第1話 神罰の光芒(前半)
空は、夕焼けではなく炎で赤く染まっていた。
――ゴーッ……と低く唸る炎上音と、遠くで入り乱れる怒號。
彼方にそびえる魔王城へと続く大地には、崩落した砦や焼け落ちた村の跡など、果てなき大戦の生々しい爪痕が深く刻まれていた。
へし折れた軍旗が突き刺さるその道の至る所には、人間や獣人、エルフ、ドワーフ、さらには魔族にいたるまで、怨嗟の声を遺して果てた数え切れない骸が横たわっている。
その城門を目指し、連合軍は最後の進軍を続けていた。
最前線には、勇者ルーテェを中心に、
獣人族最強の戦士と、その精鋭獣牙隊。
ドワーフ族随一の鍛冶戦士と、重装戦槌隊。
エルフ族最高の魔導士と、森の魔導兵団。
その後方では、人間軍が幾重にも陣を敷く。
補給隊。
救護隊。
神官団。
魔導兵団。
工兵隊。
彼らもまた、世界を救うために戦う仲間だった。
誰もが、この戦いが世界最後の戦争になると信じていた。
世界を覆った約五年間におよぶ魔王大戦は、今まさにその終焉の刻を迎えようとしていた。
◇
大剣が振り下ろされる。
轟音。大地が割れた。
その亀裂から放たれた眩い閃光が一直線に戦場を走り、魔族たちが次々と吹き飛ぶ。
この一撃を放ち、破壊の嵐の中心、白銀の鎧の胸当てに勇者の紋章を刻み、純白の外套を翻して黄金に輝く聖剣を手に立つ青年――人々は彼を、勇者ルーテェと呼んだ。
「進めー!」
ルーテェの声が戦場へ響く。
その一言だけで、兵士たちの士気が蘇る。
疲弊しきっていた戦士が再び剣を握った。
獣人族の仲間たちが豪快に笑う。
「ははっ! やっぱり人間の勇者は化け物だガ!」
巨大な戦斧や鉄爪が魔族を薙ぎ払う。
その隣では、白銀の長髪を揺らしたエルフの賢者が無数の魔法陣を展開した。
「東側を援護します!勇者」
数百もの凍てつく氷の錐が、鋭くきらめきながら空を埋め尽くす。
さらに、ドワーフの老鍛冶師が巨大な戦槌を振るう。
「若造ども! 前へ出ろ!」
岩すら砕く一撃が魔物を吹き飛ばした。
この世界が救うため、それぞれの種族における最強の英雄たちは、勇者と共に最前線で戦っていた。
◇
その頃、激戦の火蓋が切って落とされた戦場から遠く離れた王城の地下深くには、不穏な静寂が満ちていた。そこには幾重もの古代文字と無数の魔力結晶が埋め込まれた巨大な魔法陣が怪しく輝き、数十人もの宮廷魔導士たちがその陣を囲むようにして立っていた。
バルトロ王は静かに口を開いた。
「……聖剣の魔力蓄積率は?」
「九十二パーセントです」
老賢者が淡々と答える。
王が静かに頷く。
「間もなくだな」
「はい……」
宰相が不安そうに口を開く。
「本当に……、よろしいのでしょうか」
王は短く答える。
「当たり前だ。すべては世界の平和のため……」
「魔王討伐のため」
「そして……」
「平和な世に、《《勇者》》も他種族の英雄も……《《いらない》》」
「もう二度と魔王を復活させないためにも、我々、人間が大陸を治めるのだ」
ドクン……、ドクン……。
魔法陣が怪しく静かに脈打った。
◇
戦場で、ルーテェは肩で息をしながら目前の男を見据えていた。
夜よりも深い黒髪をなびかせ、血の如く赤く輝く双眸で戦場を睥睨する。
漆黒の鎧に身を包み、まるで王座に君臨しているかのような圧倒的な威圧感を纏ってただ一人、戦場の中央に立つ者。――その名は、魔王ヴァルザーク。
そして、二人の視線が交錯した瞬間。
世界は鳴りを潜め、肌を刺すような静寂が空間を凍りつかせた。
「……ようやく、ここまで来たか」
ヴァルザークが笑う。
恐怖ではない。
歓喜だった。
ルーテェは聖剣を構える。
「今日で終わりだ」
ヴァルザークは肩を竦めた。
「そうだな。どちらかが終わる」
ゆっくりと右手を上げる。
闇を纏う大剣が空間から現れた。
魔力が唸る。
大地が軋む。
「手出しは無用だ! 前線の魔族を勇者に近づけるな!」
獣人の頭領が叫び、英雄たちはルーテェとヴァルザークの激突に巻き込まれぬよう、配下を引き連れて間合いを取った。
誰もが理解していた。
ここから先は、人族でも、魔族でもない。
世界最強同士の戦いだと。
ルーテェは静かに息を吸う。
聖剣が黄金色に輝いた。
ヴァルザークが笑みを深くする。
「来い、勇者!」
次の瞬間。
二人は同時に大地を蹴った。
金色と漆黒。
二つの光が激突した。
轟音。
空気が震え、大地が悲鳴を上げる。
剣と剣が噛み合うたび、周囲の地面は砕け、爆風が戦場を薙ぎ払った。
近くにいた兵士たちは、その余波だけで吹き飛ばされる。
誰も踏み込めない。
そこはもはや、人智の戦場ではなかった。
ルーテェは聖剣を振るう。
一閃。
黄金の斬撃が大地を裂く。
ヴァルザークは闇を纏う大剣で受け止めた。
しかし、その足が初めて一歩後ろへ滑る。
「……見事だ」
ヴァルザークが笑う。
ルーテェは息を整えながら答える。
「俺一人の力じゃない」
背後を見る。
傷付きながらも戦い続ける英雄たち。
獣人。
エルフ。
ドワーフ。
「仲間がいたから、ここまで来られた」
ヴァルザークは静かに目を細めた。
「そうか。ならば、その想いごと受け止めようぞ」
魔力が膨れ上がる。
漆黒の炎が大剣へ集束した。
ルーテェも聖剣を構える。
黄金の輝きが空へ伸びる。
二つの力が限界まで高まる。
「終わらせる!」
「来い!」
二人は同時に大地を蹴り、金色の光芒と漆黒の炎が激突した。天が割れ、大地が爆ぜる。誰もが「決着の瞬間」を確信した――その時。
《《ドクン》》。
聖剣が異様に脈打ち、ルーテェの腕から魔力を力任せに貪り始めた。
それだけではない。刃の交わる支点から、ヴァルザークの放った漆黒の魔力までもが、渦を巻いて聖剣へと吸い込まれていく。
「何……ッ!?」
ルーテェの動きが止まる。
聖剣の柄が熱い。
黄金だった輝きが、どす黒く濁っていく。
「何だ……?」
ヴァルザークも眉をひそめた。
「その術……貴様のものではないな」
二人の全魔力を喰らった聖剣が天へ向けて黒い光柱を放ち、それを合図にするかのように、空一面に禍々しい巨大魔法陣が広がった。
幾何学模様。
古代文字。
無数の魔法陣が幾重にも重なり、世界そのものを閉じ込めるように広がっていく。
戦場にいた誰もが戦いを止め、天を仰いだ。
「……何だ、あれは」
将兵の一人が呟く。
エルフの賢者が顔色を変えた。
「何と、禍々しい魔力……」
ドワーフの老戦士が目を見開く。
「あんな魔法陣……見たこともねぇ」
ルーテェは聖剣を見つめる。
黄金はすでに消え失せ、《《黒く濁った光》》だけが天へと流れ続けていた。
「力が……」
抜けていく。いや、奪われている。
ヴァルザークも異変に気付く。
「魔力が消えていくぞ……?」
闇を纏う炎が消えた。
翼を持つ魔族たちが、悲鳴を上げながら空から墜ちる。
エルフたちの魔法陣は音もなく砕け散った。
獣人の肉体を包んでいた闘気が霧のように消える。
ドワーフの武具に刻まれたルーンの輝きが失われた。
魔法陣の下にある、あらゆる魔力が沈黙した。
「何なんだ……。これは……」
ルーテェは聖剣を見る。
「嘘……だろ」
ルーテェの表情から血の気が引く。
そして、空に魔法陣が完成する。
世界が静まり返る。
誰もが空を見上げていた。
次の瞬間、無数の穢れた光の矢が降り注いだ。
雨のように。
流星のように。
戦場に逃げ場などない。
兵士たちは理解する間もなく飲み込まれていく。
「ぐあああぁぁぁ!」
「助け──」
叫び声は闇に消えていく。
エルフが倒れる。
獣人が倒れる。
ドワーフが倒れる。
魔族も。
区別なく。
等しく。
ドス黒い光が命を奪っていく。
ルーテェは震える手で聖剣を見つめた。
黒く濁った光が脈打ち続ける。
柄から腕へ。
腕から天へ。
魔力が吸い上げられていく。
「違う……」
「止まれ……」
握り締めても止まらない。
まるで最初から、この時のためだけに造られていたかのように命令にも応えない。
ルーテェの顔から血の気が引く。
「まさか……」
ヴァルザークは空を見上げる。
巨大な魔法陣。
聖剣から注がれる黒く濁った奔流。
「……クハハッ、ハハハハハッ!!」
突如、戦場に響き渡ったのは、地鳴りのような魔王の笑い声だった。
悲鳴のあがる戦場を見渡し、ヴァルザークの紅蓮の瞳に冷酷な蔑みが宿る。
「なるほど……そういうことか! 魔王を倒すためなら、同胞の血すら惜しまぬか!」
己の足元で倒れ伏す魔族たち、そして無差別に散っていく獣人たちを見下ろし、ヴァルザークは激しい憤怒をのぞかせながら吐き捨てた。
「己の王に背後から刺された気分はどうだ、勇者よ」
「あ……あぁ……」
「見ろ。世界を救うと信じて戦った精鋭たちが、王国の薄汚い野心のために犬死にしていくぞ」
降り注ぐ黒い光の雨を受けながらも、ヴァルザークは一切背を丸めず、ただ堂々と天を仰いだ。その顔には、命を失う恐怖など微塵もない。あるのは、人間という種族への底知れない失望と嘲笑だけだった。
「最後に世界を滅ぼすのは……魔王である私ではなく、貴様ら人間の浅ましさだったか」
ルーテェは目を見開く。
「違うッ!!」
ヴァルザークは続ける。
「その聖剣は《《最初から鍵》》だったのだ。この戦場の魔力を集めるためのな」
ルーテェは聖剣を見つめた。
五年前に、王から授けられたこの聖剣。
出陣の日、賢者が口にした言葉。
『この聖剣は、人類最後の希望です』
国王も言った。
『魔王討伐のため、力を貸してくれ』
その記憶が脳裏をよぎる。
「……まさか」
「王国が……俺たちを騙した……」
「じゃあ、この五年間……」
「俺は……」
「仲間たちの命を、利用したのか……」
「……そんなはずはない!」
ルーテェは必死に声を張り上げた。
「王国は……王は俺たちに世界を託してくれたんだ! この剣は人類の希望だって……!」
「ならば何故、その希望が貴様の魔力だけでなく、倒れゆく味方の魔力まで吸い上げている?」
ヴァルザークの言葉に、ルーテェの手が凍りつく。
柄を通じて伝わってくるのは、温かな祝福などではない。戦場のあらゆる生気を強欲に貪り喰う、歪んだ魔導仕掛けの感触だった。
いくら手を放そうとしても、剥がれない。まるで最初から、この瞬間のために手へあつらえられた呪いのように。
「あ……あぁ……」
否定したかった。間違いだと思いたかった。
だが、手元で重く拍動する黒い光が、容赦なく真実を突きつけてくる。
「じゃあ、俺が信じて歩んできた五年間は……」
隣で戦ってきた仲間の顔が、次々と脳裏をよぎる。
「俺が……仲間を、ここまで連れてきてしまったのか……?」
膝から崩れ落ちそうになるルーテェの視界で、黄金だった聖剣が、ただただ禍々しく濁っていった。そして、魔力を吸い上げ続けていた。
「そんな……」
ルーテェは戦場を見渡す。
倒れていく各部族の将兵たちの悲鳴。
敵も味方も関係なく光に呑まれていく。
ルーテェは震える声で呟く。
「俺の命なら、くれてやる……」
「……仲間の命だけは助けてくれ……」
だが、黒き光の矢は止まらない。
英雄たちが次々に倒れていく。
ルーテェは叫ぶ。
「この五年間は何だったんだ!」
「あれだけの命が散ったんだぞ!」
「もう少しで、この大戦は終わった……」
そして、空を見上げる。
「俺は……」
「世界を救うために剣を握った」
「仲間を守るために戦ってきた」
「それなのに……。俺は、……守れなかった」
ルーテェは手元を見る。
聖剣は禍々しく脈打ち、今も魔力を吸い上げている。
「もう……」
「勇者を名乗る資格なんて、ない……」
「違うな」
ヴァルザークは静かに首を振る。
「勇者よ」
「貴様もまた、盤上の駒だったのだ」
そして、無数の光が二人へ降り注ぐ。




