第14話 婚約破棄の茶番
翌朝の王都は、救済金の流れよりも、もっと甘くて派手な話題に夢中だった。
「王弟殿下の姫君の婚約が壊れるらしい」
「いえ、もう壊れたそうよ」
「破談の原因は花嫁側の気位だとか」
「いいえ、相手の家が借金まみれだって」
噂は砂糖菓子みたいに軽く、人の口から口へ転がっていく。
私は公爵家の朝食室で、焼き立てのパンをちぎりながらその話を聞いていた。正確には、食べるふりをして考えていた。昨夜持ち帰った移送記録の写しは、まだ袖の内側に隠してある。
「ずいぶん急ね」
タミアが紅茶を注ぎながら眉をひそめる。
「急に見せたいのでしょう」
私は言った。
「皆の目を、別の場所へ」
エリシャが新聞代わりの速報札を畳む。
「婚約破棄そのものは本当らしい。問題は、誰がその火を大きくしているかだ」
「マリベルです」
私が即答すると、タミアが呆れ半分でこちらを見た。
「ずいぶん迷いがありませんね」
「彼女は人の不幸を使うとき、必ず香りづけをします。今回は甘すぎる」
朝食後、私は王宮で開かれる昼の茶会へ向かった。婚約破棄の当事者、つまり王弟の娘ブレアナが顔を出すと知ったからだ。
王宮南棟の陽光室は、噂好きの貴婦人たちで埋まっていた。天井画の花々、金縁の鏡、磨きすぎた床。どこもかしこも明るいのに、漂う空気は妙に冷たい。誰もが誰かの転倒を待っている場所の明るさだ。
ブレアナは窓際にいた。
鮮やかな青のドレスを着て、背筋だけは真っ直ぐ伸ばしている。けれど扇を持つ手が、わずかに強く握られすぎていた。高圧的に見える立ち方をしているのは、弱っていると悟られたくないからだと分かる。
その少し離れたところで、マリベルが実に優しい顔をしていた。
気遣う友人の表情。慰める側の口調。だが視線だけが、会場の広がりを測っている。どこまで噂が届いたか、どれだけ耳が集まったかを数える目だ。
「まあ、スカイラー様」
真っ先に私へ気づいたのは、そのマリベルだった。
「昨夜は同窓の方々も、あなたのご活躍を口々に褒めていらしたわ」
「それは光栄です」
私は笑う。向こうも笑う。砂糖を何重にもかけた会話は、たいてい毒の前触れだ。
「今日はブレアナ様がお気の毒で……。婚約というのは、女性にとって人生そのものですもの。ねえ?」
ねえ、と同意を求めながら、マリベルは会場全体へ聞かせている。
「そうでしょうか」
私はわざと首を傾げた。
「人生そのものというより、人生から視線を逸らすにはちょうどいい騒ぎ、のこともあります」
周囲の空気がぴたりと揺れを止めた。
マリベルの笑顔は崩れない。けれど扇の骨が一つ、きしんだ。
「何のことかしら」
「昨日から不思議で。救済金の送金経路や慈善認可の名義に関する話が、今朝からひとつも表へ出てこないんですもの。代わりに婚約破棄の噂だけが、見事なくらい早い」
私がそう言うと、二人分向こうにいた年配の侯爵夫人が、カップを受け皿へ戻す手を止めた。聞いている。皆、聞いている。
マリベルはふわりと笑い直した。
「こんな日にまで数字のお話? スカイラー様は本当に実務家なのね」
「ええ。誰かの署名ひとつで生活が沈むのを見てきましたから」
私は視線をブレアナへ移した。
「ところで、殿下。慈善認可の書類は、ご自分で最後までお読みになりますか」
突然話を振られたブレアナが、目を見開く。
「……どういう意味?」
「意味はそのままです。承認名義は王族の信用そのものですから」
ブレアナの扇が止まった。
マリベルが横から柔らかく口を挟む。
「今はそんな事務の話をなさる場ではないでしょう」
「今だからこそです」
私は一歩進んだ。
「婚約が壊れたことを、誰がいちばん都合よく使っているのか。殿下は考えられましたか」
ブレアナの顎がわずかに上がる。怒ったのではない。自分が試されていると気づいた顔だった。
「あなたは、私が利用されていると言いたいの?」
「利用されていなければ結構です」
私は淡々と返した。
「けれど、もし署名した覚えのない承認書が一枚でもあるなら、今日のうちに確かめた方がいい」
会場がざわめいた。婚約破棄の話から、書類の話へ。見たい方向へ視線が滑っていくのが分かる。
マリベルはそこで初めて、ほんの少しだけ声を強くした。
「噂の場で王族へ無礼ではなくて?」
「噂の場だからこそ、無礼より危険なものがあります」
私は答える。
「沈黙です」
ブレアナはしばらく私を見つめていた。高価な青の石のような瞳の奥で、怒りと屈辱と、別の何かが揺れている。
やがて彼女は、マリベルではなく私へ向かって言った。
「部屋を変えましょう」
陽光室の奥、小さな控え室へ移ると、華やかなざわめきが嘘みたいに遠ざかった。閉じた扉の向こうで、噂は今も増殖しているだろう。でもここには、さっきより少しだけ本当の声が届く。
ブレアナは扇を机へ置いた。
「はっきり言って。何を疑っているの」
私は懐から、昨夜書き写した移送記録ではなく、前に集めた慈善認可の控えを書き出して見せた。王族名義の承認が並ぶ一覧。その中に、救護院への送金停止前後の不自然な認可日がある。
「ここです。殿下の署名で承認された慈善支出。けれど、同じ筆跡のはずなのに、最後の跳ねだけが別人の癖です」
ブレアナは紙へ顔を寄せた。知らないふりをするなら、ここで笑い飛ばせたはずだ。けれど彼女は、黙って見た。
「……私の署名も、使われていたの?」
震えた声だった。
私は頷く代わりに、紙を伏せた。
「確かめませんか」
彼女の顔色が変わる。婚約破棄よりも、この一言の方が深く刺さったのだと分かった。
駒として押し出されるだけのつもりなら、知らないままでも生きていける。でも、自分の名前で誰かが潰されたかもしれないと知った人は、もう前と同じ顔ではいられない。




