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真夜中の図書館で死に戻った私は、冷血公爵と偽り結婚して家族を取り戻す  作者: 乾為天女


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第28話 港へ

 港の夜は、王都のどこより湿っていた。


 潮と油と木箱の匂いが重なり、石畳は昼の熱をなくして黒く光っている。大型船の帆綱が風に鳴り、荷役灯の橙色が水面へ長く落ちていた。


 私たちは正面から入らなかった。

 マリソルが用意した裏通路を使い、荷揚げ倉庫の陰から第七埠頭を見下ろす位置へ出る。同行はエリシャ、オリヴェル、私、それにマリソルの護衛二人。タミアは屋敷へ残り、もしこちらが失敗しても文書照合だけは続けられるよう手配していた。


 「今夜動くのは三箱」

 マリソルが低く言う。

 「一つは見せ箱。関所用の帳面と、どうでもいい写し。残り二つのどちらかに本命の関連書類があるはず」


 「本体ではなく、まず写しを出すのね」

 私が呟くと、エリシャが頷いた。

 「本体は最後まで握る。脅しにも取引にも使えるからだ」


 つまり今夜の狙いは、敵の手の内を削ること。全部は奪えなくても、流れを断てば次へ繋がる。


 倉庫前には、昼より多い見張りがいた。伯爵家の従者だけではない。港の雇われ腕も混じっている。金で雇われた者は、相手の顔より支払いの重さで動く。だからこそ、向こうは数を揃えたのだろう。


 マリソルが指で合図を送る。

 離れた場所で荷車がわざと車輪を鳴らし、見張りの視線がそちらへ流れた。次の瞬間、オリヴェルが先に飛び出す。


 「おい、そっちだ!」


 突っ込み過ぎる癖は相変わらずだ。

 でも今日はそれが生きた。見張りが二人動き、倉庫脇の通路が一瞬だけ空く。エリシャが私の手首を引き、その隙間へ滑り込んだ。


 倉庫の中は、外より暗かった。

 木箱が何段も積まれ、荷札の白だけが灯りを返す。私は王家封蝋付き移送札の符丁を思い出しながら、箱の側面を追った。東方香料。織布見本。保管用記録紙。偽装はいくらでもある。


 「こっちです」

 私は奥の棚を指した。

 外向けの商標札の下へ、薄く剥がした跡がある。貼り替えの癖を知っていれば分かる程度の傷だ。


 エリシャが短剣で縄を切る。蓋がわずかに開き、中から出てきたのは封筒束だった。会計院の控え、倉庫入出庫票、救護院関連の照合写し。原本ではない。だが流れを繋ぐには十分重い。


 「当たりね」

 マリソルが封筒を一枚抜き、灯りへ透かす。


 その瞬間、外で怒声が上がった。

 見つかった。


 「出るぞ」

 エリシャが箱を閉じる。


 しかし倉庫口へ回ったときには、もう遅かった。雇われ腕が三人、鉄棒を持って塞いでいる。背後の窓は狭く、封筒束を抱えて抜けるには厳しい。


 オリヴェルが先に踏み込んだ。

 「道を空けろ!」


 鉄と剣がぶつかる音が、狭い倉庫でやけに大きく響く。私は壁際へ寄り、封筒束を胸へ抱えた。エリシャが一人をいなす。護衛がもう一人を止める。けれど三人目が裏へ回り、港側の扉からさらに二人入ってきた。


 「多い……!」


 「だから突っ込むなと言ったんだ」

 エリシャがオリヴェルへ吐き捨てる。


 「言われる前に来たかった!」


 言い返しながら、オリヴェルは二人目の鉄棒を受けた。避けきれたと思った次の瞬間、足元の箱で体勢が崩れる。横から伸びた刃が、彼の脇腹を浅く裂いた。


 「オリヴェル!」


 時間が、そこで二つに割れた気がした。


 一つは、このまま奥の裏口へ走れば残りの箱も追える未来。もう一つは、ここで負傷した彼を助ける未来。


 ほんの一瞬、処刑台の景色が胸を掠めた。守れなかった顔。間に合わなかった背中。


 私は迷わなかった。


 「箱は捨てて!」

 叫びながら、オリヴェルへ駆け寄る。


 「何を」

 マリソルが息を呑む。


 「命を先にします!」


 私は封筒束のうち半分をエリシャへ投げ、残りを床へ蹴りやった。紙が散れば、向こうも拾わずにはいられない。ほんの数拍でも足を止められる。


 その隙に、オリヴェルの腕を肩へ回す。彼は歯を食いしばりながらも立とうとした。

 「まだ走れる」


 「走るなら黙って」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


 エリシャが退路を切り開く。護衛二人が散った紙を踏み荒らし、見張りの足を止める。私たちは裏口へ雪崩れ込んだ。潮風が一気に頬を打つ。外へ出たところで、さらに追っ手の笛が鳴った。


 「船着き場へ行くな!」

 マリソルが先導する。

 「倉庫列の間を抜ける!」


 港の裏路地は迷路みたいだった。濡れた縄、積み樽、半分崩れた網置き場。私はオリヴェルの体を支えながら必死で走る。血の匂いが塩気へ混じり、息を吸うたび喉が痛い。


 ようやく追っ手の声が遠ざかったところで、マリソルの荷捌き小屋へ転がり込んだ。


 ディウセがいない場での応急処置は心許ない。けれどオリヴェルの傷は幸い深くなかった。私は前に救護院で覚えた手順を思い出しながら布を押し当て、止血帯を巻く。


 「じっとして」


 「さっきの言い方、先生みたいだった」

 オリヴェルが青い顔で笑おうとする。


 「次にふざけたら傷口を押します」


 「やめろ、泣く」


 そんなやり取りができるなら、まだ大丈夫だ。

 私はようやく息を吐いた。


 エリシャが持ち帰れた封筒束を机へ置く。半分以上は散ったまま置いてきた。追えば、残りも奪えたかもしれない。少なくとも、さっきの一瞬だけなら。


 けれど私は後悔しなかった。

 後悔しないと、今は言い切れる。


 「全部は取れなかった」

 私が言うと、マリソルは肩をすくめた。

 「死体を増やさずに持ち帰れたなら上出来よ。紙はまた追えるもの」


 エリシャは何も言わず、机上の箱札を裏返した。


 木札の裏に、見覚えのある赤褐色の蝋が付いている。

 しかも封蝋の縁へ、ごく小さく王家保管庫の符丁が刻まれていた。


 「……王家の封蝋」

 私は息を止めた。


 「ええ」

 アリッサがいれば歯噛みしそうな印よ、とマリソルが言う。

 「港の倉庫へ置く荷札じゃない」


 つまり今夜出そうとしていたのは、本体ではない。関連書類と写しだけ。しかも一度、王家保管庫から正式に流している形を作っている。


 エリシャが札を指先で弾いた。

 「原本台帳本体は国外へ出ていない」


 「王家の中に、まだある」

 私は続けた。


 港で奪えなかったぶん、もっと大きな事実が手元へ残った。

 敵は国外逃亡の形を装いながら、本命を王都の中へ隠している。なら探す場所は絞れる。


 オリヴェルが壁にもたれたまま、薄く笑った。

 「俺の血、少しは役に立ったか」


 「次からは、もっと安い方法で役に立ってください」

 私は言った。


 その言葉に、皆が小さく笑う。

 港の夜気はまだ冷たい。けれど笑えるなら、折れてはいない。


 小屋を出る前、エリシャが私だけに聞こえる声で言った。

 「箱を追わなかったことを、責める者がいたら私が潰す」


 「責められても構いません」

 私は首を振った。

 「私はもう、守る順番を間違えたくないから」


 彼の灰色の目が、暗がりの中でわずかに柔らかくなった。

 「知っている」


 港を離れる馬車の揺れの中、私は王家の封蝋付き移送札を膝の上へ置いた。


 子どもたちは守れた。

 次は、隠された本体を奪い返す番だ。


 夜明け前の王都は、まだ眠っているように見えた。

 でもその下で、真夜中の図書館へ続く糸が、確かにこちらの手へ戻り始めていた。



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