第16話 偽りの花嫁、最初の勝利
監査会議の日、王宮西棟の小会議室は、春でもないのに妙に乾いていた。
窓は高く、光は入るのに空気が温まらない。長机の上には書類の山、封蝋、記録板、茶の跡。こういう部屋では、正しいことより、先に席へ着いた者の都合が通りやすい。
ラフォントは最初から勝つつもりの顔で座っていた。
灰色がかった髪をきっちり撫でつけ、積み上げた書類へ白い指を添える。焦りを見せないのがこの男のやり方だ。相手が息切れするまで「規則」を盾に時間を奪う。
その隣で、マリベルは本日の傍聴人として出席していた。慈善事業に関わる貴婦人代表、という名目らしい。善意を身にまとっている人は、どんな部屋にも入り込みやすい。
私はエリシャの一歩後ろに立っていた。公爵夫人としての席はある。けれど今日は飾りの椅子に座りに来たわけではない。
会議の開始を告げる鐘が鳴る。
「議題は、王都北区救護院への送金停止措置、および財産差し押さえ仮命令の継続可否」
書記官が読み上げる。私は喉の渇きを飲み込み、紙束の端を指で押さえた。
ラフォントが口を開く。
「救護院の帳簿には複数の不備が見受けられます。受領印の欠落、費目の曖昧な記載、保護児童名簿と支出報告の不一致。監査完了まで送金停止を継続するのは当然の措置でしょう」
いつも通りの言い方だった。紙の乱れだけを示し、人が飢えることは文章の外へ追い出す言い方。
私は前へ出た。
「不一致の原因が、名簿の欠落ではなく、会計院側で保護証の発行を止めていたことにあるなら、話は変わります」
室内の視線が動く。
ラフォントはゆっくりとこちらを見た。
「公爵夫人。監査の場は感情で語る場所ではありません」
「ええ。だから書類で参りました」
私は用意していた控えを机へ置いた。
救護院の申請日一覧。保護証発行の停滞記録。送金停止の通知日。その並びを、誰が見ても分かるように色分けしてある。昨夜までエリシャの執務机を占領して作ったものだ。
「保護証の発行遅延が起きたのは、すべて同じ窓口です。そして遅延が集中した期間の三日後に、救護院への送金停止が出されています。名簿の不備ではなく、名簿を不備に見せる流れが先です」
ラフォントは書類を見ようともしない。
「推測に過ぎませんな」
「では推測でないものを」
そこでエリシャが、私の横へ出た。
机へ置かれたのは、法典の写しだった。彼の指が一箇所を叩く。
「王都救護施設運用規定、第十一条但し書き。保護児童の医療・食料・居住維持に関わる基礎費は、監査中であっても停止してはならない」
会議室の空気が少し変わった。
ラフォントの眉が初めて動く。
「その条文は、戦後の臨時措置で――」
「廃止されていません」
エリシャが切る。
「しかも、停止に必要な代替保護先の指定が今回の書類には存在しない。つまり仮命令自体が要件を満たしていない」
私は続けて、差し押さえ仮命令の控えを開いた。
「この書式も不自然です。差し押さえ対象に、子ども用寝具と診療棚の備品まで含まれている。運営資産ではなく生活必需品です」
マリベルが、そこで初めて柔らかく口を挟んだ。
「でも、規則は規則でしょう? 不備がある以上、きちんと整うまで待つのが公平ではなくて?」
その声音は優しい。だからこそ、私はまっすぐ返した。
「冬の薬と寝具を止めておいて、公平とは呼びません」
会議室の端にいた年配の監査官が、咳払いを一つした。
彼も内心では分かっていたのだろう。けれど誰かが先に線を引かなければ、部屋はいつまでも紙の論理だけで進む。
そのとき、扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのはブレアナだった。
青ではなく、今日は白銀のドレスだ。派手さを抑えた色なのに、部屋の視線を一気に集めるだけの身分がある。彼女は私を一度だけ見て、それから真っ直ぐ机の端へ歩いた。
「慈善認可の名義について、王族側から補足します」
書記官が慌てて立ち上がり、席を整える。
ラフォントの表情が、今度こそわずかに強ばった。
「殿下までお越しとは。体調の優れぬところ、無理をなさらず――」
「ご心配なく」
ブレアナはぴしゃりと返し、数枚の承認書を机へ並べた。
「私の名で出された認可のうち、少なくとも三件は再確認が必要です。署名形式と承認番号に不整合がある」
室内がざわつく。王族自ら自分の名義を疑う言葉を公の場で口にするのは、軽いことではない。
ブレアナは続けた。
「したがって、救護院への送金停止と差し押さえ仮命令の前提となった慈善資金整理は、王族側でも有効性を再審査します。その間、生活維持費の停止は認めません」
沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、私はラフォントを見た。彼はまだ崩れていない。だが、勝ち筋だけを並べていた顔から、一枚余裕が剥がれた。
「……会議の趣旨が変わっておりますな」
ラフォントが低く言う。
「いいえ」
私は答えた。
「やっと本来の趣旨へ戻っただけです」
監査官の一人が記録板を閉じた。
「結論を出しましょう。送金停止措置は一時撤回。差し押さえ仮命令も同様に保留。監査は継続するが、救護院の運営維持を優先する」
槌音が小さく鳴る。
その音を聞いた瞬間、私は胸の奥に張っていた糸が切れそうになるのを感じた。
勝った。
全部ではない。敵も生きている。原本台帳もまだ遠い。でも、救護院の冬はひとまず守れた。
会議が散会し、人が立ち始める。私は深く息を吐いた。隣でエリシャがごく小さく囁く。
「よくやった」
たった四文字なのに、徹夜三日分くらいの重みがあった。
「条文を探したのは君だ」
彼が続ける。
私は少しだけ笑った。
「見つけたのは私でも、机を取られなかったのは公爵さまのおかげです」
「妻が机を占領するのは想定内だ」
その返しに、危うく真面目な顔を保てなくなる。
会議室の外へ出たところで、ブレアナが足を止めた。
「次はもっと大きい場になるわ」
「承知しています」
「今日のところは……礼を言うべきなのかしら」
ぎこちないその言い方に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「次も来てくださるなら、それで十分です」
ブレアナはふんと鼻を鳴らし、けれど前より少しだけまっすぐな足取りで去っていった。
残ったのは、廊下の端で待っていたマリベルだった。
彼女はいつもの通り、美しい笑みを崩していない。むしろ少しだけ楽しそうに見えた。
「お見事でしたわ、スカイラー様」
「ありがとうございます」
「でも」
マリベルは私のすぐ横まで来ると、香水より薄い声で囁いた。
「本番はこれからよ」
その目には、まだ余裕があった。
私は笑い返した。
「ええ。ですから、こちらもここからです」
彼女が去ったあと、王宮の長い廊下に夕方の光が差し込んだ。
偽りの花嫁として始まった立場で、私は初めて公の場の一歩を勝ち取った。
小さな勝利だ。でも、守るべき場所へ届く勝利は、きっと次の戦いの形を変える。




