第26話 恋では困る
引き渡しを止めた翌日から、屋敷の空気は少しだけ変わった。
昨日までの切迫した足音が、今日は半歩ぶん穏やかだ。厨房では子どもたちのために少し甘い焼き菓子が増え、使用人たちは表向き平静を装いながらも、廊下の隅でこっそり目を合わせている。勝ったのだと皆が分かっている。でも、それを大声で祝うにはまだ早いことも分かっていた。
私は朝の帳場で保護許可証の控えを整理していた。
昨日何度も確かめたはずの印と署名を、また見直す。疑いたいわけではない。ただ、一度目の人生では、紙一枚で全部奪われた。その恐怖が、勝った直後ほど戻ってくる。
「擦り切れますよ」
タミアが新しい茶を置いた。
「紙が?」
「奥様の神経がです」
私は苦笑いをした。
「そんなに顔へ出ていましたか」
「顔には出ていません。枚数が増えています」
彼女は机の上を見た。
「同じ書類を三度見た人の積み方です」
否定できない。
タミアは少し黙ってから、声を低くした。
「引き渡しを止めたことで、外からの揺さぶり方も変わります」
「分かっています」
「いいえ。数字や法だけではありません」
彼女はまっすぐ私を見た。
「契約結婚のままでは、旦那様の足場も奥様の足場も、感情のない紙で崩されます」
茶の湯気が、少しだけ視界を曇らせた。
「感情がある方が、判断を誤ります」
私は言った。
「今はまだ、恋なんて」
「困りますか」
タミアの問いは、針みたいに小さくて、逃げにくい。
「困ります」
私は紙へ視線を落とした。
「傾けば、弱点になります」
彼女はそれ以上言わなかった。ただ、湯気の立つ茶器を私の手の届きやすい位置へ動かし、静かに出ていった。
困る。
そう口にした瞬間、胸のどこかが嫌な音を立てた。
その日から私は、意識してエリシャとの距離を取り始めた。
必要な報告は書面で回す。夜の確認は執務室ではなく会議室で。食事の席も、子どもたちやタミアが一緒の時間を選ぶ。自分で決めたことなのに、やればやるほど不自然になるのが厄介だった。
昼食の席で、レオがあっさり言う。
「けんかしたの?」
「していないわ」
「じゃあなんで、公爵さまのとなり座らないの」
スープを吹きそうになった。
向かいでミナが呆れた顔をする。
「レオ、そういうこと聞かないの」
「だって前は座ってた」
「前って、いつ」
思わず聞き返すと、レオは真面目に指を折った。
「夜のしょるいのとき。朝のパンのとき。あと、こないだのあまい芋のとき」
子どもはよく見ている。
私は返事に詰まったが、助かったのはそこでエリシャが遅れて入ってきたことだった。彼はいつもの無表情のまま席につき、子どもたちの皿を一通り見回してから、自分の分へ手を伸ばす。
「芋は残っているのか」
話題を変えてくれたのだと分かっても、余計に心臓に悪い。
午後、救護院から戻る途中で雨が降った。
春先の雨は細いのに冷たい。馬車を呼ぶほどではない距離だったから、私は外套の襟を寄せて足を速めた。すると屋敷の角を曲がったところで、見慣れた黒い傘が視界へ入る。
エリシャだった。
「どうしてここに」
「会計院から戻る途中だ」
彼は当然みたいに答えた。
「濡れるぞ」
言われるまでもなく濡れている。けれど私は半歩下がった。
「大丈夫です。もう着きますから」
「そうか」
エリシャはそこで終わらせなかった。私が避けたぶんだけ歩幅を詰め、無言で傘をこちらへ傾ける。結局、離れようとした方が濡れるだけで、私の肩は彼の外套へ触れる距離まで戻ってしまった。
「避けられている自覚はある」
雨音の下で、彼が言った。
私は息を呑む。
「そういうわけでは」
「そういうわけだろう」
責める声ではなかった。ただ事実を置く声だ。それが余計に逃げづらい。
「今は、判断を曇らせたくないんです」
私は前だけ見たまま言った。
「一つ守れたからといって、浮かれて、足元をすくわれるわけにはいきません」
「君は、私の近くにいると浮かれるのか」
「そういう言い方をするのはずるいです」
返事の代わりに、エリシャはほんの少しだけ息を吐いた。笑ったのかどうか分からない程度の、短い呼気。
「私は逆だ」
彼は言う。
「君が距離を取るほど、追いたくなる」
雨が急に強くなった気がした。
そんなことをこの人が言うなんて、一度目の人生の私なら想像もできない。今の私だって、想像したくなかった。困るからだ。心臓が、紙の理屈を全部無視して速くなる。
「……困ります」
「知っている」
屋敷の灯りが見えたところで会話は切れたけれど、その短いやり取りだけで、その日じゅう胸の奥が落ち着かなかった。
夜、私は結局また真夜中の図書館へ向かった。
紙を見ても雨音を聞いても、さっきの言葉が戻ってくる。ならいっそ、別の恐ろしいものを見て頭を冷やしたかった。
地下書庫の最奥。魔導鏡の前は、相変わらず冷たい。
アリッサが灯りを絞って待っていた。
「今夜は何を見たいんです」
「見たいものなんてありません」
私は正直に答える。
「でも、見ないで済む立場でもないの」
鏡面は最初、曇った水みたいに揺れていた。
やがて輪郭が結ぶ。
映ったのは、見覚えのある黒い外套と、私の白い指先だった。
私は息を止める。
鏡の中の私は、エリシャの胸元を掴むようにして立っている。彼の顔が近い。近すぎる。次の瞬間、その距離は消えた。唇が触れる。偽りでも、芝居でもない口づけだった。
鏡の前で、私は一歩よろめいた。
「な、」
言葉にならない。
頬が一気に熱くなる。アリッサが珍しく目を丸くし、それからすぐに眉を寄せた。
「待って」
彼女が鏡を指す。
口づけの場面は、水へ墨を垂らしたみたいに崩れた。代わりに現れたのは、血の飛んだ王冠だった。黒い床。重い扉。封印庫の紋。誰かの手が扉を閉め、赤い筋が石へ落ちる。
甘い未来の直後に、冷たい未来が続く。
私はようやく息を吐いた。
「……やっぱり、恋では困る」
アリッサは鏡から目を離さないまま、小さく言った。
「でも、困るものほど隠し場所を間違えると危ないですよ」
その夜、部屋へ戻っても眠れなかった。
口づけの熱と、血のついた王冠の冷たさが、交互に胸の中を通り過ぎる。
恋では困る。
けれど困るからといって、なかったことには、もうできなかった。




