第13話 禁書庫への階段
その夜、王宮地下へ降りる石段は、息を潜めた獣の喉みたいに長かった。
青白い魔導灯が等間隔に灯っているのに、足元はどこまでも薄暗い。真夜中の図書館へ通された夜を、私は二度知っている。一度目は何も知らずに。二度目は、知り過ぎたまま。
階段を下りるたび、処刑台へ向かうあの日の木段の感触が、足裏の奥で蘇りそうになる。
「顔色が悪い」
前を歩いていたエリシャが、振り返らずに言った。
「暗いところは好きではありません」
「好きな者は少ない」
「では、公爵さまも嫌いですか」
「嫌いでも下りる用事がある」
それだけの会話だったのに、呼吸が少し戻った。
今夜は三人だ。私とエリシャ、それにアリッサ。
司書見習いの彼女は、いつものように本を抱えているわけではなく、鍵束と薄い台帳を腕に抱いていた。歩きながらも周囲をよく見ていて、物音がするとすぐ耳を澄ませる。その用心深さは、書庫番というより見張りに近い。
「夜間封鎖の記録は私が誤魔化します。でも、長くは持ちません」
アリッサが小声で言う。
「見回り役が順路を変えたら、すぐ見つかるわ」
「それでも来てくれたのね」
私がそう返すと、アリッサは不満そうに鼻を鳴らした。
「来たくて来たみたいに言わないでください。私は書庫が焼かれたり、改竄された文書で埋まったりするのが嫌なだけです」
「十分立派な理由です」
「褒めても鍵は増えませんよ」
減らず口のようでいて、足は止まらない。その背中を見ながら、私はこの子が監視役の顔だけではないことを、もう知っていた。
地下書庫の中央区画を抜け、禁書庫へ続く回廊へ入る。ここから先は王家の許可札がなければ立ち入りできない。壁には封印紋が刻まれ、床の縁には銀線が埋め込まれている。踏み間違えれば警鐘が鳴る仕掛けだ。
アリッサが灯りを落とし、銀線を指で示した。
「三本目と五本目は飛ばしてください。昨日までと配置が違う。誰かが警戒を上げてる」
私は息を詰めた。
「誰かって」
「ラフォント側の人間でしょうね。書類を隠したい人は、書庫を静かにしておきたいはずだから」
エリシャの声がさらに低くなる。
「先に動いているか」
「たぶん」
つまり、こちらがようやく掴んだ道筋を、向こうも消しに来ている。
回廊の先には、天井まで届く書架が迷路のように組まれていた。禁書庫は本を収めるための場所であると同時に、王家の記録を隠すための壁でもある。背表紙が並ぶだけで、人一人なら簡単に消えてしまう。
アリッサが先へ進みかけた、その瞬間だった。
遠くで、乾いた紙の擦れる音がした。
誰かいる。
同時に、灯りが一つ消えた。
「伏せて」
エリシャの手が私の肩を押し、私はとっさに低い梯子の陰へしゃがみこんだ。次の瞬間、頭上を何かが掠める。小さな投擲刃だった。書架の木に突き立ち、遅れて震えが走る。
「書庫で刃物なんて、礼儀がなっていませんね」
アリッサが呆れたように囁く。
「感想はあとだ」
エリシャが音の方へ踏み込んだ。黒い外套が闇へ溶け、気配だけが前へ出る。私はその背を追おうとして、視界がぐらりと揺れた。
高い木段。群衆のざわめき。首筋へ吹く冬の風。
違う、と分かっているのに、体が一歩目で固まる。
あの日も私は前へ出られなかった。言うべきことがあったのに、足がすくんだまま終わった。
手が冷たくなる。
その瞬間、強い力で腕を引かれた。
「スカイラー」
エリシャだった。いつ戻ってきたのか分からない。ただ、灰色の瞳だけが近くにある。
「息をしろ」
命令口調なのに、怒ってはいない。
「今の君は一人ではない」
短い言葉が、胸の奥へ真っ直ぐ落ちた。
私はやっと息を吐いた。喉が痛いほど詰めていた空気が、ようやく出ていく。
「……大丈夫です」
「嘘でも歩ける顔をしろ」
「公爵さまは慰めるのが下手ですね」
「慰めてはいない。進ませている」
それが、ひどくこの人らしかった。
私たちは書架の間を走った。先行する影が一つ、角を曲がる。アリッサが反対側の通路へ回り、私は最短の列を読む。禁書庫の分類記号は一度見れば覚えられる。救護院の古い本棚と違って整いすぎているぶん、抜け道も見つけやすい。
「右の列は行き止まりです!」
私が叫ぶと同時に、エリシャが進路を変えた。黒い影とぶつかる音。短い揉み合い。だが相手は紙束を抱えたまま、灯りを蹴倒して逃げた。
私たちが追いついた先で、書架の間に散らばっていたのは原本台帳ではなかった。
羊皮紙の札、移送控え、封蝋の剥がれた封筒。アリッサが素早く一枚を拾い上げる。
「会計院封印庫、第三保管列より搬出……再移送先、王家北保管庫」
私も紙を覗き込んだ。
そこには確かに、会計院の封印印と、その上から重ねるように王家の副印が押されていた。しかも日付は、私が一度目の人生で監査前に拘束された週の三日前。
「原本そのものは?」
私は喉を鳴らした。
アリッサが周囲を見回す。
「ここにはない。これは搬出の途中記録だけ。わざと半端な紙だけ捨てて逃げたのね」
エリシャは逃走した影の消えた通路を睨んだまま、落ちていた移送札を一枚拾った。
「だが十分だ。会計院から先の流れが王家に続いている証拠になる」
王家北保管庫。
地下書庫のさらに奥、王族の許可がなければ位置すら知らされない保管区画。
思ったより深い。敵の階段は、まだ下ではなく上へ伸びていた。
遠くで警鐘の前触れみたいな鈴が鳴る。見回りの時刻が変わったのだ。
「今夜はここまでです」
アリッサが紙を束ねる。
「次に入るなら、もっと大きな許可か、もっと悪い手段が要るわ」
私は移送記録の文字を見つめた。原本には届かなかった。それでも、行き先は見えた。
もう、ただ穴の縁で怯えるだけでは終わらない。
王家の保管庫に隠されたものを、今度こそ引きずり出す。




