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真夜中の図書館で死に戻った私は、冷血公爵と偽り結婚して家族を取り戻す  作者: 乾為天女


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第15話 敵ではない令嬢

 控え室の扉が閉まったまま、しばらく誰も口を開かなかった。


 ブレアナは椅子へ座りもせず、窓際で立ったまま一覧を睨んでいる。扇を忘れた手が空のままぎこちなく動き、机の角を一度撫でて、また離れた。


 「数字は苦手なの」


 唐突に、彼女が言った。


 「見れば頭が痛くなる。子どもの頃から、帳簿の授業だけは眠くて仕方なかった。だから……そういう書類は、周りが整えてくれるものだと思っていた」


 悔しそうなのに、言い訳へ逃げる響きではない。


 「誰だって苦手なものはあります」

 私は答えた。

 「でも、苦手だからこそ他人に預ける場所は選ばないといけません」


 「今さら説教?」

 「いいえ。読み方の話です」


 私は机へ紙を広げ直した。


 「ここを見てください。日付の下の細い線。王族の承認が入る書式は、本来二重線です。でも、この三枚だけ一重です。急いで差し込まれた書類によくある形です」


 ブレアナが身を乗り出す。

 「そんな違いで分かるの?」


 「分かります。あと、この蝋印の縁」


 私は別の控えを出した。ラフォント家の執務で使われる色に近い、濁った赤茶の蝋印。


 「公的な承認で王族側がよく使うのはもう少し明るい色です。これは会計院側でまとめて押された可能性が高い」


 ブレアナは紙を見て、次に私を見た。

 「あなた、どうしてそんなことを覚えているの」


 「覚えないと、守れなかったからです」


 言ったあとで、自分の声が思ったより硬かったと気づく。

 救護院の冬の薬代。子どもたちの靴の数。亡くなった子の名前が、ただの空白へ変わる瞬間。数字や書式の取りこぼしは、あの場所では寒さと同じくらい直接人を傷つけた。


 ブレアナは黙った。少しして、そっと椅子へ座る。


 「私、ずっと馬鹿みたいね」


 自嘲の響きが強すぎたので、私はすぐ首を振った。


 「違います」

 「でも知らなかった」

 「知らなかったことと、知らないまま誰かを踏みつけ続けることは別です」


 彼女の睫毛が震えた。


 「……あなたは、私を責めないの?」

 「責めてほしいんですか」

 「そうじゃないわよ」


 思わず強く返してから、ブレアナは唇を噛んだ。

 たぶん今まで、彼女の周りには二種類の人しかいなかった。媚びる人か、恐れる人。正面から「できるようにしましょう」と言う相手が、ほとんどいなかったのだろう。


 私は紙の束を彼女の前へ押しやった。


 「殿下。これは責めるためではなく、取り戻すための読み方です」


 「取り戻す?」


 「ご自分の署名と、ご自分の立場です」


 ブレアナはしばらく動かなかった。やがて、恐る恐るペンを取る。


 「……教えなさい」


 命令口調なのに、頼む声だった。


 そこから二刻近く、私は彼女へ書類の見方を教えた。


 日付の不自然な並び。

 同一人物の筆跡に見えて実は違う跳ね方。

 慈善認可の番号と、送金指示の番号のずれ。

 書類を読むのが苦手なら、最初にどこだけ押さえればいいか。


 ブレアナは最初、数字の列を見るたびに眉を寄せていた。けれど三枚目を過ぎたあたりで、ふいに指を止める。


 「待って。この承認番号、前後が逆だわ」


 私は笑った。

 「ええ。その違和感が大事です」


 「本当にこんなところで見抜くのね……」

 「慣れれば見えます」

 「慣れたくはないけれど」


 その返しが少し可笑しくて、私たちは同時に息を漏らした。


 女同士の連帯なんて、綺麗な言葉だけでできるものではない。

 机を挟んで、相手の恥を笑わずに済むこと。知らないことを知らないまま放っておかないこと。たぶん、その辺りから始まる。


 やがてブレアナは、問題の承認書へ自分で印をつけ終えた。


 「……私の名義で通されたものが、こんなに」


 声に、さっきまでの空虚な怒りとは違う重さが宿る。


 「婚約話なんて、ただの幕だったのね」

 「幕は派手なほど、人はそちらを見ます」

 「見ていたのは私も同じか」


 彼女は悔しそうに笑い、すぐ真顔に戻った。


 「スカイラー。あなた、次に何をするつもり?」


 「小規模な監査会議で、救護院への送金停止をひっくり返します」


 「そんな場で足りるの?」

 「全部は無理です。でも最初の一歩としては十分です。差し押さえを止めて、子どもたちの移送を遅らせられる」


 ブレアナは椅子の背に寄りかかり、天井を見た。王族として生きる人の顔ではなく、ようやく自分の足場を探している若い娘の顔だった。


 「私も出るわ」


 私は思わず聞き返した。

 「会議に?」


 「私の署名が使われたなら、私が取り戻すしかないでしょう」


 その言葉に、胸の奥で何かが静かに噛み合った。


 敵ではない令嬢。そう呼ぶには、まだ早いかもしれない。けれど少なくとも、目の前にいる彼女は、誰かの飾りのまま終わるつもりではなくなった。


 私は紙を束ね、立ち上がる。


 「では、会議までにもう一度だけ確認しましょう。殿下の名で出された承認のうち、本物と偽物の線を」


 「ええ」


 ブレアナも立った。さっきより、足元がぶれていない。


 扉の向こうからはまだ、婚約破棄の噂話が遠く響いている。

 けれどここではもう、別の話が始まっていた。



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