第20話 手をつなぐ理由
帰りの馬車は、行きよりずっと静かだった。
嘆願書の束は箱へ入れ、膝の横に置いてある。窓の外では夕暮れがゆっくり沈み、畑の黒い線と遠い林が溶け合っていた。揺れは穏やかなのに、体の奥だけがまだ別邸の埃を吸っているみたいに重い。
向かいに座るエリシャも、しばらく何も言わなかった。
沈黙が苦ではない人だと知っている。必要のない慰めを無理に差し込まない人だとも知っている。だからこそ、私の方から言葉を出すしかなかった。
「……処刑台の夢を、今でも見ます」
自分で切り出したくせに、ひどく小さな声になった。
「目が覚めると、首に縄がある気がするんです。広場の音も、刃の前の静けさも、まだ昨日のことみたいで」
馬車の揺れに合わせて、手の甲へ自分の指が食い込む。言わない方がましだっただろうかと思いかけたとき、エリシャがこちらを見た。
「橋で飛び出したのは、そのせいか」
「……たぶん」
たぶんではない。あのまま見ているだけなら、前の人生へ引き戻される気がしたのだ。
「また遅れたらどうしようと思いました」
私は続けた。
「今度も、守りたい人のところへ間に合わなかったらって」
エリシャは少しだけ視線を伏せた。窓の外ではなく、私の膝の横に置いた箱を見るみたいに。
それから、いつもの調子で言う。
「次は私が先に着く」
あまりにも飾りのない言い方で、私は瞬きを忘れた。
「慰める気がないでしょう」
「下手な慰めは嫌いだ」
「知っています」
「なら、それでいい」
ぶっきらぼうなくせに、逃げ道のない約束だけは残す。こういうところが、この人はずるい。
気づけば、張り詰めていた呼吸が少し深くなっていた。泣きたくて苦しいのとは違う。肺がようやく普通の広さを思い出す感じだった。
道が悪くなり、馬車が大きく跳ねる。箱が傾きかけた瞬間、私は手を伸ばす。けれどもう片方の手首は、別の温度に軽く止められた。
エリシャの手だった。
「箱は逃げない」
「でも中身が」
「君も逃げない方がいい」
そのまま一拍。放されると思ったのに、手は離れなかった。握り込むほど強くない。ただ、揺れの間だけ落ちないよう支えている。
私は彼の指先を見た。剣を持つ人の硬さと、紙を繰る人の静かさが同じ手にある。
「……手をつなぐのも契約のうちですか」
「必要経費だ」
「ずいぶん便利な契約ですね」
「今さらだろう」
少しだけ笑ってしまう。笑ったまま、私も指先の力を抜かなかった。
屋敷へ着いたときには、空はすっかり群青になっていた。
こんな時間なら皆もう寝ているはずだった。けれど玄関の上の窓に、まだ灯りがともっている。ひとつではない。食堂と廊下と、子ども部屋の前まで。
「起きてるの?」
思わず足を速める。
扉を開けた途端、眠気でふらつく小さな影が三つ、四つ、ぱたぱたとこちらへ走ってきた。先頭のレオは片足だけ靴下がずれているし、ミナは寝巻きの上へなぜか昼のエプロンを着たままだ。
「おかえりなさい!」
「遅かった!」
「ユナが、まだ起きて待つって!」
奥ではユナが毛布にくるまりながら、必死に目を開けていた。タミアが困った顔で後ろに立っている。
「寝かせようとはしたのですが……」
「だって、まだ帰ってなかったから」
ミナが唇を尖らせる。
「今日は遠くへ行くって言ってたし」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
前の人生では、帰る家がなくなった日ばかり覚えている。けれど今は違う。遅く帰れば灯りが待っていて、眠い目をこすりながら叱るように迎える子どもたちがいる。
「ごめんなさい。心配をかけたわ」
私はしゃがみ込み、一人ずつ額へ触れた。
「でも、帰ってきたでしょう?」
レオがこくんと頷き、それからエリシャを見上げる。
「公爵さまも、ちゃんと帰ってきた」
「私はついでか」
低い声で言うのに、子どもたちはもう怖がらない。
「ついでじゃないよ」
ユナが毛布の端を引きずりながら近づく。
「ふたりで帰るのが大事なの」
その一言に、食堂の空気が一瞬だけ止まった。
タミアが顔を背け、咳払いで笑いを誤魔化す。オリヴェルは玄関の外で肩を震わせ、私は耳まで熱くなるのが自分で分かった。
当のエリシャは、ほんの少しだけ目を細めただけだった。
「なら、今夜は大事に帰ったということだな」
そう言って、ユナの毛布の端を持ち上げる。
「寝所まで送る」
「うん」
小さな手が、何のためらいもなくエリシャの指を握る。
私はその後ろ姿を見ながら、玄関の灯りの下で立ち尽くした。幸福なんて、もっと大げさなものだと思っていた。勝って、奪い返して、全部片づいたあとにしか来ないものだと。
けれどたぶん違う。
遅く帰った夜に灯りが残っていること。
待っていたと言う声があること。
隣に並ぶ足音が、もう一つあること。
そういう細いものを、ひとつずつ失わずに済むことこそ、私が取り戻したかった暮らしなのかもしれない。
食堂の奥で、温め直したスープの匂いがした。




