第19話 私を捨てた家
別邸へ向かう馬車の中で、私はほとんど窓を見ていなかった。
春先の薄い日差しが差しているのに、頭の中では鏡に映った庭の石段ばかりが繰り返される。門柱の欠け。植え込みの高さ。母の袖口。思い出そうとすると、胸の奥で古い埃が舞うみたいに息苦しかった。
「戻りたくなければ、別の手段を探す」
向かいのエリシャが言った。
「戻ります」
即答したつもりなのに、自分の声は少し遅れて聞こえた。
「怖くないわけではありません。でも、今まで怖いから見ないふりをしてきたものが多すぎました」
エリシャは何も励まさなかった。ただ、膝の上の手袋を外し、馬車が大きく揺れた拍子に私の手元へ自分の手を添える。握るわけでも、捕まえるわけでもない。落ちるならここにあると示す置き方だった。
別邸は、王都から半日ほど離れた丘の麓にあった。
かつては辺境伯家の避暑用として使われていた屋敷だ。けれど今は門扉の塗装が剥げ、庭の噴水は水を失い、窓の一部には板まで打ちつけられている。叔父の代になってから売り払われずに残ったのは、買い手がつかなかったからだろう。
御者が戸を開ける。土の匂いがした。
私は石段の前で足を止めた。鏡に映ったままの場所。幼い私が座っていた段差には、今は枯葉が吹き溜まっている。
「鍵は?」
オリヴェルが問う。
「正面は閉まっていますが、母はいつも西の勝手口を使っていました」
口が勝手に答える。覚えているつもりのなかった道順を、体が先に思い出していた。
屋敷の中は暗く、閉ざした空気が重かった。白布を掛けられた家具はところどころ剥き出しになり、床には鼠の足跡が散っている。けれど書斎だけは、不自然なほど荒らされていた。
棚が倒れ、引き出しは抜かれ、紙類だけが徹底して持ち去られている。
「誰かが探した跡だ」
オリヴェルが呟く。
「叔父でしょう」
私はしゃがみ込み、床板の擦れを見た。
「父の遺品には興味がなくても、母の帳簿だけは探したはずです」
机の裏へ手を差し入れる。子どもの頃、母がよくここへ飴玉を隠していた。けれど触れたのは固い木片ではなく、布に包まれた薄い束だった。
引き抜く。色褪せた青布。結び目は母の癖そのまま、二度固く、最後だけ緩い。
喉の奥がきゅっと縮む。
中に入っていたのは、未提出の嘆願書の束だった。
辺境の寒害で収穫が落ちた年、領民への救済金支給を王都へ申請した記録。提出先、期日、必要印、被害集計。最後の頁には、父の署名と母の補筆。そして、提出確認欄だけが空白のままだった。
「……出されて、いない」
紙の端が震える。私の手が震えているのだと、遅れて分かった。
父は愚かではなかった。母も、領民を見捨てる人ではなかった。ではなぜ、何もしていない家のように潰れていったのか。答えは紙束の下から出てきた一通で、あまりにあっさり示された。
叔父バザントの筆跡だった。
――当主代理として判断する。いま救済を仰げば家の弱みを晒す。嘆願書は保留。姪の相続確定後に整理。
相続確定後。
私は息を止めた。紙が視界の中でぼやける。
「私を……待っていたの?」
母が帳面を渡そうとしていた記憶の意味が、そこでようやく繋がった。
父母は、私をただ守ろうとしていたのではない。家を継がせるつもりだったのだ。だから叔父には邪魔だった。領地の救済金も、私の相続も、全部まとめて握り潰した方が都合がよかった。
身代わりにされた娘。
そう思っていた。
けれど違う。
私は最初から、邪魔な相続人だった。
膝から力が抜け、私は床へ座り込んだ。埃が舞う。みっともないほど呼吸が乱れる。泣くまいと思っても、涙は勝手に落ちた。
「……あの人たちは、私を捨てたんじゃなかった」
捨てたのは叔父だ。
奪ったのは叔父だ。
父と母が残そうとしたものを、私ごと押し潰した。
悔しさが、遅れて怒りへ変わる。その怒りの熱で、ようやく涙が引いた。
目の前に白い布が差し出される。ハンカチだった。エリシャは何も言わない。ただ、私が受け取るまで同じ高さに膝を折っていた。
「……泣き顔を見ないでいただけますか」
言うと、自分でもおかしくなるくらい掠れた声になった。
「見ていない」
「今まさに見ています」
「そうか」
そのやり取りのあまりの不器用さに、涙の合間で変な息が漏れた。笑ったのか、しゃくり上げたのか、自分でも分からない。
エリシャはようやく口を開く。
「君の両親は、残そうとした」
「はい」
「なら、その続きは君が受け取ればいい」
短い言葉だった。慰めよりずっと実務的で、だからこそ足元が戻ってくる。
私は嘆願書を抱え直し、立ち上がった。
「持ち帰ります。これも、叔父の書簡も。領地救済金の握り潰しは、救護院の件とは別の罪として積めます」
「積める」
エリシャが頷く。
書斎を出る前に、私はもう一度だけ石段の見える窓へ目を向けた。
幼い私はもういない。
けれど母の手が渡そうとした帳面は、ようやく私の腕の中へ戻った。




