第25話 引き渡し当日
引き渡し当日の朝は、空まで張り詰めていた。
救護院の門前へ立つと、石畳の冷えが靴底から真っすぐ伝わってくる。まだ朝の鐘が鳴りきらないうちから、通りの向こうには物見高い顔が少しずつ増えていた。伯爵家の使いが来る。王家の承認書が出るらしい。公爵夫人がまた何かする。王都の噂は、火より先に走る。
門の内側では、子どもたちがいつもより静かだった。
レオは落ち着かない足取りで中庭を三往復し、ミナはそんな彼の襟元を何度も直し、ユナは自分の木札を握ったまま離さない。ノエルだけが妙に背筋を伸ばしていたが、靴紐が片方ほどけたままだった。
「大丈夫よ」
私は一人ずつ視線を合わせて言った。
「今日は誰も、どこにも連れて行かれないわ」
「ほんと?」
ユナの声は小さい。
「ほんと」
そう答えながら、胸の奥では別の鼓動が跳ねていた。絶対に守ると決めていても、絶対という言葉はいつだって怖い。だから私は子どもたちの前でだけ、声をゆっくり置いた。
エリシャは門柱の陰で、すでに配置を終えていた。通りの両端へはオリヴェルの騎士たちが散り、屋根の上にも見張りがいる。公には護衛の体裁だが、実際には逃がさないための網だ。
「馬車は二台」
オリヴェルが戻ってきて低く告げる。
「人を乗せる箱型が一台、書類持ち込み用が一台。伯爵家の従者が四、会計院の書記が二。あと、農園主の代理を名乗る男が一人」
「農園主本人は?」
私が聞くと、オリヴェルは唇を曲げた。
「商会連合から先に話が行ったらしい。腰が引けたか、表へは出てこなかった」
マリソルらしい。
やがて、馬車の音が通りの向こうから近づいてきた。
伯爵家の濃緑の紋章を付けた従者が先に降り、続いて会計院の書記が箱を抱えて下りる。最後に、真珠色の外套を揺らしながらマリベルが姿を見せた。今日も彼女は、悲しそうな顔を作る角度が完璧だった。
「まあ……まだ子どもたちを外へ出していないのですね」
門前へ立つなり、マリベルは胸へ手を当てた。
「可哀想に。説明もされていないなんて」
「説明なら、こちらがします」
私は門の中央へ出た。
マリベルの後ろで、会計院の書記が書類箱を開く。見覚えのある書式。子どもたちの名を物の受け渡しみたいに並べた紙だ。
「正式な奉公斡旋です」
書記が声を張る。
「保護対象年長児の生活安定と将来の職能育成のため、慈善後援のもと――」
「その先を読み上げる必要はありません」
エリシャが一歩前へ出た。
「見苦しいだけだ」
通りがざわつく。
公爵の低い声は、それだけで空気の温度を変える。
けれど書記は震えながらも紙を掲げた。
「し、しかし、こちらには承認印が」
「その印章の蝋色が、ラフォント長官執務室の特注品だと証明できます」
私は封筒から控えを取り出した。
「しかも署名は院長代行本人の筆跡ではありません」
マリベルがすぐに割って入る。
「まあ、ずいぶん大胆なことを。紙切れを並べて慈善を妨げるつもり?」
「紙切れで人を売ろうとした方が、慈善を名乗らないでください」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
怒鳴るより、その方がよく届いた。
マリベルの笑みが、一瞬だけ浅くなる。
「救護院には十分な資金がありません。年長の子たちへ働き口を用意するのは、現実的な救済ですわ」
「現実的なのは、子どもたちへ毛布も食料も届かないよう途中で抜き取っておいて、その不足を理由に売り渡す仕組みの方でしょう」
私は次の紙を出した。北倉庫、中継倉庫、南区画小倉庫。数字の落差が一目で分かるよう、昨夜のうちにタミアが同じ欄へ赤線を引いてくれていた。
「救護院へ向かうはずだった物資の消失記録です。こちらには商会連合の照合印もあります」
その名を出した途端、通りの反対側で控えていた馬車の扉が開いた。
マリソルが降りてくる。
今日は旅装ではなく、濃紺の外套に銀糸の縁取りを入れた商会正装だった。飾りは少ないのに、立った瞬間に人の目がそちらへ引かれる。
「補足しましょうか」
彼女は歩きながら言った。
「引き渡し先として記された農園と工房には、商会連合から契約違反時の損害請求予告をすでに送っています。受け取っているのに今日ここへ来たなら、責任逃れは通りません」
代理の男の顔から血の気が引いた。
「そ、それは、聞いていない……」
「今、聞いたでしょう」
マリソルはにこりともせず返した。
そこへ、馬車の後ろからさらに別の足音が重なった。
「聞いていないなら、こちらも読み上げます」
ブレアナだった。
王家の白金色の外套をまとい、今日は髪もきっちり結い上げている。彼女が掲げた文書には、誰の目にも分かる王家印が押されていた。
「保護対象児一時移送停止ならびに仮後見承認書。王家後見補助枠に基づき、救護院児童の移送を禁じます」
書記が顔を歪める。
「そんなもの、仮承認では」
「仮でも有効です」
ブレアナは言い切った。
「読めるなら、ですが」
通りのざわめきが、今度は笑いに変わる。
マリベルの頬がぴくりと動いた。社交の場では見せない、本当の苛立ちの顔だった。
「王家のお名前を、こんな場所で」
「こんな場所だからです」
ブレアナは一歩も引かない。
「子どもたちを売る書類に、私の名が使われるよりよほどましです」
空気が張る。
私は最後の書類を取り出した。正式な保護許可証。ディウセの診療証明、仮後見承認、居住継続許可、それらを束ねた今日の切り札だ。
「レオ、ユナ、ノエル、リタ、ミナ」
私は子どもたちの名を、通りへ届く声で呼んだ。
「あなたたちはここに残ります。正式に、守られます」
門の内側で、レオが目を見開いた。
ユナは握っていた木札を落としそうになり、ミナが慌てて支える。ノエルだけが最初に理解したらしい。唇をぎゅっと引き結び、それから急に顔をぐしゃぐしゃにした。
「……ほんとうに?」
「ほんとう」
その返事と同時に、書記の男が何か言おうとしたが、もう通りの空気は彼のものではなかった。
野次馬たちの視線は、子どもたちへ集まっている。
番号ではなく、名前で呼ばれた子どもたちへ。
ユナが、ぽろぽろ泣きながら門から飛び出してきた。
「スカイラー……!」
先生、でも、奥様、でもなく、ただ名前だけだった。
私は膝をつく。ユナがそのまま抱きついてきて、続いてレオが腕へしがみつき、ミナが泣くまいとして泣き、ノエルまで鼻をすすりながら肩口へ額を押しつけてくる。
門前でそんなことをしている場合ではないのに、私はしばらく動けなかった。
「残れるの?」
「名前、消えない?」
「もう馬車、乗らなくていい?」
「ええ。乗らなくていい」
私は一人ずつ答えた。
「あなたたちはここにいるの。あなたたちの名前で」
背後で、マリベルの扇がぱたりと閉じる音がした。
「……今日は退くしかありませんわね」
彼女は微笑みを貼り直して言った。
「けれど、すべてが終わったようなお顔は早いのではなくて?」
私は振り向いた。
「ええ。終わっていません」
終わらせるのは、これからだ。
マリベルは返事をしなかった。代わりに、こちらを値踏みするような視線だけを置いて馬車へ戻る。伯爵家の従者たちも、会計院の書記も、逃げるように乗り込んだ。
車輪が遠ざかり、ようやく通りの緊張がほどける。
オリヴェルが大きく息を吐いた。
「勝った、でいいのか?」
「一つ目です」
エリシャが答える。
「まだ先がある」
それでも、その声は少しだけ柔らかかった。
子どもたちはしばらく私のまわりから離れず、夕方には門前の木札箱をひっくり返して遊び始めた。いらない札は舟にして水桶へ浮かべ、レオが三枚まとめて沈め、ユナが真剣に怒る。
私はその光景を見ながら、胸の奥でようやく一つ息を吐いた。
守れた。
全部ではない。まだ証拠も敵も残っている。けれど今日、この朝だけは、子どもたちを売られる未来から引き戻せた。
夕暮れ、救護院の廊下でエリシャが私へ近づいた。
「泣くなら今のうちだ」
「泣きません」
そう言ったのに、目の奥が熱い。
「そうか」
彼は短く返したあと、誰にも見えない角度で私の肩を軽く叩いた。
「では、次へ行くぞ」
その一言に、私は泣かないまま頷いた。




