表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真夜中の図書館で死に戻った私は、冷血公爵と偽り結婚して家族を取り戻す  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/40

第24話 公爵の寝室で朝を迎えるな

 目が覚めたのは、聞き慣れない静寂のせいだった。


 救護院の朝みたいに誰かが毛布を蹴る音もしない。屋敷の廊下みたいに遠くで食器が触れ合う音もしない。代わりに、暖炉の残り火が小さく崩れる音だけがした。


 私はゆっくり瞬きをして、自分の手元に見覚えのない毛布が掛かっていることに気づいた。柔らかくて重い、公爵家の客用より上等なもの。長椅子の肘掛け。壁際の本棚。窓から差す薄青い朝。


 「……あ」


 ここ、エリシャの私室だ。


 飛び起きようとして、肩から毛布が滑り落ちた。途端に頭の端で昨日の記憶が戻る。書類。青い封筒。長椅子。少しだけ眠るつもりで、そのまま。


 そして私は、自分の足元に整然と揃えられた靴を見てしまった。

 誰が揃えたのかは、考えない方が平穏だ。


 扉の向こうで、控えめなノックが二度。


 「旦那様、奥様。朝食を――」

 若い使用人の声が、途中で止まる。


 その一拍の沈黙が、やけに長かった。


 私は青ざめた。最悪だ。説明の余地がある場面なのに、朝一番の間が全部を台無しにする種類の最悪だ。


 「ま、待ってください!」


 慌てて毛布を抱えたまま立ち上がる。けれど一歩目で長椅子の脚へ裾を引っかけ、危うく前へ倒れそうになった。その腕を横から支えたのが、いつの間に起きていたのか分からないエリシャだった。


 「慌てるな」

 「慌てます!」

 「そうか」

 「そうです!」


 声が大きくなってしまった。扉の向こうで小さく息を呑む気配がする。終わった。もう終わった。


 エリシャは私を立たせたまま、扉へ向かった。私は制止する暇もなく、ただ毛布を抱えた姿勢で固まる。


 扉が開く。


 そこにいたのは朝食係の若い使用人だけではなかった。盆を持った侍女が一人、その後ろに廊下を通りかかったふりの下働きが二人。さらに少し離れたところで、あからさまに壁の花瓶を磨く演技をしている誰かまでいる。


 屋敷じゅう、耳が早すぎる。


 しかしエリシャは眉一つ動かさなかった。


 「朝食は中へ」

 それだけ言う。


 若い使用人が目を白黒させる。

 「で、ですが、その、奥様が」

 「妻がここで眠って何か問題が?」


 廊下の空気がぴたりと固まった。


 私は扉の影から、声もなく口を開けた。正面からそう言い切るとは思っていなかった。もっとこう、曖昧に誤解を避けるものだと。


 侍女が最初に我へ返り、深く頭を下げる。

 「失礼いたしました。すぐにお支度を」

 「いや」

 エリシャが淡々と続ける。

 「騒ぎ立てるなら、今朝の書類仕事が一刻遅れる。君たちの噂話で子どもたちが売られたら、私は機嫌が悪くなるが」


 下働き二人が同時に背筋を伸ばした。花瓶を磨いていた者は、本気で花瓶を磨き始める。


 「だ、誰も何も申し上げておりません!」

 「なら結構」


 扉が閉まる。


 室内へ戻った静けさの中で、私は両手の毛布へ顔を埋めたくなった。

 「……今の言い方は反則です」

 「事実だ」

 「言い方の問題です」

 「細かいな」


 細かいのはどちらだろう。けれど抗議しながらも、胸の奥で別の熱がじわじわ広がっていくのを止められない。あの場で否定されなかったこと。ごまかされなかったこと。妻と呼ぶ声が、あまりにも自然だったこと。


 私が言葉を探しているうちに、タミアが入ってきた。


 彼女は盆を受け取り、まず私の乱れた髪を一瞥し、次に長椅子の脇へ積まれた書類を見、最後に机の端の青封筒へ目を留めた。


 「なるほど」

 その一言だけで大体全部把握したらしい。


 「誤解です」

 私は先に言った。


 「何の誤解でしょう」

 「だから、その」

 「書類作業の徹夜ですね」

 「……はい」

 「存じております」


 タミアの口元がほんの少しだけ動いた。笑っている。完全に笑っている。


 「ただし」

 彼女は私の肩へ手を置いた。

 「屋敷の者どもは“公爵夫人が旦那様の私室から朝を迎えた”という事実だけで一日働けますので、今日は皆の動きが少し速いでしょう」


 「それは励ましですか」

 「実益です」


 否定できないのが悔しい。


 朝食は結局、この部屋で取ることになった。急ぐためだ。パン、半熟卵、薄く切った果物、それに濃い茶。食べながら、昨夜コバチェフが持ち出した青封筒の中身を確認する。


 会計院封印庫移送台帳の控え。

 救護院年長児引き渡し承認の内部回覧。

 そして、ラフォント執務室から出た特注蝋の使用記録。


 「よく持ち出せたわね……」

 私は思わず呟いた。


 「封印庫前の整理札へ紛れ込ませたそうです」

 タミアが答える。

 「帰り道で二度吐いたと、護衛が」

 「その情報は要りますか」

 「頑張ったという意味では要るかと」


 オリヴェルが朝から泥の付いた靴で飛び込んできたのは、その直後だった。

 「南通りに見慣れない馬車が二台。片方は人を乗せる檻付き荷台だ」


 私の指から茶杯の温度が抜ける。


 「もう来たの?」

 「下見でしょう。本番は今日の夕刻か、遅くても明日の昼」

 エリシャが即座に立ち上がる。

 「タミア、最終提出の順を組み替えろ。ブレアナの承認を最優先に上げる」

 「承知しました」


 そこからは、朝の騒ぎを恥じる暇もなかった。


 ブレアナは約束通り、正式承認を携えて王宮から駆けつけた。今日は髪飾りまで曲がっている。急いだのだろう。

 「途中であの女の取り巻きに止められたけれど、階段を一本飛ばしで降りたわ」

 「令嬢が?」

 オリヴェルが目を丸くする。


 「子どもが売られそうなのに、優雅に歩いていられると思う?」


 そう言い切る顔は、前よりずっと頼もしい。


 昼前にはマリソルからも連絡が入った。引き渡し先のうち二か所へ、商会連合名義で契約違反時の損害請求予告を打ったという。相手の農園主は青くなり、工房主は留守を使って逃げ出しかけているらしい。


 「逃げても構わないわ」

 伝言にはそう添えられていた。

 「逃げたという記録が残るもの」


 午後、私は救護院で子どもたちと短い昼食を取った。何も知らない顔で笑う子どもたちを見るたび、明日までに絶対終わらせると腹の底で思い直す。


 「スカイラー、今日ね、ノエルが字をまちがえなかった」

 ユナが嬉しそうに報告する。

 「ほんと?」

 「でもレオは、わざと一個まちがえた」

 「だって、全部合ってたら先生みたいだろ」

 「意味が分からないわ」


 笑いが起きる。


 この笑い声を守るために、私は昨日契約書を破らなかったのだ。

 怒りの順番を間違えないために。


 夕方前、救護院前の通りで、ついに敵の使いが動いた。先触れの役人、御者、書記らしき男、そして伯爵家の紋を隠しきれていない従者。まだ引き渡し当日ではない。だが顔ぶれを揃え、周囲へ“手続きは進んでいる”と見せるための前触れだ。


 私は門前へ出た。エリシャが隣に立ち、オリヴェルが半歩前へ出る。


 書記の男が恭しく頭を下げた。

 「明日の手続き確認に参りました。年長児の整列と身分確認を」


 「拒否します」

 私は間を置かずに答えた。


 「ですが、正式な契約に」

 「その契約が正式かどうかを、こちらが明日確認します」


 男が口を開きかけたところで、ブレアナが王家印付きの仮承認書を掲げた。

 「保護対象児の一時移送停止命令です。読めないなら、ここで読み上げましょうか」


 通りの人々がざわめく。


 敵の使いはそれ以上踏み込めず、引き下がるしかなかった。だが去り際、従者の一人がこちらを睨んだ。その目に焦りがあった。向こうも、明日が勝負だと分かっている。


 日が落ちるころ、私はようやく屋敷へ戻った。


 朝の失態を思い出して赤くなる暇も、もうない。ただ、廊下を歩く使用人たちの足取りが確かに速いのは分かった。噂で動こうが実益で動こうが、今日だけはその速さを歓迎する。


 明日、子どもたちを乗せるはずだった馬車は、門前で止める。

 契約書は、その場で突きつける。

 逃げ道のない順番で。


 夜の食堂で最後の確認を終えたとき、エリシャが静かに言った。

 「明日だ」


 私は頷いた。

 「はい。引き渡し当日です」


 その言葉を口にした瞬間、恐怖より先に、腹の底で何かがまっすぐ燃えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ