に入れるな」
「入れます。昨日、私の命令を聞かなかったので」
「聞いたぞ。半分くらいは」
「残り半分で血を流しました」
いつもなら軽口で済むやり取りなのに、今朝は誰もすぐには笑わなかった。
事態の大きさが、部屋の空気そのものを重くしている。
そんな中、エリシャが机上の札を、一本の線を引くみたいに並べ替えた。
「王家の中で動いたのは、保管命令を出せる者、封蝋の印型を扱える者、そして会計院と連絡を取れる者だ。人数はそう多くない」
「でも、少なくても王家の人間です」
私は思わず言った。
「あなたまで狙われる」
「今さらだ」
彼は淡々としていた。
「私は最初から、そのために動いている」
最初から。
一度目の人生で、この人はここまで辿り着いて、そして殺された。
その記憶が背筋を撫で、書斎の暖かさが急に遠のいた気がした。
ブレアナが、決めた顔で振り向く。
「私が表に立つわ。王族の名で文書の照会をかける。身内に嫌われるのは、もう慣れたもの」
「慣れないでください」
思わずそう言うと、彼女は少しだけ口元を緩めた。
「あなたもね」
アリッサは羽根ペンを置いた。
「私は保管係の当番表を洗います。夜勤の交代記録を見れば、誰が余計な鍵を持ち出したか、必ず痕跡があります」
コバチェフも、おずおずと手を挙げる。
「会計院側の回付記録なら、僕が覚えている印影があります。正式なものと、急ぎでごまかしたものは押し方が違うんです」
少しずつ、散らばっていた糸が束になっていく。
それでも私は、紙へ視線を落としたまま、しばらく顔を上げられなかった。
敵が大きい。
間違えれば、今度こそ誰かが死ぬ。
机の端で握っていた拳へ、ふいに温かいものが触れた。
エリシャの手だった。誰にも見せびらかすみたいには握らない。ただ、私が紙の角で自分の指を傷つける前に止めるような、静かな触れ方だった。
「だから君一人に背負わせない」
低い声が、書斎の重さを一つだけ軽くした。
「……でも」
「だがもでもない」
彼は私の手元を見たまま言う。
「君はもう十分に一人で耐えた。今は私たちがいる」
私たち。
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥がひどく熱くなった。
一度目の人生で、私は何でも自分で抱え込み、助けを求める前に全部失った。
けれど今は違う。書斎には、傷だらけの騎士がいて、眠そうな司書見習いがいて、面倒そうな顔で商売勘を働かせる商会主がいて、王家の中から背を向けてくれた令嬢がいて、そしてこの人がいる。
「……分かりました」
私はようやく息を吐いた。
「一人では背負いません」
その返事を聞いてから、エリシャはようやく私の手を離した。
ほんの数秒だったのに、触れていた場所だけ、まだ熱が残っている。
窓の外では、夜明けのいちばん薄い光が雪解け水みたいににじみ始めていた。
戦う相手は想像していたよりずっと高い場所にいる。けれど私の隣も、もう空ではない。




