第11話 【獣人編】虎族の虎鉄
乾いた風が、荒野を吹き抜けていた。かつて魔王城が聳えていた大地には、今も大戦の爪痕が残っている。
大きく抉れた地面。
黒く焼け焦げた岩。
半ば土に埋もれた武具。
百年という歳月を経ても、《《闇の魔素》》に侵された大地に十分な栄養は戻っていない。それでも、かつて何一つ育たなかった大地には、ところどころに小さな草が芽吹いていた。
荒野の中に、一人の旅人が立っている。深緑のローブを羽織り、深くフードを被ったその姿は、百年前から何一つ変わっていない。――黒曜の骸骨、ルシェ。その手には、長い年月を共にしてきたコントラバスがあった。弓が、ゆっくりと弦の上を滑る。
低く。 深く。 どこまでも遠くへ。
旋律が荒野を渡っていく。それはまるで、ここで命を落とした者たちへ捧げる挽歌のようだった。かつてこの場所では、魔王を討つために種族を問わず多くの命が失われた。
人間。 エルフ。 獣人。 ドワーフ。 魔族。
仲間を守るため。
国を守るため。
人間を滅ぼすため。
それぞれが、それぞれの理由で戦った。
そして最後には、すべてが光に呑まれた。
――【神罰の光芒】
後世の人間は、あの日の出来事をそう呼んだ。
あれから、百年。
世界は変わった。
国が生まれ。
道が造られ。
種族同士の交流も少しずつ始まった。
あの日を知る者も、ほとんどいなくなった。それでも、ルシェは変わらない。百年前と同じ黒曜の骨格で。百年前と同じ場所に立ち。静かに旋律を奏でていた。やがて、最後の音が風の中へ消えていく。
「……よい旋律でした」
少し離れた場所に、一人のエルフが立っていた。――フェルディル。百年前と比べても、その容姿に大きな変化はない。
ルシェがゆっくりと弓を下ろす。
フェルディルは周囲を見渡した。
「かつて多くの血が流れた荒野ですが、少しずつ緑が戻ってきましたね」
足元には、小さな草が風に揺れている。
「まだ大戦の魔素が強く残っています。豊かな土地と呼べるようになるには、さらに長い年月が必要でしょう」
フェルディルは腰を屈め、その小さな草へ触れた。
「ですが、初めてここを訪れた頃には、草一本ありませんでした。ルシェ様がこうして旋律を奏で続けたことで、この大地を縛っていた闇の魔素が、少しずつ解けているのかもしれませんね」
ルシェは何も答えない。ただ、荒野の先を見つめていた。そこには、かつて魔王城があった。今は崩れた石壁の一部が残るだけで、その面影はほとんどない。
長い沈黙の後。
ルシェの口が、わずかに動いた。
「……おもう」
「ええ」
フェルディルは、その一言だけで意味を理解したように頷いた。
「懐かしいですね」
そして、少し寂しそうに目を細める。
「もう百年ですか」
フェルディルは遠くを見つめた。
「あの日を知る者も、本当に少なくなりました」
人間で生きている者はいない。獣人も残ってはいないだろう。フェルディルたちエルフを除けば、あの日を自らの記憶として語れる者は、世界でも僅かしかいない。
ルシェが首を傾ける。
「どあ……しる」
「ドワーフですか?」
ルシェが小さく頷く。
「そうですね。彼らは長命ですから、百五十年ほど生きる者もおります。探せば、あの大戦を知る者もいるでしょう」
フェルディルは少し考えた後、苦笑する。
「もっとも、彼らは酒好きですからね。食事も偏っておりますし、百五十まで生きる者がどれほどいるのやら」
ルシェがフェルディルを見る。
「……」
「何です?」
「……えるふ」
「私たちは食生活に気を遣っています」
フェルディルは真顔で答えた。
ルシェはそれ以上何も言わず、コントラバスを木棺へ収め、背負った。
フェルディルはその姿を見ながら笑った。
「さて。今年も参りましょうか」
十年に一度。
エルフの収穫祭を終えた後、ルシェとフェルディルは一年ほど世界を巡る。今回で五度目となる巡歴だった。
世界樹の森を離れ。
獣人の草原を越え。
人の暮らす土地を抜け。
ドワーフの街へ立ち寄る。
そして、世界で起きている出来事を自分たちの目で見る。
十年という歳月は、人間や獣人にとって決して短くない。以前訪れた村が町になっていることもある。逆に、そこにあったはずの集落が、次に訪れた時には消えていることもあった。ルシェたちは、それらをただ見続けてきた。
変わり続ける世界を。
変わらない身体で。
「では、そろそろ――」
フェルディルが言いかけた、その時だった。
「ルシェぇぇぇぇぇ――!」
遠くから声が響いた。
フェルディルが振り返る。
「……おや?」
荒野の向こう。土煙が上がっている。何かがこちらへ向かって走っていた。
一つ。
二つ。
三つ。
三人の人影。頭から突き出した耳。腰の後ろで揺れる尾。三人の獣人が、凄まじい速度で荒野を駆けてくる。
先頭を走る一人が大きく手を振った。
「ルシェぇぇ! 待てトー!」
ルシェが首を傾ける。
フェルディルは、その姿を見て目を細めた。
三人はそのままルシェたちの前まで駆けてくる。
「はぁ……はぁ……」
先頭の女性が膝に手をついた。
虎の耳。腰から伸びる長い尾。しなやかに引き締まった身体。腰には二本の短剣を携えている。
荒い息を整えながら顔を上げた。
「会えたト……」
そして、満面の笑みを浮かべる。
「十年ぶりト。そろそろ来る頃だと思って、ずっと耳を立ててたト」
ルシェは女性へ顔を向ける。
「……こはく」
「覚えてたト!」
女性――琥珀の耳が嬉しそうに立った。
フェルディルも懐かしそうに笑う。
「大きくなられましたな、琥珀殿」
琥珀はフェルディルを見る。
「フェルディル」
「はい」
「お前は本当に歳を取らんト」
「エルフでも、年は取りますよ」
フェルディルは平然と答える。
「しかし、琥珀殿は随分と立派な獣人になられました」
「そりゃ、十年も経てば変わるト」
琥珀は胸を張る。
「もう二十二ト」
「そうですか。あの小さかった琥珀殿が二十二に……」
「子供扱いすんなト」
「これは失礼」
フェルディルが笑う。
ルシェは二人のやり取りを静かに眺めていた。
十年前、琥珀はまだ十二歳だった。今では背も伸び、顔立ちにも幼さはほとんど残っていない。ルシェが最後に会った時とは、まるで別人のようだった。しかし。笑った時に少しだけ覗く八重歯と、嬉しくなると耳が真っ直ぐ立つところだけは、あの頃と変わっていなかった。
「琥珀」
後ろにいた獣人の一人が声を掛ける。
「そろそろ本題を話した方がいいト」
「あっ」
琥珀の耳がぴくりと動いた。
「そうだったト」
先ほどまでの笑顔が消える。琥珀はルシェを見る。
「ルシェ」
その表情は真剣だった。
「部族で、困ったことが起きたト」
一度、息を吸う。
「一緒に来てくれんかト」
ルシェは琥珀へ顔を向ける。
そして小さく頷いた。
◇
不毛の地から南へ進むにつれ、景色は大きく変わっていった。乾いた大地は少しずつ緑を増し、やがて見渡す限りの草原が広がる。
大陸南西部。この広大な草原には、古くから多くの獣人虎族が暮らしていた。虎族は、一つの場所に大きな街を築くことを好まない。いくつもの集落――ホトンに分かれ、季節や草木の状態に合わせて草原を移動しながら生活している。
やがて丘を越えると、いくつもの丸い家が見えてきた。木で組まれた骨組みを羊毛で覆った移動式の住居。草原を吹き抜ける強い風を受け流すため、どれも丸みを帯びた形をしている。
「見えてきたト」
琥珀が指差す。
ホトンの中央では、何人もの獣人たちがこちらを見ていた。その中から、身長二メートルはあろうかという一際大きな男が歩いてくる。
他の虎族と比べても頭一つ大きい。太い腕。厚い胸板。年齢を重ねても、その身体にはいまだ若々しさがみなぎっていた。
「オヤジ!」
琥珀が手を振る。
「ルシェたちを見つけてきたト!」
男の顔がほころんだ。
「おぉ!」
大股で近づいてくる。
「ルシェ! フェルディル!」
虎族の族長。虎鉄だった。
「十年ぶりト!」
虎鉄は豪快に笑った。
「お久しぶりです、虎鉄殿」
フェルディルが頭を下げる。
ルシェも小さく手を上げた。
「元気そうで何よりです」
「おかげさまト」
そう答えながら。
虎鉄は無意識に、自分の右腕を左手で撫でた。
ルシェの顔が、ゆっくりとその腕へ向く。太く。傷一つない右腕。
虎鉄はその視線に気付くと、少しだけ笑った。
「そうト」
もう一度、自分の右腕を握る。
「この腕が今もあるのは、ルシェのおかげト」
フェルディルも懐かしむように目を細めた。
「ええ。あれから、もう十年ですか」
「早いもんト」
虎鉄は笑う。しかし、その表情には僅かな苦みがあった。
「今だから笑えるが……あの時は、本当に虎族がどうなるかと思ったト」
琥珀が父の右腕を見る。十年前。まだ十二歳だった琥珀も、あの日のことを覚えている。
大勢の獣人が集まった決闘場。
歓声。
血。
狂気。
あれは、ルシェとフェルディルが、初めてこの草原を訪れた日のことだった。
◇
十年前。大陸南西部の草原には、朝から多くの獣人たちが集まっていた。
五年に一度、虎族にとって、最も強き者を決める日。そして、次の五年間、虎族すべてを率いる族長を決める日だった。




