第5話 救いの銃声
「南の見張りが……!」
若いエルフは乱れた呼吸を整えることもできず、扉へ手をついた。
「南の森から、何かが里へ向かっています!」
「姿は見たか?」
里長が鋭く問い返す。
「いえ。ただ、見張りの者が二人、こちらへ逃げてきています。その後ろに、黒い影が……!」
その言葉が終わるより早く、森の方角から叫び声が聞こえた。
「助けてくれー!」
「魔獣だ! 魔獣が入ってきたぞ!」
里長は立ち上がる。
「皆の者、里の中央へ集まれ!」
館にいた者たちが一斉に動き出した。
「弓を持て! 戦える者は陣を組むのだ!」
里長は外へ出ると、集まり始めた里人たちへ声を張り上げた。
「火系と雷系の魔法は使うな! 家々や森へ燃え移れば、我らが里を失うことになる!」
「水と氷を扱える者は前へ! 風を扱える者は援護に回れ!」
エルフは弓と魔法を主な武器とする。
里に住む二十名ほどのうち、成人に満たない者は三名。
老人や子供を除き、里長の館の前には十四名のエルフが集まった。
セレブリアンも自宅へ戻る暇はない。
館に備えられていた弓を手に取ると、矢筒を背負って陣へ加わった。
本来、彼が得意とするのは火と雷。
どちらも里の中では使えない。
だが、森で生きるエルフにとって、弓は誰もが幼い頃から扱う武器だった。
「来るぞ!」
南側の木々が大きく揺れた。
枝を押し分けるように、二人のエルフが姿を現す。
一人は額から血を流し、もう一人は左腕を赤く染めていた。
「仲間が一人やられた!」
走りながら叫ぶ。
「気をつけろ! あいつらは血だけではない! 魔力まで吸うぞ!」
その直後。
甲高い羽音が森の奥から響いた。
ブゥゥゥン――。
セレブリアンは息を潜める。
(知らない羽音だ)
次の瞬間。
現れたのは、三体の黒い魔獣だった。
細長い脚。
半透明の翅。
人の腕ほどもある腹部。
頭部から伸びた口吻は、針というより細身の槍に近い。
その異形を見た瞬間、陣の中から息を呑む音が漏れた。
「何だ、あれは……」
「見たことがない……」
里長は片腕を上げた。
「まだ撃つな!」
二人の里人と魔獣の距離は近い。
今攻撃すれば、逃げてくる仲間まで巻き込む。
「もう少しだ!」
「走れ!」
エルフたちの声が飛ぶ。
二人のうち、頭から血を流していたエルフの男が振り返った。
三体の魔獣は、すぐ背後まで迫っている。
「くそっ!」
男は走りながら弓を構えようとした。
その足へ、魔獣の細長い脚が絡みつく。
「うわっ!」
身体が地面へ叩きつけられた。
もう一人が助けに戻ろうとする。
「戻るな!」
里長の怒声が響いた。
「走れ!」
倒れた男の背中へ、一体の魔獣が降り立った。
長い口吻が肩へ突き刺さる。
「がっ……!」
二体目。
三体目。
獲物を奪い合うように群がり、口吻を身体へ突き立てていく。
男の身体が激しく痙攣し、急速に萎んでいった。
肌から水分が失われ、頬が落ち窪む。
生命とともに、その身に蓄えられていた魔力まで吸い尽くされていく。
つい先ほどまで助けを求めていた者が、乾いた骸へ変わった。
「いや……」
女のエルフの悲鳴が響く。
だが、セレブリアンだけは目を逸らさなかった。
三体が一人へ群がった今だけは、動きが止まっている。
弦を引き絞る。
呼吸を止める。
「許せ」
風を裂いた一矢が、魔獣の腹部を貫く。
紫色の体液と、吸い上げたばかりの鮮血が空中へ飛び散った。
「続け! 今だ!」
里長の号令と同時に、矢と魔法が放たれた。
氷の礫。
水の刃。
風を纏った矢。
だが、残る二体の魔獣は一斉に飛び上がり、空中で不規則に軌道を変えた。
攻撃がことごとく空を切る。
「速い……!」
魔獣は左右へ散開し、矢をかわした。
そのまま陣へ向かってくる。
「氷壁!」
前列のエルフたちが同時に魔法を放った。
地面から氷の壁がせり上がる。
生き残った里人が、左腕を押さえながら館へ駆け込む。
二体は直前で進路を変え、陣の上空を旋回し始めた。
「傷口を塞げ!」
「吸われた魔力は回復させるな! まず止血を優先しろ!」
里長は上空から目を離さないまま指示を飛ばした。
「陣を崩すな!」
里長の指示に、セレブリアンは目を見開く。
(魔力を……吸う魔獣?)
二体の魔獣は、我々の頭上を旋回しながら、獲物を選ぶように視線を巡らせている。
その視線が、自分へ向く。
(まさか……魔力の強い者を狙っているのか)
セレブリアンの背に冷たいものが走る。
(人間と魔獣……?)
その時だった。
「セレブリアン!」
陣の後方からエリアンが駆け寄ってきた。
顔から血の気が失われている。
「どうした、エリアン」
「ノヴァがいないの」
セレブリアンは目を見開いた。
「あの子、朝から杖を抱えて、本当に嬉しそうだったの。ずっと部屋で眺めたり、何度も手に取ったりして……」
エリアンの声が震える。
「私も迎えに行こうとしたの。でも、その時にはもう魔獣が里へ……」
エリアンは唇を噛む。
エリアンはセレブリアンの腕を掴んだ。
「お願い。あの子を助けて、セレブリアン」
館からエリアンの家までは、里の中央を挟んで少し離れている。
上空には、二体の魔獣。
陣を離れれば、格好の獲物になる。
セレブリアンは一瞬だけ里長を見た。
里長も話を聞いていた。
「頼めるか、セレブリアン」
一瞬だけ視線が交わる。
「若い命を守って欲しい」
セレブリアンは強く頷いた。
「必ず連れて戻る、エリアン」
弓を握り直し、陣を飛び出す。
案の定、二体の魔獣が反応した。
羽音が急激に近づく。
エルフの中でも高い魔力を持つセレブリアンは、魔獣にとって何より魅力的な獲物だった。
背後を振り返らず、左手を開く。
『燃えろ』
掌から、一メートルほどの炎が吹き上がる。
里へ燃え移らせないよう抑えた炎。
それでも魔獣にとっては、本能が危険を告げる炎だった。
二体の魔獣は空中で急停止し、空中で距離を取り、セレブリアンの周囲を回り始める。
やはり火を恐れている。
だが、諦めたわけではない。
炎が消える瞬間を待っている。
「どこにいる!ノヴァ!」
セレブリアンはエリアンの家へ向かって叫んだ。
「ノヴァ!」
返事はない。
家の扉は開いたまま。
中を覗くが、人の姿はない。
その時、家の脇に積まれた薪の陰で、何かが動いた。
「……セレブリアン様」
小さな声。
震える身体でしゃがみ込み、胸には布で包まれた魔法杖を抱えているノヴァだった。
「大丈夫か、ノヴァ!」
セレブリアンが叫ぶ。
だが、その声で魔獣もノヴァの存在に気づいた。
二体の頭部が同時に動く。
炎を持つセレブリアンよりも、抵抗する術を持たない幼いエルフを選んだ。
「待て!」
二体の魔獣が一斉にノヴァへ襲いかかる。
セレブリアンは弓を構えた。
間に合わない。
「ノヴァ!」
――パン!
乾いた破裂音が響いた。
一体の魔獣の腹部が弾け飛ぶ。
――パン!
二発目。
残る一体の頭部が紫色の体液を撒き散らし、地面へ落ちた。
セレブリアンは矢をつがえたまま動きを止める。
音のした方角へ視線を向けた。
道を挟んだ反対側。
家屋の陰から、四人の人間が姿を現した。
先頭には、ドワーフの工房で会った隊長。
その隣では若い兵士が、細長い筒状の魔道具を構えている。
筒の先から、微かな紫煙が上がっていた。
「……人間」
セレブリアンの声が低くなる。
だが今は問い詰めている場合ではない。
すぐさまノヴァへ駆け寄った。
「怪我はないか、ノヴァ」
「は、はい……」
ノヴァは涙を浮かべながらも、魔法杖を胸から離そうとしなかった。
「この杖……母さまが、私のために……」
「もう大丈夫だ」
セレブリアンはその肩を抱き、立ち上がらせた。
人間たちが近づいてくる。
若い兵士は筒状の魔道具を下ろし、ノヴァへ穏やかに微笑んだ。
「間に合ってよかったです」
ノヴァは怯えながらも、小さく頭を下げる。
「ありがとう……ございます兵隊さん」
「礼には及びません」
兵士はそう答えた。
その表情に、偽りがあるようには見えなかった。
兵士が倒れた魔獣を確認する。
足先で身体を動かし、完全に息絶えていることを確かめた。
「二体とも仕留めました」
後方にいた隊長に兵士が報告をする。
その時。
耳の良いセレブリアンは、隊長の口から漏れた小さな声を聞いた。
「……《《うまくいったな》》」
セレブリアンはゆっくり顔を上げる。
隊長は魔獣ではなく、ノヴァを見ていた。
そして、その向こうにある、エルフの里を。
魔獣へ攻撃を命中させたことを喜んだ声には聞こえなかった。
「何が、うまくいったのだ」
セレブリアンが問う。
隊長は一瞬だけ彼を見返した。
すぐに穏やかな表情を作る。
「……。いえ、試作の魔道具のことですよ」
若い兵士が持つ筒を指した。
「実戦で使用するのは初めてでした。エルフの方を救うことができ、良かったです」
「……そうか」
答えながらも、セレブリアンの胸には小さな棘が残った。
◇
やがて、里の中央。
負傷者の手当てが一段落し、静寂が里を包んでいた。
三体の魔獣はすべて倒された。
一体はセレブリアンの矢によって。
二体は人間の魔道具によって。
だが、喜ぶ者はいなかった。
南の見張りを務めていた三人のうち、一人は森の中で。
もう一人も、里人たちの目の前で血と魔力を吸い尽くされ命を落とした。
二人の亡骸には白い布が掛けられていた。
里長は長く目を閉じたあと、人間の隊長へ向き直った。
「このたびは、我らの同胞を救っていただいた」
「感謝する」
隊長は胸へ手を当て、深く頭を下げる。
「救えなかった方もいます」
「もう少し早く到着できていれば……」
「貴殿らが来なければ、失われた命は二つでは済まなかっただろう」
里長は静かに告げた。
「どうか今宵は、我らの客人として里へ留まっていただきたい」
周囲のエルフたちから戸惑いの声が漏れる。
五十年間、外部との交流をほとんど断ってきた里。
ましてや、相手は人間だ。
だが、目の前で幼いノヴァを救った事実を否定する者はいなかった。
「お心遣い、感謝いたします」
隊長はもう一度頭を下げた。
エリアンはノヴァを強く抱き締めている。
「本当に、ありがとうございます」
何度も頭を下げた。
ノヴァは母の腕の中から顔を出し、若い兵士を見つめていた。
「その魔道具……何ですか」
兵士は手にした筒へ視線を落とす。
「魔道銃です」
「魔法が使えない僕たちみたいな人間でも、魔力を込めた弾を撃ち出せる道具です」
「魔法が使えなくても……?」
ノヴァの瞳に、恐怖とは異なる光が宿る。
未知の技術へ向けられた、純粋な興味だった。
「もっと、見せてもらえますか」
兵士は困ったように隊長を見る。
隊長は小さく頷いた。
「危険ないので、触ることはできませんが」
隊長はそう言うと、兵士へ視線を送る。
兵士は魔道具を胸の高さまで掲げ、外観だけが見えるよう向きを変えた。
「近くで見るだけだ。触れないでくれ」
「……はい」
少しだけ残念そうに頷くノヴァ。
それでも、その瞳は好奇心に輝いていた。
その姿を見たエリアンも、ようやく僅かな笑みを浮かべた。
セレブリアンだけが笑わなかった。
人間たちを宿へ導く里人たちの後ろを歩きながら、先ほどの言葉を思い返していた。
(――うまくいったな)
日が暮れる頃、館では簡素な宴が開かれた。
失った者を悼む静けさと、救われた命への安堵。
二つの感情が、同じ部屋の中に混ざり合っていた。
人間たちは持参した保存食を差し出し、エルフたちは森で採れた果実と野菜を振る舞う。
ノヴァは若い兵士の隣へ座り、人間の都市について次々に尋ねていた。
エリアンも、その様子を穏やかに見守っている。
里長は人間たちと静かに言葉を交わしていた。
誰もが少しずつ警戒を解き始めていた。
セレブリアンは席を立つ。
「どちらへ行く、セレブリアン」
里長が尋ねた。
「結界の出入り口を確認してまいります、里長」
「魔獣がどこから入ったのかを確かめたい」
里長はしばらく彼を見つめたあと、頷いた。
「分かった。気をつけるのだぞ、セレブリアン」
セレブリアンは一礼し、館を後にした。
背後では、ノヴァの明るい笑い声が聞こえていた。
その声から遠ざかるように、セレブリアンは夜の森へ入っていく。
頭から離れない言葉があった。
あれは、魔獣を倒した者の声ではなかった。




