第27話 王妃教育の罠
三日後、私は王宮東棟の小広間へ呼び出された。
名目は、王家主催の慈善晩餐へ先立つ作法確認。
だが招待状の紙質を見た時点で、まともな好意から来たものではないと分かった。金の縁取りだけ上等で、文面の端々に人を試す匂いがある。
「行かないという選択もあります」
タミアは支度を整えながら言った。
「逃げたと書かれる方が面倒です」
私は袖口を見下ろした。
今日のドレスは公爵家の色を抑え、深い青灰色に銀糸だけを散らしている。派手ではない。けれど逃げるつもりのない色だ。
「では、噛みつかれる前に噛み返してください」
タミアの励ましは物騒だが、役に立つ。
小広間へ入ると、そこにはすでに十数人の貴婦人が集まっていた。茶器、花、菓子皿、弦楽の小さな伴奏。柔らかい空気を装っているのに、視線だけが針山みたいに鋭い。
中央に座っていたマリベルが、ゆっくり扇を閉じた。
「お待ちしていましたわ、スカイラー様。公爵夫人として王宮へ出入りなさる以上、最低限の作法くらいは身につけていただかないと」
「最低限で足りるなら安心しました」
私は微笑んで席についた。
何人かが目を瞬く。
まず一つ。先に怯えた顔を見せない。
前の人生で、救護院へ寄付された異国渡りの遊戯冊子を見たことがある。歌姫の卵へ衣装や受け答えを選ばせ、相手の機嫌と観客の空気で正解を変える、妙な育成遊戯だった。子どもたちは夢中だったけれど、私は横で見ながら、要するに人の顔色と場の流れを読む練習なのだと思った。
今やることも似ている。
完璧な礼を一つ見せるより、誰がどこで失敗を待っているかを読む方が先だ。
最初の罠は、座る順だった。
下座に見せかけた席へ私を誘導し、あとから位階を理由に恥をかかせるつもりらしい。でも卓上の花の向きと給仕の立ち位置を見れば、主賓の顔が向く側は分かる。
「こちらでよろしいですか」
私はわざと一つ隣の席へ腰を下ろした。
給仕係が一瞬だけ安堵の顔をした。やはり合っていたのだ。
マリベルの扇が、ほんの少し遅れて動く。
二つ目は会話だった。
貴婦人の一人が、砂糖壺へ手を伸ばしながら言う。
「救護院のお仕事は、随分にぎやかでしょうね。王宮では静かに振る舞う方が好まれますのよ」
遠回しに、場違いだと言っている。
「そうですね」
私は答えた。
「でも静かすぎる部屋は、誰かが困っていても気づきにくいので苦手です」
隣の年嵩の夫人が、ふっと笑った。
「まあ。それは確かに」
そこから先は、会話の流れが少し変わった。
私は答えを磨き上げるのではなく、相手が答えやすい場所へ返した。緊張している若い令嬢には菓子皿の取り分けを譲り、言葉に詰まった夫人には救護院の冬支度の話を振る。誰かを笑い者にしないまま場を回すと、見ている側の肩が少しずつ下がる。
完璧さではなく、息のしやすさ。
それを選ぶだけで、空気は敵のものだけではなくなる。
マリベルは途中から露骨に苛立ち始めた。
「スカイラー様は、本当に面白い方」
彼女は甘く言う。
「けれど王妃候補向けの教育は、慈善現場の気配りとは違いますの。王都を背負うなら、もっと格式を」
「格式は人を安心させるためにあるのなら、役に立つと思います」
私は茶器を置いた。
「でも、誰かを黙らせるためだけの格式なら、少し息苦しいですね」
小広間が静まる。
正面から殴り返したわけではない。けれど扇の骨が一本折れるくらいには効いたらしい。マリベルの笑みが、その瞬間だけ遅れた。
そこへ、予定にない足音がした。
振り向くと、ブレアナが立っている。
「遅れたわ」
彼女は堂々と言った。
「東棟の廊下で、私の名前を勝手に使った呼び出し札が見つかったものだから」
その言葉で、何人かの貴婦人が顔を見合わせた。
王妃候補向け教育といいながら、実際にはブレアナの名を借りて私を引きずり出したのだと分かる。
ブレアナは私の隣へ座り、今日いちばん大きな菓子を勝手に取った。
「ねえ、マリベル。人へ恥をかかせたいなら、せめて準備は丁寧にした方がよくない?」
「何のことでしょう」
「招待状の印章位置が半寸ずれていたわ。うちの書記なら叱られる程度には雑だった」
何人かが、今度は隠さず笑った。
マリベルの面目が、音を立てずに剥がれていく。
その場はそれで終わらなかった。
散会間際、ブレアナが小さく私の袖を引いた。
「表へ出る前に、見せたいものがあるの」
連れられたのは東棟裏手の文書受け渡し廊下だった。普段は書記しか通らない狭い場所に、今日は誰もいない。ブレアナは袖の内側から小さな紙片を取り出した。
「保管庫の移送札よ」
王家の封蝋付き。しかも行き先欄に、見覚えのある符丁が記されていた。会計院封印庫から外へ出た原本台帳関連文書が、国外倉庫へ向かう前に、いったん王家保管庫へ戻されたという印だ。
「どうしてこれを」
「叔父上の書記が、捨てるつもりの控えを持っていたの」
ブレアナは唇を噛む。
「港回しに見せかけて、一度王家側で握り直している。つまり、本体はまだ王都の外へ出ていない可能性が高いわ」
私の背筋を冷たいものが走った。
原本台帳は、もう国外へ消えたと思っていた。けれど違う。本体はまだ近い場所にある。だからこそ消そうとする手も、まだ王都の中へある。
「ありがとう」
私は紙片を受け取った。
「礼は早いわ」
ブレアナは息を吐く。
「港の荷は今夜動く。写しや関連書類だけでも、外へ出される前に押さえないと」
王宮を出る馬車の中で、私は紙片を何度も見返した。
作法の席へ呼び出されたつもりが、敵は逆に尻尾を踏んだ。
屋敷へ戻ると、エリシャは私の顔を見るなり言った。
「何があった」
「港へ行きます」
私は答えた。
「今夜です」




