第23話 三日間の攻防
翌朝から、公爵家の空気は戦時の台所みたいになった。
廊下を走る足音が増え、紙束が積まれ、呼び鈴が鳴るたび誰かが別の誰かへ指示を飛ばす。けれど怒鳴り声はない。タミアが朝一番で壁際の長机を三つ並べ、用途ごとに札を立てたからだ。
後見関係。居住許可。医療証明。王家承認。会計院照会。商会照合。
「椅子に座って混乱するより、立って動いた方が速いです」
彼女は言い、使用人たちへ紙と封蝋を配った。
私は後見関係の机へつき、子どもごとの基本情報を書き出した。入所時期、推定年齢、健康状態、保護継続の必要性。戸籍の穴を埋める作業は地味で、けれど一行抜けるだけで誰かの明日が消える。
オリヴェルは救護院と屋敷を往復し、見知らぬ馬車が近づけば車輪の紋まで控えた。ディウセは子どもたち全員の診察録を整え、奉公に耐える健康状態ではないという意味ではなく、継続保護が必要だと示すための証明を書いてくれた。具合の悪い子どもを働きに出すなという、ごく当たり前の理屈を通すためだ。
昼前、ブレアナが王宮から現れた。以前なら眩しいだけに見えた絹のドレスも、今日は袖口を折って動きやすくしている。
「言っておくけれど、私だって全部分かっているわけじゃないのよ」
部屋へ入るなりそう言って、彼女は束ねた推薦書を机へ置いた。
「でも、名前を貸すだけならもう嫌なの。今回は中身を読んでから署名したわ」
その最後の一言に、私は顔を上げた。
ブレアナは少しだけ頬を赤くし、目を逸らす。
「……あなたがそうしろと言ったでしょう」
以前の彼女なら、人前で認めるのを嫌がったはずだ。けれど今は、恥ずかしさより前へ出る方を選んでいる。
「ありがとうございます」
「礼はまだ。王家後見補助枠の仮承認しか取れていないもの。正式承認は明日の朝」
「それでも大きいです」
タミアがきっぱり言った。
「ないより百倍」
ブレアナは咳払いで照れを隠し、次の机へ向かった。数字に弱いと言っていたのに、今日は自分の不得手を理由にしない。分からないところは分からないと口にし、分かる者へ聞き、その場で覚えていく。机を一つ回るごとに、彼女の動きが少しずつ速くなった。
午後、コバチェフが来たときには顔色がほとんど紙色だった。
「ほ、本当にやるんですか」
「やるのよ」
私は答えた。
「封印庫へ入って、移送台帳の控えを見つけてきて」
「見つかったら、僕は終わります」
「見つからなくても、黙っていたら別の意味で終わるわ」
言い過ぎたかと思ったが、私は目を逸らさなかった。優しく逃がすだけでは、この人はもう前へ出られない。
コバチェフは唇を結び、何度も頷いた。
「……夜番の交代は二度。二回目のあとなら、下級書記でも封印庫前の整理を命じられることがあります。僕がやるなら、そのときです」
「合図は?」
エリシャが問う。
「控えを持ち出せたら、北の裏門へ青い封筒を置きます。だめだったら白を」
「白なら?」
オリヴェルが聞く。
「逃げます」
誰も笑わなかった。今の彼にとって、それは冗談ではなく現実的な退路なのだ。
「青を待つ」
私は言った。
「でも白でも、逃げて来たなら責めない」
「責めないんですか」
「責める時間がもったいないもの」
コバチェフは一瞬だけ呆けたあと、ひどく不格好に頭を下げた。
夜へ向かうほど、紙の山は増えた。私は夕食を取るのも忘れて書いていたらしい。タミアがいつの間にかパンと温かいスープを机の端へ置いていた。
「食べながらでも書けます」
「書けても噎せます」
そう言われて初めて、私は空腹を思い出した。
だが椅子へ座り直した途端、視界が少し揺れる。肩の力だけで何とかしていたらしい。ペン先が紙へ落ちる前に、背後から淡々とした声がした。
「もう十分だ。場所を変える」
振り向くと、エリシャが立っていた。
「まだ後見関係が」
「それは私室でも書ける」
「公爵様の私室は、私の机ではありません」
「今から机になる」
反論する前に、彼は書類の山を半分ほど抱え上げた。タミアまで当然のように残りを束ねる。
「お待ちください、まだ」
「立てるうちに歩いてください」
タミアが容赦なく言う。
私は抗議する暇もなく、エリシャの執務室兼私室へ半ば移送された。
この部屋は何度か入っているが、夜に来ると印象が違う。執務机の灯りは絞られ、壁際の本棚が深い色へ沈んでいる。奥の寝台は几帳の影に半分隠れ、私が意識しないようにしていた空間が、今日はやけに近い。
「こっちへ」
エリシャが小机を窓際へずらす。
「君はここ。私は向こう。分担する」
「監禁に近くありませんか」
「倒れるよりましだ」
結局、私はそこで続きを書くことになった。
しばらくは紙の音しかしない。私が子どもたちの仮後見申請を書き、エリシャが関連条文の引用と添付順を整える。たまに同じ資料へ手を伸ばして指先が触れそうになり、そのたび変に息が止まる。
「十三番の添付票」
「こちらです」
「いや、それは診療証明」
「……本当ですね」
「寝ろ」
「まだ寝ません」
会話が短い。なのに、同じ部屋で同じ方向へ急いでいるだけで、不思議と呼吸が揃ってくる。
子どもたちの仮名簿を清書していたころ、外で夜番の足音が遠く通った。時計はとっくに日付を越えている。
「スカイラー」
エリシャが不意に呼んだ。
「はい?」
「“家族関係欄、該当なし”と書くな」
私は紙面を見下ろした。本当だった。癖で書いてしまっていた。
「でも戸籍上は……」
「今は後見申請だ。戸籍だけを書いてどうする」
「では何と」
「保護者欄へ、公爵家後見下と書け」
胸の奥が、少しだけあたたかくなる。
該当なし、ではない。
今はもう、そう書いて済ませるだけの立場ではないのだ。
私は書き直した。文字が紙へ落ちる音が、さっきよりまっすぐ聞こえる。
午前三時近く、ようやく一束が終わった。肩を回すと鈍い痛みが走る。ふと顔を上げると、エリシャがこちらを見ていた。
「終わったら声をかけろ」
「今、終わりました」
「違う。君が止まる前に、だ」
私は笑いそうになった。
「止まっていません」
「今、ペンを持ったまま目を閉じていた」
ばれている。
「少しだけです」
「十分だ」
彼が立ち上がる。そうして近くへ来たところで、私はようやく、自分がどれだけ眠いかを知った。椅子から立つつもりが、足に力が入らない。視界が一瞬揺れた。
次の瞬間、肩へ外套が掛けられる。
「ここで少し横になれ」
「ここって」
見ると、几帳の手前、暖炉に近い長椅子だった。
「寝台ではない」
「そこを気にしているわけでは」
言いかけたところで、廊下の方で小さく、しかし確かに何かが落ちる音がした。夜番の使用人か、見回りか。こういうときに限って、屋敷は耳がいい。
エリシャが扉へ目をやり、それから私へ戻す。
「なら、気にしなくていい」
「それはどういう」
「長椅子で寝るだけだ」
理屈としてはまったく正しいのに、正しすぎて反論しにくい。
結局、私は長椅子へ腰を下ろした。外套の重みと暖炉の熱が、思っていたよりも早く瞼を重くする。まだ青封筒は来ていない。コバチェフの結果も待たなければならない。明朝にはブレアナの正式承認。午後には対抗書面の提出。やることは山ほどあるのに。
「少しだけ寝ます」
私は必死に言った。
「少しだけです」
「そうだな」
エリシャの声が、いつもより遠く聞こえた。紙をめくる音が続く。安心すると眠るなんて、今はしてはいけないのに。
それでも意識が落ちる直前、私は薄く目を開けた。
彼は執務机へ戻らず、窓際の小机でまだ書類を読んでいた。私が起きたときすぐ分かる位置だ。見張るためではない。置いていかないための距離だった。
最後に見えたのは、机の端へ置かれた青い封筒だった。
コバチェフは、逃げずに戻ってきたのだ。




