第24話 公爵の寝室で朝を迎えるな
目が覚めたのは、聞き慣れない静寂のせいだった。
救護院の朝みたいに誰かが毛布を蹴る音もしない。屋敷の廊下みたいに遠くで食器が触れ合う音もしない。代わりに、暖炉の残り火が小さく崩れる音だけがした。
私はゆっくり瞬きをして、自分の手元に見覚えのない毛布が掛かっていることに気づいた。柔らかくて重い、公爵家の客用より上等なもの。長椅子の肘掛け。壁際の本棚。窓から差す薄青い朝。
「……あ」
ここ、エリシャの私室だ。
飛び起きようとして、肩から毛布が滑り落ちた。途端に頭の端で昨日の記憶が戻る。書類。青い封筒。長椅子。少しだけ眠るつもりで、そのまま。
そして私は、自分の足元に整然と揃えられた靴を見てしまった。
誰が揃えたのかは、考えない方が平穏だ。
扉の向こうで、控えめなノックが二度。
「旦那様、奥様。朝食を――」
若い使用人の声が、途中で止まる。
その一拍の沈黙が、やけに長かった。
私は青ざめた。最悪だ。説明の余地がある場面なのに、朝一番の間が全部を台無しにする種類の最悪だ。
「ま、待ってください!」
慌てて毛布を抱えたまま立ち上がる。けれど一歩目で長椅子の脚へ裾を引っかけ、危うく前へ倒れそうになった。その腕を横から支えたのが、いつの間に起きていたのか分からないエリシャだった。
「慌てるな」
「慌てます!」
「そうか」
「そうです!」
声が大きくなってしまった。扉の向こうで小さく息を呑む気配がする。終わった。もう終わった。
エリシャは私を立たせたまま、扉へ向かった。私は制止する暇もなく、ただ毛布を抱えた姿勢で固まる。
扉が開く。
そこにいたのは朝食係の若い使用人だけではなかった。盆を持った侍女が一人、その後ろに廊下を通りかかったふりの下働きが二人。さらに少し離れたところで、あからさまに壁の花瓶を磨く演技をしている誰かまでいる。
屋敷じゅう、耳が早すぎる。
しかしエリシャは眉一つ動かさなかった。
「朝食は中へ」
それだけ言う。
若い使用人が目を白黒させる。
「で、ですが、その、奥様が」
「妻がここで眠って何か問題が?」
廊下の空気がぴたりと固まった。
私は扉の影から、声もなく口を開けた。正面からそう言い切るとは思っていなかった。もっとこう、曖昧に誤解を避けるものだと。
侍女が最初に我へ返り、深く頭を下げる。
「失礼いたしました。すぐにお支度を」
「いや」
エリシャが淡々と続ける。
「騒ぎ立てるなら、今朝の書類仕事が一刻遅れる。君たちの噂話で子どもたちが売られたら、私は機嫌が悪くなるが」
下働き二人が同時に背筋を伸ばした。花瓶を磨いていた者は、本気で花瓶を磨き始める。
「だ、誰も何も申し上げておりません!」
「なら結構」
扉が閉まる。
室内へ戻った静けさの中で、私は両手の毛布へ顔を埋めたくなった。
「……今の言い方は反則です」
「事実だ」
「言い方の問題です」
「細かいな」
細かいのはどちらだろう。けれど抗議しながらも、胸の奥で別の熱がじわじわ広がっていくのを止められない。あの場で否定されなかったこと。ごまかされなかったこと。妻と呼ぶ声が、あまりにも自然だったこと。
私が言葉を探しているうちに、タミアが入ってきた。
彼女は盆を受け取り、まず私の乱れた髪を一瞥し、次に長椅子の脇へ積まれた書類を見、最後に机の端の青封筒へ目を留めた。
「なるほど」
その一言だけで大体全部把握したらしい。
「誤解です」
私は先に言った。
「何の誤解でしょう」
「だから、その」
「書類作業の徹夜ですね」
「……はい」
「存じております」
タミアの口元がほんの少しだけ動いた。笑っている。完全に笑っている。
「ただし」
彼女は私の肩へ手を置いた。
「屋敷の者どもは“公爵夫人が旦那様の私室から朝を迎えた”という事実だけで一日働けますので、今日は皆の動きが少し速いでしょう」
「それは励ましですか」
「実益です」
否定できないのが悔しい。
朝食は結局、この部屋で取ることになった。急ぐためだ。パン、半熟卵、薄く切った果物、それに濃い茶。食べながら、昨夜コバチェフが持ち出した青封筒の中身を確認する。
会計院封印庫移送台帳の控え。
救護院年長児引き渡し承認の内部回覧。
そして、ラフォント執務室から出た特注蝋の使用記録。
「よく持ち出せたわね……」
私は思わず呟いた。
「封印庫前の整理札へ紛れ込ませたそうです」
タミアが答える。
「帰り道で二度吐いたと、護衛が」
「その情報は要りますか」
「頑張ったという意味では要るかと」
オリヴェルが朝から泥の付いた靴で飛び込んできたのは、その直後だった。
「南通りに見慣れない馬車が二台。片方は人を乗せる檻付き荷台だ」
私の指から茶杯の温度が抜ける。
「もう来たの?」
「下見でしょう。本番は今日の夕刻か、遅くても明日の昼」
エリシャが即座に立ち上がる。
「タミア、最終提出の順を組み替えろ。ブレアナの承認を最優先に上げる」
「承知しました」
そこからは、朝の騒ぎを恥じる暇もなかった。
ブレアナは約束通り、正式承認を携えて王宮から駆けつけた。今日は髪飾りまで曲がっている。急いだのだろう。
「途中であの女の取り巻きに止められたけれど、階段を一本飛ばしで降りたわ」
「令嬢が?」
オリヴェルが目を丸くする。
「子どもが売られそうなのに、優雅に歩いていられると思う?」
そう言い切る顔は、前よりずっと頼もしい。
昼前にはマリソルからも連絡が入った。引き渡し先のうち二か所へ、商会連合名義で契約違反時の損害請求予告を打ったという。相手の農園主は青くなり、工房主は留守を使って逃げ出しかけているらしい。
「逃げても構わないわ」
伝言にはそう添えられていた。
「逃げたという記録が残るもの」
午後、私は救護院で子どもたちと短い昼食を取った。何も知らない顔で笑う子どもたちを見るたび、明日までに絶対終わらせると腹の底で思い直す。
「スカイラー、今日ね、ノエルが字をまちがえなかった」
ユナが嬉しそうに報告する。
「ほんと?」
「でもレオは、わざと一個まちがえた」
「だって、全部合ってたら先生みたいだろ」
「意味が分からないわ」
笑いが起きる。
この笑い声を守るために、私は昨日契約書を破らなかったのだ。
怒りの順番を間違えないために。
夕方前、救護院前の通りで、ついに敵の使いが動いた。先触れの役人、御者、書記らしき男、そして伯爵家の紋を隠しきれていない従者。まだ引き渡し当日ではない。だが顔ぶれを揃え、周囲へ“手続きは進んでいる”と見せるための前触れだ。
私は門前へ出た。エリシャが隣に立ち、オリヴェルが半歩前へ出る。
書記の男が恭しく頭を下げた。
「明日の手続き確認に参りました。年長児の整列と身分確認を」
「拒否します」
私は間を置かずに答えた。
「ですが、正式な契約に」
「その契約が正式かどうかを、こちらが明日確認します」
男が口を開きかけたところで、ブレアナが王家印付きの仮承認書を掲げた。
「保護対象児の一時移送停止命令です。読めないなら、ここで読み上げましょうか」
通りの人々がざわめく。
敵の使いはそれ以上踏み込めず、引き下がるしかなかった。だが去り際、従者の一人がこちらを睨んだ。その目に焦りがあった。向こうも、明日が勝負だと分かっている。
日が落ちるころ、私はようやく屋敷へ戻った。
朝の失態を思い出して赤くなる暇も、もうない。ただ、廊下を歩く使用人たちの足取りが確かに速いのは分かった。噂で動こうが実益で動こうが、今日だけはその速さを歓迎する。
明日、子どもたちを乗せるはずだった馬車は、門前で止める。
契約書は、その場で突きつける。
逃げ道のない順番で。
夜の食堂で最後の確認を終えたとき、エリシャが静かに言った。
「明日だ」
私は頷いた。
「はい。引き渡し当日です」
その言葉を口にした瞬間、恐怖より先に、腹の底で何かがまっすぐ燃えた。




