第22話 子どもを売る契約書
契約書の控えは、夕刻までに三通へ増えた。
一通はマリソルが持ち帰った倉庫分。二通目は、救護院の古い事務机の裏板から。三通目は、会計院の書式見本と綴じ紐の太さが一致する下書き帳から。紙の出どころが違うのに、文面の癖は同じだった。
タミアが机の上へ並べた書類を見下ろし、静かに言う。
「偶然とは言わせません」
私は一枚目を開き、子どもたちの名前を目で追った。レオ。ユナ。ノエル。リタ。見覚えのある文字が並ぶたび、胃の奥がきりきり締まる。年長児といっても、まだ抱き上げれば腕の中へ収まる子たちだ。夜になれば怖い夢で起きる。熱が出れば額へ濡れ布を当ててやらなければ眠れない。そんな子どもたちの名が、木箱や荷袋みたいに引き渡し欄へ並べられている。
「これを作った人間は、文字の形だけ綺麗ですね」
私は言った。
「心が少しも入っていない」
エリシャが隣から契約書を取り上げる。
「入っていたら、なお悪い」
彼は感情を混ぜずに紙面を追い、署名欄の下で指を止めた。
「院長代行の名義か」
「でも本人の筆跡ではありません」
私は即答した。
「線の入りが違うもの。ふだんの書類より横画が長すぎます」
コバチェフが小さく喉を鳴らした。
「それに……その、封蝋の色」
彼が指差したのは、右下へ押された承認印の痕だった。乾いた深い赤。王宮や公爵家で使う赤とも違う、わずかに褐色を帯びた蝋。
「会計院の一般承認印ではないのね」
私が問うと、コバチェフはびくりと肩を揺らしたが、逃げずに頷いた。
「あれは、長官執務室の側机に置かれている特注蝋です。細工が硬くて、封印を剥がすと割れ方が独特なんです。僕は……前に使いをしたとき、一度だけ見ました」
つまりラフォントの執務室でしか使われない色。
子どもたちを売る契約書が、会計院の最深部と繋がった。
私の手が震えた。怒りで、というより、今すぐこの紙を破ってしまいたい衝動のせいだった。引き裂けば少しはましになる気がするほど、紙一枚が醜かった。
ぱしり、と乾いた音がする。
エリシャが私の手首を掴んでいた。
「だめです」
自分でも驚くほど低い声が出る。
「こんなもの」
「だからこそ残す」
彼の手は強いのに、力任せではなかった。逃がさない代わりに、痛くもない。
「君が破れば、向こうはまた作る。今度はもっと見つからない場所でな」
「でも」
「ここで破るのは、相手を助けるだけだ」
悔しくて唇を噛む。分かっている。分かっているのに、頭より先に腕が動きそうになる。
「大きな場で使え」
エリシャが言う。
「逃げ場のない場所で、相手の前に広げろ。これはそのための刃だ」
私は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。紙を裂くのは簡単だ。けれど順番を間違えれば、簡単な方が負ける。
「……はい」
返事をすると、エリシャはようやく手を離した。手首に残った温度が、怒りの熱とは別の形で脈打つ。
タミアが何事もなかったように別の束を差し出した。
「引き渡し先の名簿です。表向きは農園助手、工房見習い、宿場雑務。ですが実態は、子どもを使い潰しても記録に残りにくい場所ばかりです」
「全部、後ろに人買い紛いの口がいる」
マリソルが残していったメモを見ながら、エリシャが補う。
「しかも代金は現金でなく、負債整理や物資融通で相殺する形だ。公に出せば見栄えだけは整う」
見栄え。
その言葉に、胸の奥で火が立った。
救護院へ向かったのは、陽が落ちる少し前だった。
子どもたちは中庭で、壊れかけの輪投げをしていた。輪の代わりに古布を丸めて紐で縛っただけのものだ。レオが投げ、ミナがずるい判定をし、ユナがそれに真面目に抗議している。いつもの光景なのに、私は一瞬立ち尽くいた。
この笑い声を、紙の上では奉公先へ移送、と書くのか。
レオが真っ先に気づいて走ってくる。
「スカイラー、見て。三つ入った」
「本当?」
「一回だけだけど」
「十分すごいわ」
私はしゃがんで彼の頭を撫でた。指先へ、昼の紙の感触はもう残したくなかった。だから髪の温かさを確かめるように、少し長く手を置く。
「今日は皆、早めに体を拭いて寝ましょうね」
「なんで?」
ユナが首を傾げる。
「明日から少し忙しくなるからよ」
「忙しいと、寝るのも早くなるの?」
ミナが真顔で聞く。
「なるときもあるわ」
「へんなの」
その率直さに、苦しくなるくらい愛おしくなる。
院長代行の部屋で、私は正式な照会をかけた。契約書の有無、承認手続き、引き渡し予定者の選定基準。代行は最初こそ知らないと繰り返したが、控えを見せると顔色を変えた。
「わ、私はただ、上から回ってきたものへ印を……」
「誰が上ですか」
「会計院の書記が……いえ、あの、伯爵家の使いの方が、寄付条件の一つだと」
つまりいつもの形だ。責任は下へ押しつけ、善意は上の顔へ塗る。
「子どもたちは物ではありません」
私は言った。
「どんな寄付も、どんな救済も、この子たちの名前と暮らしを切り売りする理由にはなりません」
代行は泣きそうな顔で椅子へ沈んだ。だが今は、その涙に足を止める暇はない。
屋敷へ戻るころには、夜気が刺すほど冷えていた。
執務室で再度書類を整理し直し、引き渡し先ごとの対抗策を洗い出す。後見権の先行申請、居住許可の仮承認、健康証明、年齢確認、救護院の運営資格見直し、王家推薦状の取り付け。やることは山のようにあった。
その途中で、ディウセが薬包を置いていく。
「胃を壊す前に飲んでおけ」
「顔に出ていましたか」
「顔より紙を持つ手だ」
私の指先は、まだ硬かったらしい。
深夜前、最後の契約書を封筒へ戻したところで、エリシャが窓の外を見ながら言った。
「引き渡し日は三日後。だが向こうは前倒しを狙う」
「分かっています」
「なら今夜から、三日間ではなく三日しかないと考えろ」
その言葉は厳しいのに、余計な怯えを混ぜない。現実の形だけを正しく置いてくる。
私は頷いた。
「三日で足ります」
「足りなければ足らせる」
「公爵様は無茶を当然のように言いますね」
「君に言われたくない」
少しだけ、口元が緩む。
けれど笑っていられる時間は短かった。タミアが入ってきて、新しい通達書を差し出す。正式引き渡し確認のための集合時刻。場所は救護院前。明後日の夕刻。
「明後日?」
私は紙を見返した。
「三日後ではなく?」
「向こうが一日縮めました」
タミアの声は低い。
「おそらく、マリソル様の動きを察したのでしょう」
明後日。
残り時間が、また短くなった。
私は契約書の封を閉じ、机の上へ置いた。今度は破らない。破れそうなほど握り締めても、きちんと残す。
大きな場で使うために。
子どもたちの前ではなく、子どもたちを売ろうとした大人たちの前で突きつけるために。




