第2話 神罰の光芒(後半)
黒く濁った光の矢が、なおも空から降り続けていた。
砕けた城壁。
崩れた塔。
折れた剣。
息絶えた英雄たちと、物言わぬ魔物たち。
静まり返った戦場には、もはや声を上げる者すら存在しない。
一方、はるか後方に陣を敷く人間軍の幹部たちだけは、王国の密命に従い最前線から距離を保ち続けていた。
遠くの異変に胸騒ぎを覚え、様子を窺おうと歩みを進める一般兵士たちもいた。だが、戦場全体を覆い尽くす禍々しい魔素の渦――その狂気的な圧迫感が立ち塞がり、誰一人として惨劇の渦中へ足を踏み入れることはできなかった。
そして、大戦は終わった。
いや――終わらされたのだ。
戦場の中央。
勇者ルーテェは聖剣にもたれかかり、浅く息を吐いた。
全身は焼け、血に染まり、右腕は力なく垂れ下がっている。
それでも、その瞳だけは魔王を見据えていた。
数歩ほど先。
漆黒の鎧は砕け散り、魔王ヴァルザークもまた片膝をついていた。
王冠は失われ、長い黒髪は血と灰にまみれている。
互いにもう武器は持てない。
立ち上がる力も残っていなかった。
長い沈黙が流れる。
風だけが灰を運んでいた。
「……貴様は強かったぞ」
ヴァルザークは目を細めて笑う。
ルーテェが小さく笑う。
「最後の言葉が、それか……」
勇者は静かに空を見上げた。
「貴様を討つためだけに、この五年を生きた」
「そして、その願いは叶った」
「もう、……十分だ」
ヴァルザークは低く笑った。
「貴様……、最後まで勇者を貫くか」
再び静寂が訪れる。
ルーテェの視線が、天を覆っていた魔法陣へ向いた。
もう、穢れた光の矢も魔法陣も収束していく。
その瞳に、初めて迷いが浮かぶ。
「……ここまで、するのか」
ヴァルザークは興味深そうに勇者を見る。
ルーテェは苦く笑った。
「敵も味方も関係なく……我々を消し去るために、これほどの術を……」
ヴァルザークは目を閉じる。
「恐怖ゆえか。そこまで我らの存在が恐ろしかったと見える」
「……ああ。だが、こんなものを放って……この後、どうするつもりなんだ王国は……」
ヴァルザークは小さく鼻で笑う。
「さあな。正気を失った者に、後先など考えられるはずもなかろう」
勇者は静かに魔王を見据えた。
「最後に我は、貴様と戦えたことを、誇りに思うぞ」
ヴァルザークは静かに頷く。
「私も同じだ」
その言葉を最後に、二人はゆっくりと目を閉じた。
役目は終わった。
後は静かに死を迎えるだけ。
そう思った、その時だった。
「――勇者ルーテェ様」
澄んだ声が、静まり返った戦場に響く。
二人はゆっくりと目を開く。
瓦礫の向こうから、一人の男が歩いてくる。
肩まで伸びた白銀の髪。
人より長く尖った耳。
深緑の法衣は無数に裂け、左腕は肩口から失われていた。
血は流れ続けている。
それでも、その歩みを止めない。
端正な顔立ちは壮年の男そのものだった。
だが、黄金色の瞳だけは、数百年という歳月を見つめ続けてきた者だけが宿す静けさを湛えている。
エルフ族最高の大賢者の一人。――フェルディル。
ルーテェは目を見開く。
「フェルディル殿……」
フェルディルは勇者の前で静かに立ち止まり、深く一礼した。
「勇者ルーテェ様」
「あなたは、まだ終わってはなりません」
ルーテェは力なく微笑む。
「……何を言っている。魔王は討った」
「世界は……平和になる」
「これ以上、私に役目はない」
フェルディルは首を横に振る。
「いいえ」
「あなたは、こんな終わり方をしてはいけない」
「あなたは……、私たちの《《希望》》です」
その言葉に、ヴァルザークが笑った。
「貴様、何を言っている」
フェルディルは迷うことなく魔王へ向き、静かに答えた。
「あなたも……」
その場に異様な空気が流れ。
勇者も。
魔王も。
困惑の表情を浮かべていた。
フェルディルは静かに二人を見渡す。
「私は、こんな結末を許さない。きっと同胞も同じです」
「この世界には、あなた方が必要なのです」
「だから私は――禁を犯します」
そう言うと、フェルディルは胸元から、小さな翠色の結晶を取り出した。
《《世界樹の核》》。
代々、エルフの大賢者だけが守り継いできた、決して使うことの許されない秘宝。
フェルディルはそれを残された右手で包み込む。
「成功する保証はありませんが」
「それでも……」
フェルディルは静かに目を閉じた。
『天なる光は地に堕ち、深淵の闇は天を焦がす』
フェルディルが世界樹の核を静かに掲げた。
翠色の光が、ゆっくりと二人を包み始める。
その光は温かくはない。
凍えるほど冷たい。
『黎明と黄昏が交わる臨界の地にて、相反する二つの絶望を以て創世を再演せん!』
フェルディルの白銀の髪が、一房、また一房と灰へ変わり、風に消えていく。
まるで命そのものを削り取っているかのようだった。
その姿を見て、ルーテェは目を見開いた。
「……やめろ‼︎」
フェルディルは答えない。
世界が生まれる以前から存在していた禁じられた理。
『 現世の鎖を断ち切り、新たな王を象れ!』
ヴァルザークの瞳が揺れる。
「まさか……」
その術を知っていたわけではない。
だが、本能が告げていた。
この術は、この世界にあってはならないもの。
フェルディルは静かに目を閉じる。
そして、ゆっくりと二人へ手を差し伸べた。
「どうか……」
「未来、へ……」
その瞬間、世界樹の核が砕け散った。
翠色の光が戦場を覆い尽くす。
ルーテェから黄金が浮かび上がる。
ヴァルザークの漆黒が応える。
二つの光は激しく拒み合い、空間そのものを震わせた。
静寂だけが広がる。
やがて、二つの光は。
ゆっくりと一つへ溶け始めた。
最後に残ったのは。
黒曜石のような輝きを放つ、一体の骸骨だった。
だが、その骨には禍々しさがなかった。
静かに。
ただ静かに、戦場の中央へ立っていた。
フェルディルは、その姿を見つめる。
「……成功、したの、か?」
答える者はいない。
《《黒曜の骸骨》》はゆっくりと自らの骨の手を見る。
空洞の眼窩が世界を見渡す。
その時、地面へ突き刺さったままの聖剣が、小さく震えた。
──《《カラン》》。
乾いた音が響く。
そして、戦場中に散らばっていた剣が。
一本。
また一本。
槍が。
斧が。
杖が。
盾が。
静かに崩れ始める。
その武器は灰となって、風へ溶けていく。
フェルディルは息を呑んだ。
「これは……」
灰は戦場を巡る。
倒れた英雄たちの傍らを。
魔族たちの亡骸を。
灰は静かに、戦場へ眠る死者たちの魂を包み込んでいく。
戦場へ散った者たちの執念を。
志半ばで途絶えた命を。
世界を呪った最期の叫びを。
それでも世界を愛した最後の願いを。
まるで、それらすべてを導くように。
灰は一つの場所へ集まり始めた。
黒曜の骸骨の前へ。
そして、灰はゆっくりと形を成す。
長い棹。
深い胴。
四本の弦。
灰白色の艶を放つ、一挺の《《コントラバス》》。
剣でも、戦うための武器でもない。
それは大きな楽器だった。
黒曜の骸骨は静かにそれを見つめる。
フェルディルの身体が崩れ落ち始めた。
禁術の代償だった。
世界樹の核を失った男の命は、もう尽きようとしていた。
黒曜の骸骨は男を見る。
黒曜の骸骨の骨の指は自然と弓を握り、弦へ触れる。
静かに弓が動く。
一音。
低く。
深く。
どこまでも澄み切った音が戦場へ響く。
続いて二音。
三音。
それは【旋律】となる。
ただ命を命として慈しむ音。
風が流れ、灰が舞い上がる。
フェルディルの胸の傷から血が止まる。
失われた左腕が裂け目から肉が盛り上がり、ゆっくりと再生していく。
フェルディルは首を振り、震える声が漏れる。
「……。これは……ただの回復ではない」
その瞳から涙が零れる。
「生命が……歌っているようだ」
黒曜の骸骨の【旋律】は、戦場を巡る。
そして、命尽きた兵士たちの頬を撫でる。
苦しみに歪んでいた表情が、穏やかになったいく。
だが、誰一人、生き返らない。
やがて、演奏が終わり。
フェルディルが黒曜の骸骨を見つめると、その眼窩から一筋の黄金が零れ落ち、静かに大地へと吸い込まれていった。
「あなたは、勇者なのですか……」
「それとも、魔王なのですか……」
黒曜の骸骨は答えない。
ただ静かにフェルディルを見つめ返していた。
長い沈黙が流れる。
やがて、黒曜の骸骨の顎がゆっくりと動いた。
まるで、忘れていた言葉を思い出すように。
「……《《るしぇ》》」
擦れた声だった。
乾ききった喉から絞り出したような、小さな声。
黒曜の骸骨は再び口を閉ざす。
それ以上、何も語ろうとはしなかった。
フェルディルは静かに目を閉じる。
「……そうか。《《ルシェ》》……」
「それが、あなた様の名なのですね」
風が吹く。
黒曜石の骨が、静かに空を見上げた。
その空は、どこまでも灰色だった。
◇ ◇
王国は、この日を――
【神罰の光芒】と名付けた。
神が魔王へ裁きを下し、勇者はその使命を果たして散った。
そう歴史は書き換えられた。
王国が勇者を裏切ったことも。
決戦の真実も。
魔王と勇者が最後に交わした言葉も。
そして、一人のエルフが禁術を行使したことも。
すべては歴史の闇へ葬られた。
決戦の地は、神罰によって穢れた忌地と恐れられ、
幾百年もの間、誰一人として足を踏み入れることはなかった。
そこから姿を消したルシェとフェルディルは、歴史の表舞台からも姿を消した。
世界各地には、一つの奇妙な伝承だけが残った。
『黒曜の骸骨が、一つの棺を担ぎ、世界を彷徨っている』
人々はそれを、【神罰の光芒】が生んだ亡霊と恐れた。
突如として現れ。
誰にも名を告げずに姿を消す。
そんな噂だけが、時を越えて語り継がれていた。
五十年後。百年後。二百年後。――五百年後。
そして。
世界は再び。
欲望を育み始める。
黒曜の骸骨は。
今日も棺を担ぎ。
静かに歩いていた。




