第10話 勇者の呪い
森の入口の空は、夕焼けに染まり始めていた。
ノヴァとエルロン、そしてルークたちは、王国軍の待機部隊とともに帰還を待っていた。
「遅いね」
ノヴァがエルフの森の方を見つめながら呟く。
「魔物の数が予想以上だったんだろう。多少は時間が掛かるさ」
ルークはそう答えたものの、その表情から笑みは消えていた。
エルロンは黙ったまま森を見つめている。
何かを決意したかのような村長のあまりにも静かな表情が、里を出る時からどうしても頭から離れなかった。
その時だった。
一人の伝令兵が馬を駆け、待機部隊の前で勢いよく飛び降りる。
「伝令!」
隊長が前へ出る。
「報告しろ!」
「全部隊、直ちに撤退!」
その場の空気が凍りつく。
隊長が眉をひそめる。
「……撤退だと?何があった」
伝令兵は荒い息を整えながら答えた。
「詳しい状況は不明ですが……」
一瞬、言葉を詰まらせる。
「前線部隊は壊滅。……前王陛下が戦死されました」
「なっ……!」
隊長だけでなく、その場にいた兵士たち全員が言葉を失う。
ルークも思わず息を呑んだ。
(前線部隊が……壊滅?)
あそこには王国でも精鋭と呼ばれる兵士たちが集まっていたはずだ。
例え吸魔蚊が襲ってきたとしても、全滅するとは思えない。
一体、何が起きたというのか。
隣ではノヴァの顔から血の気が引いていた。
「里が……。母さまが……」
小さく呟く。
ルークは何も言えなかった。
その時、森の奥から大勢の足音が響き始めると、誰もが振り返った。姿を現したのは、帰還する兵士たちだった。
しかし、誰もが青ざめた顔で、その足取りに勝利は感じない。泥にまみれ、武器を手にしたまま、ただ無言で森を離れていく。
その瞳には、困惑と恐怖が入り混じっていた。
「退け!」
「森へ近付くな!」
「早く離れろ!」
ノヴァは一人の兵士へ駆け寄った。
「お願い!」
「里はどうなったの!?」
兵士は青ざめた顔で首を振る。
「何が起きたのか……分からないんだ……」
「恐らく……誰も生き残っていないだろう……」
そう言うと、兵士はそのまま走り去っていく。
続く兵士たちも同じだった。
誰一人として森を見ようとしない。
まるで、森そのものを恐れているかのようだった。
やがて、兵士たちの列が静かに割れる。
その中央を、一人の青年が護衛兵に支えられながら歩いていた。
ルードヴィヒだった。
血の気を失った顔。
焦点の合わない瞳。
震える唇から、同じ言葉だけが何度も漏れていた。
「呪いだ……」
「勇者の……呪い……」
誰へ向けた言葉なのか。
誰も分からない。
ただ、その声だけが夕暮れの森へ静かに響いていた。
ルークは息を呑む。
(勇者の……呪い?)
その意味を考える間もなく、
ルードヴィヒの後方から、一台の荷車が姿を現した。
白い布に覆われた一つの亡骸を見て、ルークたちは言葉を失った。
兵士たちは一斉に足を止め、敬礼する。
風で布がわずかに揺れ、そこから見えた前王の身体は傷もなく、血の跡すら見当たらなっかった。そしてその横顔は、苦悶の表情はなく、驚くほど穏やかだった。
まるで眠っているだけのように。
王国最強と謳われた王は、確かに命を落としていた。
ノヴァの膝から力が抜ける。
あんなに凄い魔道銃で魔獣を倒していたのに。
それでも、里は守れなかった。
「そんな……」
その場へ崩れ落ちた。
(魔獣が母さまを……。みんなを……)
堪えていた涙が溢れ出す。
エルロンは拳を握り締めた。
(里長……あなたは何を知っていた)
あの静かな眼差し、あれは覚悟だったのか。
それとも。
別の何かだったのか。
一方、ルークは遠ざかる兵士たちを見つめていた。
前線部隊は壊滅した。
前王は命を落とした。
それなのに生還した兵士たちは、誰一人として何が起きたのか語れない。
(前線で、一体何があった……)
吸魔蚊だけで説明できるはずがない。
新たな魔獣だったのか。
それとも、まったく別の何かだったのか。
脳裏をよぎるのは、ルードヴィヒが震える声で繰り返していた言葉。
『勇者の……呪い……』
だが今のルークには、その意味すら分からなかった。
◇
王都へ帰還した軍は、勝利の凱旋とは程遠かった。
兵士たちは誰一人として声を上げない。
整然と歩いているはずの隊列もどこか乱れ、誰もが俯いたまま城門をくぐっていく。
街の人々は道を開け、その様子を見守ることしかできなかった。
「何があったんだ……」
誰かが小さく呟く。
その時。
隊列の中央を、一台の荷車がゆっくりと通り過ぎた。
白い布に包まれた前王の亡骸。
人々は一斉に息を呑む。
「……陛下?」
風が布をわずかに揺らす。
覗いた横顔は、戦場から戻ったとは思えないほど穏やかだった。
「……どうして」
誰かが震える声を漏らす。
誰も答えない。
兵士たちですら、あの日、森で見たものを言葉にできなかった。
◇
王城・謁見の間。
玉座には国王が座り、その傍らには宰相が控えている。
玉座の前へ進み出たルードヴィヒは、片膝をついた。
「戻りました」
その声は、以前とは別人のように弱々しかった。
国王は静かに頷く。
「顔を上げよ」
ルードヴィヒはゆっくりと顔を上げる。
その瞳からは、かつての気高さが消えていた。
「父は……どうして死んだ」
国王の問いに、ルードヴィヒはすぐに答えられなかった。
唇を強く噛み締める。
脳裏には、あの日の光景が焼き付いて離れない。
黒曜の骸骨。
静かな旋律。
崩れ落ちる祖父。
震える拳を握り締める。
「あれは……」
喉が震える。
何度も息を吸い込み、ようやく言葉を紡いだ。
「……勇者でした」
謁見の間が静まり返る。
「勇者……だと?」
「はい。黒き甲冑を纏い……大きな楽器を携えていましたが。その胸には、勇者の紋章が刻まれていました」
宰相が目を細める。
「その者が、前王陛下を討ったというのか」
ルードヴィヒはゆっくりと首を振る。
「誰も祖父に触れてはいませんでした。それでも……祖父は命を落としました。だから私は……」
掠れた声で続ける。
「祖父は、《《勇者の呪い》》によって命を落としたのだと、思います」
誰も反論できなかった。
誰も説明できなかった。
だからこそ。
その言葉だけが、真実であるかのように謁見の間を満たしていく。
国王が静かに口を開いた。
「……そうか」
玉座の間には重苦しい空気が流れる。
国王はしばらく目を閉じ、長い沈黙の後、宰相へ視線を向けた。
「命ずる」
「はっ」
「エルフの里への調査は、今後一切禁ずる」
宰相は驚いた表情を浮かべる。
「しかし……」
「これ以上、無用な争いを生むつもりはない」
国王の声は穏やかだった。
「我らは前王の過ちを繰り返してはならぬ」
そして続ける。
「今後はエルフ族との友好を第一とする。そして此度の件で、我らはエルフ族へ多大な迷惑をかけた。エルフ族の長老へ、私の名で謝罪状を送れ」
「畏まりました。ドワーフ族の力を借り、必ずや届けましょう」
国王はさらに言葉を続けた。
「今回救出された二人のエルフ」
「エルロン殿とノヴァ殿は、客人として王城へ迎えよ」
宰相は静かに頭を下げる。
「国賓として、お迎えいたします」
国王は小さく頷いた。
この決断は、後に百年以上続く王国とエルフ族の友好の礎となる。
◇
イクティス山麓のエルフの里での後始末を終え、数日後。
世界樹の根元にある大広間では、長老たちによる評議が静かに行われていた。
今回の一件について、長老の一人であるフェルディルから一通りの報告が終わり、円卓に重い沈黙が流れた。
「……まさか、人間が魔獣を利用していたとは」
一人の長老が静かに目を伏せる。
「五十年前の悲劇を知る者として、胸が痛む」
別の長老がゆっくりと口を開いた。
「しかし、此度の件に関しては、人間の国王自らの名で謝罪の書状が届けられた」
人間という種族は、決して一つではない。
今回の出来事は、それを改めて思い知らされる出来事でもあった。
やがてフェルディルが静かに口を開く。
「此度の件を教訓に、我々も世界へ目を向けるべきだと考えます」
円卓へ視線を巡らせる。
「世界樹のもとで待つだけでは、世界の変化を知ることはできません」
「私はこれから各地を巡り、この目で世界を見て参ります」
広間がざわめく。
フェルディルは立ち上がった。
「今回のような出来事は、人間だけに限った話ではありません。獣人族も、ドワーフ族も──世界は少しずつ変わっています。その変化を知り、未来へ繋ぐこともまた、我々エルフの務めではないでしょうか」
長い沈黙が流れる。
やがて、一人の長老が静かに頷いた。
「……頼みます、フェルディル殿」
フェルディルは深く一礼する。
その時だった。
フードを深く被ったルシェが、静かに立ち上がった。
黒曜の骨格が小さく音を鳴らす
「……ついてく」
フェルディルは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます、ルシェ様」
「ご一緒いただけるのでしたら、これほど心強いことはありません」
こうして、評議は幕を閉じた。
◇
数日後。
世界樹の外では、夕暮れの風が枝葉を優しく揺らしていた。
旅支度を整えたフェルディルは、振り返る。
「まずは、どちらへ参りましょうか」
ルシェは少しだけ空を見上げた。
「……ふものち」
その一言に、フェルディルは小さく笑う。
「ええ。まずは、不毛の地ですね」
木棺を背負った黒曜の骸骨が歩き出す。
その隣を、一人のエルフが静かに歩く。
二人の姿は、ゆっくりと世界樹の森へ溶け込んでいった。
誰にも知られることなく。
この旅立ちは、この先幾百年にもわたって世界を見守り続ける旅となる。
◇
第一章エピローグ
王国の周囲には新たな公国や小国が築かれ、街道は伸び、人々の暮らしは少しずつ豊かになっていく。
だが、その歩みは新たな摩擦も生んだ。
南方では獣人族との小競り合いが繰り返され、西では荒れ果てた大地を巡り争いが起こる。
ドワーフたちは各地へ散り、それぞれの街で鍛冶師や職人として技を磨いていった。
エルフは閉ざされた森を離れ、各地を巡り、世界の変化を世界樹へ持ち帰るようになる。
各種族が、それぞれの歩みを始め、時代が流れていく。
そして、その時代の傍らには、いつも一人の旅人がいた。
勇者の紋章が刻まれし漆黒の甲冑を纏い、深緑のローブとフードで貌を隠した黒曜の骸骨――その名は、ルシェ。
大きな木棺を背負い、静かに世界を歩き続ける。
その者が奏でる旋律は、傷ついた者を癒やし、殺意を抱く者を滅し、人々へ希望を、時に恐怖を与えた。
決して歴史の表舞台へ立つことはない。
ただ静かに、人々の営みを見守り続ける。
ルシェ。その名を知る者は少ない。
知る者もまた、やがて時の流れとともに世を去っていく。
百年。
二百年。
三百年。
幾つもの国が興り。
幾つもの国が滅びた。
英雄の名が語り継がれ。
王の名が歴史へ刻まれる、その遥か傍らで。
ただ一つの旋律だけが、変わることなく世界へ響き続けていた。




