第9話 黄金の涙
ルシェは静かにコントラバスを抱えた。
黒曜の指が弓を握る。
激しい銃声は止まない。
パン!
パン!
パン!
無数の魔力弾が身体へ、楽器へ降り注ぐ。
胸へ。
肩へ。
表板へ。
それでも。
黒い甲冑も。
黒曜の骨も。
一切揺らがない。
ルシェは静かに弦へ弓を置いた。
――ギィ……
低く。
深く。
世界そのものが震えるような一音だった。
銃声の中でも埋もれない。
森を抜け。
館を包み。
遠く世界樹では、風もないのに枝葉が小さく揺れていた。
フェルディルはその音に耳を澄ませる。
「……始まりましたか」
その呟きは、遠い昔を思い返すようだった。
ルシェの意識は、すでに戦場にはなかった
◇
暗い海だった。
果ての見えない静かな海。
波一つ立たない。
その中央へ、一艘の小舟が浮かんでいる。
ルシェは、そこへ座っていた。
向かいには二つの影。
一人は白銀の甲冑を纏う青年。
もう一人は漆黒の王衣を纏う男。
勇者ルーテェ。
そして。
魔王ヴァルザーク。
二人は何も語らず、果ての見えない海を見つめていた。
ヴァルザークが小さく口を開く。
「……やはり、この王は変わらぬな」
怒りではない。
呆れでもない。
長い年月の果てに残った、諦めにも似た声だった。
「変わらぬのではない」
優しい声だった。
「守ろうとしているのだ」
「……だが」
ルーテェは静かに拳を握る。
「このやり方では、また命が失われる」
ヴァルザークは何も答えない。
ただ静かに目を閉じた。
ルシェも何も言わない。
三人の間を流れるのは。
ただ一つ。
コントラバスの旋律だけだった。
館の前では。
黒曜の頭蓋骨。__ルシェの眼窩から、一筋の黄金が零れ落ちる。
誰にも知られることなく、その雫は静かに大地へ落ちた。
旋律はさらに深くなる。
森を風が抜けた。
枝葉が揺れる。
その音色は静かに戦場全体へ広がっていく。
◇
旋律は静かに戦場を満たしていった。
怒りもない。
悲しみもない。
ただ、どこまでも穏やかな音色だった。
それなのに。
「……何だ、この音は」
一人の兵士が眉をひそめる。
魔道銃を構えたまま辺りを見回した。
敵の魔法か。
そう思った、その時だった。
空を埋め尽くしていた吸魔蚊が、一匹、力なく地へ落ちた。
「……?」
羽ばたきが止まる。
続いて、もう一匹。
さらに一匹。
まるで糸を切られた操り人形のように、黒い身体が次々と地面へ落ちていく。
「吸魔蚊が……」
誰かが呟いた。
異変は、それだけでは終わらなかった。
銃を構えていた兵士の指から、力が抜ける。
魔道銃が地面へ落ちた。
乾いた音が響く。
「お、おい……?」
隣の兵士が肩を掴む。
返事はない。
兵士はゆっくりと膝をつき、そのまま前へ倒れ伏した。
傷一つない。
血も流れていない。
それでも。
その瞳から命の光だけが静かに消えていた。
「な、何が起きている!」
隊列が乱れる。
また一人。
さらに一人。
誰も悲鳴を上げない。
誰も苦しまない。
ただ。
命だけが、静かに尽きていく。
「撃て!」
前王バルトロの怒声が森へ響いた。
「惑わされるな!」
「勇者を、亡霊を止めよ!」
兵士たちは震える手で再び魔道銃を構える。
恐怖に怯えながらも。
王の命令に従い。
引き金を引いた。
無数の魔力弾がルシェへ降り注ぐ。
それでも。
ルシェの旋律は止まらない。
弓が弦を滑る。
低く。
深く。
どこか懐かしい旋律が森へ流れていく。
その音色に重なるように。
また一人、兵士が崩れ落ちた。
「……ば、馬鹿な」
バルトロの顔から初めて余裕が消える。
しかし、その瞳に宿る敵意だけは揺るがなかった。
「撃て!」
「撃ち続けろ!」
「演奏を止めさせよ!」
怒号が飛ぶ。
兵士たちは命令に従う。
撃つ。
撃つ。
撃つ。
そして。
一人、また一人と倒れていく。
それは戦いではなかった。
処刑でもなかった。
ただ。
静かな旋律だけが流れ続ける戦場で。
命だけが、音もなく消えていった。
◇
館の中。
崩れかけた天井から、朝の光が差し込んでいた。
割れた窓から流れ込む旋律が、静かに室内を満たしていく。
里長は、その音へゆっくりと顔を上げた。
「……この旋律は」
誰もが耳を澄ませる。
恐怖も。
怒号も。
苦痛も。
すべてを包み込むような音色だった。
その時。
「……あれ?」
一人の子供エルフが、小さく声を漏らした。
腹部を押さえていた手を離す。
真っ赤に染まっていた服。
しかし、その下には傷がなかった。
「お母さん……」
震える声だった。
母親は目を見開く。
自らの腕に刻まれていた深い裂傷も、ゆっくりと塞がっていく。
「これは……」
館のあちこちから驚きの声が上がる。
倒れていた里人が目を開く。
折れていた腕が元へ戻る。
裂けた皮膚が閉じる。
血が止まる。
誰一人として、その理由を理解できなかった。
館の入口近くで、その光景を見ていたセレブリアンは息を呑む。
「癒えている……」
信じられなかった。
魔法ではない。
世界樹の加護とも違う。
ただ、旋律だけが流れている。
その隣で、フェルディルは静かに目を閉じた。
「これが……」
「勇者様と魔王様が、ルシェ様へ遺された力」
館の外では、なお銃声が続いていた。
その音は少しずつ減っていく。
撃つ者が減っているのだ。
やがて。
前王バルトロの怒声だけが里へ響いた。
「撃て!」
「止めるな!」
「勇者を生かしてはならぬ!」
その声は、もはや命令というより執念だった。
ルシェは前王の果てなき執着を哀しむように演奏を続け、その頬を静かに黄金の涙が伝っていく。
届かぬ言葉の代わりに、ただ切なく優しい旋律だけが流れていた。
バルトロは震える足で一歩踏み出す。
「貴様は……」
息が苦しい。
胸が締め付けられる。
それでも剣を支えに立ち上がる。
「人類の……脅威だ……」
最後の力で剣を持ち上げる。
その切っ先は、真っ直ぐルシェへ向けられていた。
敵意は、最後の瞬間まで消えなかった。
そして。
手から滑り落ちた剣が森へ乾いた音を響かせるなか、前王バルトロは静かに膝をついた。
なおもルシェを見上げたまま、彼はそのままその場に崩れ落ちた。
◇
旋律が止んだ。
森を吹き抜けていた風も。
枝葉を揺らしていた音も。
まるで世界そのものが息を潜めたように、静寂が訪れる。
ルシェは静かに弓を下ろした。
黄金の涙は、もう流れていなかった。
フェルディルはゆっくりと館の扉を開く。
エルフたち里人が外へ姿を現す。
朝日に照らされた里は、無残な姿だった。
家々は焼け落ち。
地面には無数の矢や砲撃の跡が残っている。
そして。
里を包囲していた人間軍は、静かに倒れていた。
まるで眠っているようだった。
里長は言葉を失う。
そして、生き残った者たちを見渡す。
一人。
また一人。
館の中から姿を現す。
やがて生存者の確認が終わった。
助かったのは、里長を含めた成人エルフ八名、そして二人の子供の十名だけだった。
それ以外は、もう二度と目を覚ますことはなかった。
里長は静かに目を閉じる。
「……すまなかった」
その一言が、亡き者たちへの弔いだった。
セレブリアンも拳を握る。
助けられなかった命。
守れなかった仲間。
その現実だけは、旋律でも変えられなかった。
◇
一方――。
館から離れた森の入口。
ルードヴィヒは、その場に膝をついていた。
呼吸が整わない。
視線の先には、静かに横たわる前王バルトロ。
「祖父上……」
返事はない。
肩へ触れる。
冷たい。
その温もりは、もう失われていた。
ルードヴィヒの脳裏には、先ほどの光景が焼き付いて離れない。
黒曜の骸骨。
静かな旋律。
そして。
次々と倒れていく兵士たち。
誰一人として抗えなかった。
あれは戦いではない。
魔法でもない。
人智を超えた何かだった。
「私は……」
掠れた声が漏れる。
「私は、一体……何と戦ったのだ……」
返事をする者はいない。
ルードヴィヒは震える腕で前王を背負う。
重かった。
身体ではない。
その死が、あまりにも重かった。
その時だった。
「王太子殿下!」
待機していた兵士たちが森の奥から駆け寄ってくる。
「ご無事でしたか!」
ルードヴィヒはゆっくり顔を上げる。
その瞳から、誇りも。
闘志も。
すべて消えていた。
「……撤退だ」
兵士たちは顔を見合わせる。
「しかし、前線は――」
「撤退しろ!」
思わず声を荒げる。
兵士たちが息を呑んだ。
ルードヴィヒは肩で息をしながら続ける。
「今すぐ、この森を離れろ」
「……あの里には」
震える唇が動く。
「近付いてはならない」
王太子の尋常ではない様子。
兵士たちは、それ以上何も聞けなかった。
そして、戦場を埋め尽くす惨状、それだけで十分だった。
ルードヴィヒは、震えながらエルフの里を見ていた。
館の前で、朝日を浴びた黒曜の骸骨がコントラバスを静かに抱えて立っている。
その姿から目を逸らした。
もう一度見る勇気はなかった。
人間軍は、静かに森を去っていく。
その背中を追う者はいない。
引き止める者もいない。
風を受けた世界樹の枝葉は、静かに揺れていた。
葉擦れの音は、まるで鎮魂の旋律のように森へ溶けていった。




