第17話 深夜の暗殺未遂
その夜、屋敷の時計が十一を打つ前から、私は落ち着かなかった。
南橋。川霧。街灯の切れ目。橋の中央から三歩西寄り。最初の人生でエリシャが血を流した場所と時刻が、息をするたび胸の内側へ浮かんでは沈む。暖炉の火は十分に入っているのに、指先だけが冷えた。
執務室で外套を掛けようとしていたエリシャが、こちらを見た。
「眠れない顔だな」
「今夜、橋へは行かないでください」
言い切るつもりだったのに、最後だけ声がわずかに細くなる。私は机の端を握った。
「南橋で待ち伏せがあります。馬車の故障を装って足を止めさせ、欄干側から一人、背後から二人。最初の刃は左肩へ来ます」
エリシャは否定しなかった。ただ、手袋をはめる動きを止める。
「予定は変えられる」
「なら、変えてください」
「だが、今夜動く者がいるなら、逃がせば次は場所を変える」
その言い方で分かった。この人はもう、行かないという選択を捨てている。
「囮になるおつもりですか」
「囮ではなく、釣り針だ」
いつもの低い声なのに、妙なところで言い回しだけが容赦ない。私は一歩近づいた。
「釣り上げる前に噛まれたら意味がありません」
「だから、噛まれる前に引く者を増やした」
扉が二度叩かれ、オリヴェルが入ってきた。外套の下に軽装の胸当てを仕込み、いつもより口元が引き締まっている。
「橋の東詰と西詰に、それぞれ二名。川沿いにも一名ずつ置きました。逃げ道は潰します」
準備は終わっていたのだ。私が言い出すより先に。
悔しいような、少しだけ救われるような気持ちが混ざる。前の人生では、誰も間に合わなかった。けれど今回は違う。違わせるために、私はここにいる。
「……私も行きます」
「反対だ」
エリシャが即答する。
「ですが、逃走経路を知っているのは私です」
「だからこそ、危険だ」
「知っているから避けられます」
睨み合う形になった。先に目を逸らしたのは、ほんの一瞬だけ彼の方だった。ため息にもならない息が落ちる。
「馬車の中から出るな」
「状況次第です」
「それを返すと思った」
オリヴェルが小さく口元を歪めた。笑うところではないのに、そのわずかな崩れがかえって緊張を和らげる。
日付が変わる頃、私たちは灯りを落とした馬車で南橋へ向かった。
王都の深夜は静かだ。昼間の喧騒が嘘みたいに、石畳に車輪の音だけが乾いて響く。川に近づくほど霧が濃くなり、街灯の輪郭が滲んだ。
橋の手前で、わずかに馬車が減速する。
御者が低く告げた。
「前方に横倒しの荷車」
来た。
私は膝の上で手を組み、爪が食い込むのも構わず息を殺す。エリシャは隣で外套の留め具を外した。剣を抜くより先に動けるようにだろう。
「合図をしたら扉を閉じろ」
「はい」
橋の中央近くで馬車が止まった瞬間、霧の中から影が三つ走った。
ひとつは欄干の陰から低く。ひとつは御者台へ。もうひとつは後方から一直線に。
金属のぶつかる音が、霧を裂く。
最初の刃は、私が知っている軌道よりわずかに高かった。けれどエリシャが身をひねるより先に、オリヴェルの剣がその斬撃を外へ弾く。火花が散り、橋板へ短い光が飛んだ。
「出るな!」
エリシャの声が飛ぶ。
でも私は扉を押し開けた。知っているからだ。三人目は失敗すると、すぐ川沿いの石段へ逃げる。そこを逃せば、次は追えない。
「西側の石段です! 川沿いへ!」
叫びながら橋へ飛び出す。足元で霧が裂けた。
一人はすでにオリヴェルと組み合っていた。ひとりは御者台から引きずり下ろされ、護衛に押さえ込まれている。残る一人が、まさに私の知る通り、橋の西端へ駆けた。
「待ちなさい!」
追う。靴底が濡れた石を蹴る。前世の処刑台とは違う。今の私は追われる側ではない。追う側だ。
男が石段へ飛び込もうとした瞬間、私は手近のランタンを足元へ投げた。火は消してあったが、金具の重みが足首へ当たる。男が一瞬だけよろめいたところへ、オリヴェルが背後から飛びついた。
「観念しろ!」
男は短剣を逆手に持ち替え、なおも暴れる。私は膝をつきかけながらその手首へ飛びついた。骨ばった腕が暴れ、刃先が頬の横をかすめる。冷たい汗が首筋を伝った。
その手を、別の力が上から押し潰す。
エリシャだった。
彼は無駄な言葉ひとつなく男の肘を石段へ打ちつけ、短剣を取り落とさせた。鈍い音とともに男の呻きが漏れる。次の瞬間には、護衛が縄を打っていた。
捕えた、と思った途端、全身から力が抜けそうになる。
「怪我は」
エリシャの声が、すぐ近くで落ちた。
「ありません」
「嘘だな」
頬に触れた指先が、かすった傷から滲んだ血を拭う。大した傷ではない。けれどその仕草があまりにも自然で、私は一拍遅れて息を呑んだ。
縛られた男は、なおも歯を食いしばっていた。口を割らせる前に噛み切る毒でも隠していないか、ディウセから渡された留め具で顎を押さえる。オリヴェルが荒い息のまま言った。
「誰の指示だ」
男は黙る。エリシャが短剣を拾い上げ、その柄の刻印を見た。どこの工房にも属さない、潰された印。痕跡を消すために用意されたものだ。
「なら質問を変える」
エリシャが膝を折る。
「今夜の狙いは、私の命か、それとも別のものか」
男のまぶたがわずかに揺れた。
私はその揺れに身を乗り出す。
「鏡の部屋ね」
男が、ぎくりと息を呑んだ。
それで十分だった。けれどオリヴェルはさらに襟元を掴み上げる。
「誰がそう言った」
男は抵抗するように首を振り、それでも最後に、歯の隙間から絞るように吐いた。
「……鍵を、壊せと……鏡の、部屋の鍵を……」
霧の橋の上で、その言葉だけが嫌に明瞭に響いた。
誰かが恐れているのは、エリシャの追及だけではない。
真夜中の図書館の、その先だ。




