第3話 残された世界
魔王ヴァルザークが討たれ、世界を覆っていた闇の軍勢は消え去った。
後に【神罰の光芒】と呼ばれる大戦。
そいて、五十年。
世界は、ようやく静けさを取り戻し始めていた。
だが、それは平和とは少し違う。
魔王と共に魔族は姿を消したものの、各地にはなお魔物が巣食い、人々の暮らしを脅かしていた。
街道では旅人が襲われ。
村々では畑が荒らされる。
人々は今日も武器を手に取り、生きるための戦いを続けている。
もっとも、その被害は他種族と比べれば、人間が最も少なかった。
人間を代表する勇者ルーテェ。
彼は誰よりも前に立ち、誰よりも多くの魔族を引き受け続けた。
だからこそ、人間軍は後方支援と補給に専念でき、多くの兵を失わずに済んだ。
それでも。
国土は荒れ、多くの命が失われた事実は変わらない。
大戦は終わった。
だが、その傷跡は世界中に残り続けていた。
◇
天を支えるかのように聳え立つ巨大な神木――『世界樹』の根元には、外界の喧騒を拒むかのように静寂に包まれたエルフ族の里が隠されている。
朝露を纏った若葉が風に揺れ、木漏れ日が森を柔らかく照らす中、小鳥たちが静かに歌っていた。
世界樹を望む一室。
窓辺には、一体の黒曜の骸骨が静かに佇んでいた。
その身を覆う黒き甲冑は、肉体の一部となった勇者の鎧。
胸には今も、勇者の紋章が刻まれている。
その上から羽織る深緑のローブが、異形の姿を静かに包み込んでいた。
部屋の中央には、一つの大きな木棺が横たわっている。
世界樹の恵みを受けた巨木から削り出されたその棺は、五十年という歳月を経ても、なお美しい木目を湛えていた。
その中には、灰白色の巨大なコントラバスが静かに眠っている。
それは、ルシェが長い時の中で、幾度となく手に取ってきた大切な楽器だった。
ルシェは窓の外へ視線を向けたまま動かなかった。
葉擦れの音。
鳥たちの囀り。
世界樹を吹き抜ける風。
それらを静かに聞いていた。
やがて、部屋の外から足音が近づく。
「ルシェ様」
従者のエルフの女性が一礼する。
ルシェは小さく頷くと、深くフードを被った。
黒曜の骸骨はその影の中へ隠れ、外から見れば一人の旅人にしか見えない。
部屋を出る直前。
ほんの一瞬だけ木棺へ視線を向ける。
静かに扉を開き、部屋を後にする。
世界樹に寄り添うように伸びた回廊を歩く。
足元では太い枝が緩やかな道となり、頭上では幾重もの枝葉が柔らかな木漏れ日を落としていた。
世界樹を吹き抜ける風が、森の香りを運んでくる。
やがて、二人は一つの広間へ辿り着いた。
「お待ちしておりました」
穏やかな声が響く。
長い銀髪を後ろで束ねたエルフ。
大賢者フェルディルだった。
その隣には、人間で言えば八歳ほどに見える幼いエルフの少女が立っている。
ルシェの姿を見るなり、少女は満面の笑みを浮かべた。
「ルシェ様!」
勢いよく飛びつく。
ルシェは慣れたようにその身体を受け止め、小さな頭を優しく撫でた。
フェルミナは嬉しそうに目を細める。
フェルディルが微笑む。
「フェルミナ。父はルシェ様と少し話があります。」
「はい!」
元気よく返事をすると、従者に手を引かれながら部屋を後にした。
静寂が戻る。
フェルディルは窓辺まで歩く。
巨大な窓の向こうには、世界樹の枝葉がどこまでも広がっていた。
ルシェも隣へ並ぶ。
二人はしばらく言葉を交わさない。
五十年という歳月を共に歩んできた二人にとって、その沈黙は決して気まずいものではなかった。
風が枝葉を揺らす音だけが、静かに流れていく。
やがてフェルディルが口を開いた。
「……あの大戦から、五十年になります」
ルシェは黙って耳を傾けている。
「あなたは武器を取ることをやめました」
その声音に責める響きはない。
五十年前。
フェルディルは、勇者ルーテェをこの世界から失いたくなかった。
禁忌を犯し、生まれた新たな命が、再び世界を支える存在となることを願った。
しかし魔王と融合したルシェは、勇者にも魔王にもならなかった。
戦うことを自ら選ばなかった。
それでもフェルディルは、その歩みを否定したことは一度もない。
「魔王も魔族もいない世界は、それぞれ復興への道を歩み始めています」
森を渡る風が窓から吹き込む。
枝葉が静かに揺れ、部屋は優しい葉擦れに包まれた。
しばらくして。
ルシェは、小さく呟く。
「……まお、いる」
風に溶けてしまいそうなほど、小さな声。
だがフェルディルは穏やかに微笑んだ。
「ええ。そうでしたね」
「魔王様は、今もあなたの中におられる」
ルシェが年に一度、世界樹の根元で旋律を奏でる時。
その音色の中には、勇者ルーテェと魔王ヴァルザーク、二人の想いが微かに重なるような気がすると、フェルディルは時折思うことがあった。
それが記憶なのか。
魂の残響なのか。
誰にも分からない。
フェルディルは再び世界樹を見上げる。
「ですが──」
その声色が少しだけ重くなる。
「勇者も魔王も存在しない時代だからこそ……」
「世界には、再び別の火種が生まれ始めているようです」
ルシェは何も答えない。
ただ静かに、世界樹の葉が奏でる音へ耳を澄ませていた。
◇
ディヴァニア王国。
魔王大戦において最も被害が少なかった人間最大の王国。
堅牢な白亜の城は、戦後五十年を経てもなお大陸の中心で、その威厳を保っていた。
その最上階、王の間には重苦しい空気が流れている。
長い机を囲むのは、この国の中枢を担う者たちだった。
玉座には現国王バルト。
その隣には、今なお王以上の威厳を放つ前王バルトロ。
王太子ルードヴィヒ。
宰相。
そして数名の貴族たち。
誰もが地図へ視線を落としていた。
沈黙を破ったのは王太子だった。
「父上」
まだ二十一歳、若さゆえの熱が、その声には宿っていた。
「出陣は、まだなのですか」
王はゆっくり息を吐いた。
「ルードヴィヒよ。焦るでない」
「だが——」
「戦とは、勢いだけで勝てるものではない」
王は宰相へ視線を向けた。
「各種族の動きは」
宰相は静かに頷く。
「まず獣人族です」
机の地図の南部を指した。
「【神罰の光芒】以降、彼らは南方へ戻り、それぞれの部族を再建しております」
「相変わらず力こそ全て。内部抗争を繰り返しながらも、生存競争によって勢力を拡大しております。」
王太子は鼻を鳴らす。
「蛮族らしい」
誰も否定しない。
宰相は続けた。
「続いてドワーフ族」
今度は北のエルヴィリア山岳地帯を指した。
「彼らは各地に工房を築き、魔道具の研究を急速に進めています」
一人の貴族が口を開く。
「人間では到底思いつかぬ魔導機構を生み出しております」
「我々も優秀な職人を迎え入れる交渉を続けております」
王太子が身を乗り出した。
「ならば早く招けばいい。戦力になる」
宰相は苦笑する。
「それが容易なら苦労いたしません」
「彼らは金では動きますが、誇りはもっと高い」
「故郷を捨てる者は少数です」
王は静かに頷いた。
「時間が必要か」
「はい」
宰相は地図の北へ指を移した。
深い森林地帯。
「そして、エルフ族」
部屋の空気が少し変わる。
「依然として里の位置は判明しておりません」
「北方各地に点在していることは確認しておりますが、認識阻害魔法によって里そのものが隠されています。」
一人の老貴族が眉をひそめる。
「五十年探しても見つからぬとは。それほどの結界か」
「はい」
宰相は淡々と答える。
「世界樹の加護を受けた結界と推測しております」
王太子は腕を組んだ。
「ならば壊せばいい」
「見つからぬものは壊せません」
宰相の返答は冷静だった。
王は小さく笑う。
「まだ若いな」
ルードヴィヒは不満そうに口を閉じた。
宰相は一度息を整える。
「最後に——勇者ルーテェについてですが……」
その言葉で、前王バルトロの目だけが僅かに動いた。
「現在も調査は継続しております」
「しかし、有力な情報はありません」
「ですが唯一。エルフの大賢者フェルディルが、勇者と何らかの繋がりを持っていたことだけは確実です」
王が腕を組む。
「だが勇者も五十年前の英雄。生きているなら七十を超えている」
「どこかで静かに余生を送っているか……あるいは」
言葉は最後まで続かなかった。
しかし誰もが理解していた。
死。
それを意味している。
だが、その時だった。
前王バルトロが口を開いた。
「……死んでおらぬ」
低い声。
それだけで部屋の空気が張り詰める。
「父上?」
現王が振り向く。
前王はゆっくり目を閉じる。
「わしは、見た」
誰も口を開かない。
「神罰の光芒が消えた、その焼け野原に」
「ただ一人、立ち尽くすヤツの姿を」
前王は静かに目を閉じた。
「あの姿を、忘れた日は一日たりともない」
静かに立ち上がる。
「勇者ルーテェ……」
そこで言葉を止めた。
何かを飲み込むように。
そして再び椅子へ腰を下ろす。
現王は父の横顔をしばらく見つめると、ゆっくりと前を向いた。「……宰相」
「引き続き調査を命ずる」
「はっ」
王の間は再び静寂に包まれた。
◇
その頃、王国から遥か西。
イクティス山の麓では、昼間から酒場に笑い声が響いていた。
「聞いたか?」
「最近また人間どもが来てるらしいな!」
「何でも腕の立つドワーフを探してるとか言ってたな!」
「わっはっは!」
「じゃあ俺様の怪力でも見せてやるかな!」
「違う違う!」
「欲しいのは腕力じゃなくて職人の腕だな!」
酒場は大きな笑いに包まれる。
戦争が終わって五十年。
ドワーフたちは相変わらずだった。
酒を飲み。
鍛冶をし。
笑う。
それが彼らの日常だった。




