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真夜中の図書館で死に戻った私は、冷血公爵と偽り結婚して家族を取り戻す  作者: 乾為天女


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25/40

第25話 引き渡し当日

 引き渡し当日の朝は、空まで張り詰めていた。


 救護院の門前へ立つと、石畳の冷えが靴底から真っすぐ伝わってくる。まだ朝の鐘が鳴りきらないうちから、通りの向こうには物見高い顔が少しずつ増えていた。伯爵家の使いが来る。王家の承認書が出るらしい。公爵夫人がまた何かする。王都の噂は、火より先に走る。


 門の内側では、子どもたちがいつもより静かだった。


 レオは落ち着かない足取りで中庭を三往復し、ミナはそんな彼の襟元を何度も直し、ユナは自分の木札を握ったまま離さない。ノエルだけが妙に背筋を伸ばしていたが、靴紐が片方ほどけたままだった。


 「大丈夫よ」

 私は一人ずつ視線を合わせて言った。

 「今日は誰も、どこにも連れて行かれないわ」


 「ほんと?」

 ユナの声は小さい。


 「ほんと」


 そう答えながら、胸の奥では別の鼓動が跳ねていた。絶対に守ると決めていても、絶対という言葉はいつだって怖い。だから私は子どもたちの前でだけ、声をゆっくり置いた。


 エリシャは門柱の陰で、すでに配置を終えていた。通りの両端へはオリヴェルの騎士たちが散り、屋根の上にも見張りがいる。公には護衛の体裁だが、実際には逃がさないための網だ。


 「馬車は二台」

 オリヴェルが戻ってきて低く告げる。

 「人を乗せる箱型が一台、書類持ち込み用が一台。伯爵家の従者が四、会計院の書記が二。あと、農園主の代理を名乗る男が一人」


 「農園主本人は?」

 私が聞くと、オリヴェルは唇を曲げた。

 「商会連合から先に話が行ったらしい。腰が引けたか、表へは出てこなかった」


 マリソルらしい。


 やがて、馬車の音が通りの向こうから近づいてきた。


 伯爵家の濃緑の紋章を付けた従者が先に降り、続いて会計院の書記が箱を抱えて下りる。最後に、真珠色の外套を揺らしながらマリベルが姿を見せた。今日も彼女は、悲しそうな顔を作る角度が完璧だった。


 「まあ……まだ子どもたちを外へ出していないのですね」

 門前へ立つなり、マリベルは胸へ手を当てた。

 「可哀想に。説明もされていないなんて」


 「説明なら、こちらがします」

 私は門の中央へ出た。


 マリベルの後ろで、会計院の書記が書類箱を開く。見覚えのある書式。子どもたちの名を物の受け渡しみたいに並べた紙だ。


 「正式な奉公斡旋です」

 書記が声を張る。

 「保護対象年長児の生活安定と将来の職能育成のため、慈善後援のもと――」


 「その先を読み上げる必要はありません」

 エリシャが一歩前へ出た。

 「見苦しいだけだ」


 通りがざわつく。

 公爵の低い声は、それだけで空気の温度を変える。


 けれど書記は震えながらも紙を掲げた。

 「し、しかし、こちらには承認印が」


 「その印章の蝋色が、ラフォント長官執務室の特注品だと証明できます」

 私は封筒から控えを取り出した。

 「しかも署名は院長代行本人の筆跡ではありません」


 マリベルがすぐに割って入る。

 「まあ、ずいぶん大胆なことを。紙切れを並べて慈善を妨げるつもり?」


 「紙切れで人を売ろうとした方が、慈善を名乗らないでください」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。

 怒鳴るより、その方がよく届いた。


 マリベルの笑みが、一瞬だけ浅くなる。


 「救護院には十分な資金がありません。年長の子たちへ働き口を用意するのは、現実的な救済ですわ」


 「現実的なのは、子どもたちへ毛布も食料も届かないよう途中で抜き取っておいて、その不足を理由に売り渡す仕組みの方でしょう」


 私は次の紙を出した。北倉庫、中継倉庫、南区画小倉庫。数字の落差が一目で分かるよう、昨夜のうちにタミアが同じ欄へ赤線を引いてくれていた。


 「救護院へ向かうはずだった物資の消失記録です。こちらには商会連合の照合印もあります」


 その名を出した途端、通りの反対側で控えていた馬車の扉が開いた。


 マリソルが降りてくる。

 今日は旅装ではなく、濃紺の外套に銀糸の縁取りを入れた商会正装だった。飾りは少ないのに、立った瞬間に人の目がそちらへ引かれる。


 「補足しましょうか」

 彼女は歩きながら言った。

 「引き渡し先として記された農園と工房には、商会連合から契約違反時の損害請求予告をすでに送っています。受け取っているのに今日ここへ来たなら、責任逃れは通りません」


 代理の男の顔から血の気が引いた。

 「そ、それは、聞いていない……」


 「今、聞いたでしょう」

 マリソルはにこりともせず返した。


 そこへ、馬車の後ろからさらに別の足音が重なった。


 「聞いていないなら、こちらも読み上げます」


 ブレアナだった。

 王家の白金色の外套をまとい、今日は髪もきっちり結い上げている。彼女が掲げた文書には、誰の目にも分かる王家印が押されていた。


 「保護対象児一時移送停止ならびに仮後見承認書。王家後見補助枠に基づき、救護院児童の移送を禁じます」


 書記が顔を歪める。

 「そんなもの、仮承認では」


 「仮でも有効です」

 ブレアナは言い切った。

 「読めるなら、ですが」


 通りのざわめきが、今度は笑いに変わる。

 マリベルの頬がぴくりと動いた。社交の場では見せない、本当の苛立ちの顔だった。


 「王家のお名前を、こんな場所で」

 「こんな場所だからです」

 ブレアナは一歩も引かない。

 「子どもたちを売る書類に、私の名が使われるよりよほどましです」


 空気が張る。


 私は最後の書類を取り出した。正式な保護許可証。ディウセの診療証明、仮後見承認、居住継続許可、それらを束ねた今日の切り札だ。


 「レオ、ユナ、ノエル、リタ、ミナ」

 私は子どもたちの名を、通りへ届く声で呼んだ。

 「あなたたちはここに残ります。正式に、守られます」


 門の内側で、レオが目を見開いた。

 ユナは握っていた木札を落としそうになり、ミナが慌てて支える。ノエルだけが最初に理解したらしい。唇をぎゅっと引き結び、それから急に顔をぐしゃぐしゃにした。


 「……ほんとうに?」


 「ほんとう」


 その返事と同時に、書記の男が何か言おうとしたが、もう通りの空気は彼のものではなかった。

 野次馬たちの視線は、子どもたちへ集まっている。

 番号ではなく、名前で呼ばれた子どもたちへ。


 ユナが、ぽろぽろ泣きながら門から飛び出してきた。

 「スカイラー……!」


 先生、でも、奥様、でもなく、ただ名前だけだった。


 私は膝をつく。ユナがそのまま抱きついてきて、続いてレオが腕へしがみつき、ミナが泣くまいとして泣き、ノエルまで鼻をすすりながら肩口へ額を押しつけてくる。


 門前でそんなことをしている場合ではないのに、私はしばらく動けなかった。


 「残れるの?」

 「名前、消えない?」

 「もう馬車、乗らなくていい?」


 「ええ。乗らなくていい」

 私は一人ずつ答えた。

 「あなたたちはここにいるの。あなたたちの名前で」


 背後で、マリベルの扇がぱたりと閉じる音がした。


 「……今日は退くしかありませんわね」

 彼女は微笑みを貼り直して言った。

 「けれど、すべてが終わったようなお顔は早いのではなくて?」


 私は振り向いた。

 「ええ。終わっていません」


 終わらせるのは、これからだ。


 マリベルは返事をしなかった。代わりに、こちらを値踏みするような視線だけを置いて馬車へ戻る。伯爵家の従者たちも、会計院の書記も、逃げるように乗り込んだ。


 車輪が遠ざかり、ようやく通りの緊張がほどける。


 オリヴェルが大きく息を吐いた。

 「勝った、でいいのか?」


 「一つ目です」

 エリシャが答える。

 「まだ先がある」


 それでも、その声は少しだけ柔らかかった。


 子どもたちはしばらく私のまわりから離れず、夕方には門前の木札箱をひっくり返して遊び始めた。いらない札は舟にして水桶へ浮かべ、レオが三枚まとめて沈め、ユナが真剣に怒る。


 私はその光景を見ながら、胸の奥でようやく一つ息を吐いた。


 守れた。

 全部ではない。まだ証拠も敵も残っている。けれど今日、この朝だけは、子どもたちを売られる未来から引き戻せた。


 夕暮れ、救護院の廊下でエリシャが私へ近づいた。

 「泣くなら今のうちだ」


 「泣きません」

 そう言ったのに、目の奥が熱い。


 「そうか」

 彼は短く返したあと、誰にも見えない角度で私の肩を軽く叩いた。

 「では、次へ行くぞ」


 その一言に、私は泣かないまま頷いた。



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