表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真夜中の図書館で死に戻った私は、冷血公爵と偽り結婚して家族を取り戻す  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/40

第19話 私を捨てた家

 別邸へ向かう馬車の中で、私はほとんど窓を見ていなかった。


 春先の薄い日差しが差しているのに、頭の中では鏡に映った庭の石段ばかりが繰り返される。門柱の欠け。植え込みの高さ。母の袖口。思い出そうとすると、胸の奥で古い埃が舞うみたいに息苦しかった。


 「戻りたくなければ、別の手段を探す」

 向かいのエリシャが言った。


 「戻ります」


 即答したつもりなのに、自分の声は少し遅れて聞こえた。


 「怖くないわけではありません。でも、今まで怖いから見ないふりをしてきたものが多すぎました」


 エリシャは何も励まさなかった。ただ、膝の上の手袋を外し、馬車が大きく揺れた拍子に私の手元へ自分の手を添える。握るわけでも、捕まえるわけでもない。落ちるならここにあると示す置き方だった。


 別邸は、王都から半日ほど離れた丘の麓にあった。


 かつては辺境伯家の避暑用として使われていた屋敷だ。けれど今は門扉の塗装が剥げ、庭の噴水は水を失い、窓の一部には板まで打ちつけられている。叔父の代になってから売り払われずに残ったのは、買い手がつかなかったからだろう。


 御者が戸を開ける。土の匂いがした。


 私は石段の前で足を止めた。鏡に映ったままの場所。幼い私が座っていた段差には、今は枯葉が吹き溜まっている。


 「鍵は?」

 オリヴェルが問う。


 「正面は閉まっていますが、母はいつも西の勝手口を使っていました」


 口が勝手に答える。覚えているつもりのなかった道順を、体が先に思い出していた。


 屋敷の中は暗く、閉ざした空気が重かった。白布を掛けられた家具はところどころ剥き出しになり、床には鼠の足跡が散っている。けれど書斎だけは、不自然なほど荒らされていた。


 棚が倒れ、引き出しは抜かれ、紙類だけが徹底して持ち去られている。


 「誰かが探した跡だ」

 オリヴェルが呟く。


 「叔父でしょう」

 私はしゃがみ込み、床板の擦れを見た。

 「父の遺品には興味がなくても、母の帳簿だけは探したはずです」


 机の裏へ手を差し入れる。子どもの頃、母がよくここへ飴玉を隠していた。けれど触れたのは固い木片ではなく、布に包まれた薄い束だった。


 引き抜く。色褪せた青布。結び目は母の癖そのまま、二度固く、最後だけ緩い。


 喉の奥がきゅっと縮む。


 中に入っていたのは、未提出の嘆願書の束だった。


 辺境の寒害で収穫が落ちた年、領民への救済金支給を王都へ申請した記録。提出先、期日、必要印、被害集計。最後の頁には、父の署名と母の補筆。そして、提出確認欄だけが空白のままだった。


 「……出されて、いない」


 紙の端が震える。私の手が震えているのだと、遅れて分かった。


 父は愚かではなかった。母も、領民を見捨てる人ではなかった。ではなぜ、何もしていない家のように潰れていったのか。答えは紙束の下から出てきた一通で、あまりにあっさり示された。


 叔父バザントの筆跡だった。


 ――当主代理として判断する。いま救済を仰げば家の弱みを晒す。嘆願書は保留。姪の相続確定後に整理。


 相続確定後。


 私は息を止めた。紙が視界の中でぼやける。


 「私を……待っていたの?」


 母が帳面を渡そうとしていた記憶の意味が、そこでようやく繋がった。


 父母は、私をただ守ろうとしていたのではない。家を継がせるつもりだったのだ。だから叔父には邪魔だった。領地の救済金も、私の相続も、全部まとめて握り潰した方が都合がよかった。


 身代わりにされた娘。

 そう思っていた。


 けれど違う。


 私は最初から、邪魔な相続人だった。


 膝から力が抜け、私は床へ座り込んだ。埃が舞う。みっともないほど呼吸が乱れる。泣くまいと思っても、涙は勝手に落ちた。


 「……あの人たちは、私を捨てたんじゃなかった」


 捨てたのは叔父だ。

 奪ったのは叔父だ。

 父と母が残そうとしたものを、私ごと押し潰した。


 悔しさが、遅れて怒りへ変わる。その怒りの熱で、ようやく涙が引いた。


 目の前に白い布が差し出される。ハンカチだった。エリシャは何も言わない。ただ、私が受け取るまで同じ高さに膝を折っていた。


 「……泣き顔を見ないでいただけますか」

 言うと、自分でもおかしくなるくらい掠れた声になった。


 「見ていない」

 「今まさに見ています」

 「そうか」


 そのやり取りのあまりの不器用さに、涙の合間で変な息が漏れた。笑ったのか、しゃくり上げたのか、自分でも分からない。


 エリシャはようやく口を開く。

 「君の両親は、残そうとした」

 「はい」

 「なら、その続きは君が受け取ればいい」


 短い言葉だった。慰めよりずっと実務的で、だからこそ足元が戻ってくる。


 私は嘆願書を抱え直し、立ち上がった。


 「持ち帰ります。これも、叔父の書簡も。領地救済金の握り潰しは、救護院の件とは別の罪として積めます」

 「積める」

 エリシャが頷く。


 書斎を出る前に、私はもう一度だけ石段の見える窓へ目を向けた。


 幼い私はもういない。

 けれど母の手が渡そうとした帳面は、ようやく私の腕の中へ戻った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ