第19話 【獣人編】獅子族と領主の決断
王城都市バルレオニスの北。
見渡す限りの広大な草原に、人間軍が強固な陣を敷いていた。
整然と隊列を組む兵士たちの手には、陽光を鈍く弾く魔道銃が握られている。
「獅子族の都市より、人影を確認しました!」
兵士が鋭く叫んだ。
「準備をしろ!」
「はっ!」
兵士たちが動く。
緊迫する陣中を泰然と歩く一人の男がいた。
ベイル・ヴァン・トルト公爵。
広大なトルト領の領主であり、この南方遠征軍を率いる最高指揮官であった。
その背後を、苦渋の表情を浮かべた初老の男が追う。
ギベルト・ド・ラングドック男爵。
この南方の地に詳しく、これまで幾度もベイルへ助言を与えてきた人物だ。
「トルト公爵……」
ギベルトは申し訳なさそうに、沈んだ声で口を開いた。
「このような、取り返しのつかぬ事態を招いてしまい……真に申し訳ございません」
「気にするな、ギベルト」
ベイルは前を向いたまま、低く短い声で応じた。
「お前はよく職務を果たしている。責める理由などない」
しかし――そう答えるベイルの表情は、どこまでも晴れなかった。
この南方の地で、真に何が起きているのか。何がこの狂った戦を引き起こしているのかを、ベイルはすでに知っている。
ことの始まりは、一ヶ月ほど前に遡る。
人間の国で、王座がすげ変わったのだ。前王ルードヴィヒが退位し、新王レーヴェルが王位を継承した。
それと同時に、国の方針は百八十度転換した。
獣人族との共存、交易による発展、互いの主権の尊重――それまでベイルが心血を注いで進めてきた融和政策は、ことごとく否定され始めた。代わりに新王が掲げたのは、力による徹底的な支配。
そして、その覇道を最も忠実に、残虐に実行している男がいた。
インラルト・フォン・ベルンシュタイン。
新王の後ろ盾を笠に着て、ベイルの管轄であるトルト領内で勝手に軍を動かしている傲慢な男だ。
ベイルはその暴挙を知らなかったわけではない。むしろ、すべてを把握していた。獣人を不当に捕縛していることも、奴隷として裏で売買していることも、ハプラの地でどれほどの悲劇が起きたのかも。そして――現王レーヴェルとインラルトの間に、おぞましい密約が存在することも。
「……」
ベイルは、手袋に包まれた拳を固く握り締めた。
自身の愛する領地で、自身が最も望まない大戦が始まろうとしている。だが、王命に真っ向から抗えば、公爵としての地位はおろか、領民の命すら危うい。
だからこそ、ベイルはここに立っていた。破滅を回避するための、最後の手段を講じるために。
「来ました」
ギベルトの掠れた呟きが、ベイルを現実へと引き戻した。
地平線の向こう、青々とした草原を割るようにして、獅子族の一団が近づいてくる。
「獅子族の王子……でしょうか」
「そうだろう」
ベイルは眩しそうに目を細めた。
「グス王子だ」
ベイルは断言し、視線を戻した。
「行こう、ギベルト」
「はい」
二人は、獅子族を迎えるために用意された交渉の席へ向かった。
やがて、人間軍の鋭い視線が突き刺さる中、兵士たちの間に設けられた道をグスたちが真っ直ぐに進んでくる。
並び立つ兵士たちは魔道銃を手に、グスたちを見つめていた。銃口は向けられていないが、武装した兵士たちに囲まれた状況が、重い圧力となって一行にのしかかる。
張り詰めた空気のなか、琥珀が眉をひそめた。
「フェルディル」
「はい?」
「これは……罠トか?」
フェルディルは微笑んだ。
「さぁ、どうでしょうね」
ルシェは何も言わない。
やがて、一行は人間軍が用意した長机の前へ通された。ルシェは足を止め、背負っていた重厚な木棺をゆっくりと地面へ降ろした。
長机の向こうには、すでに二人の男――ベイルとギベルトが座っていた。
勧められるまま、グスたちも向かいの席へ腰を下ろす。
草原には不釣り合いなほど豪華な漆黒の机だった。
その周囲を、人間兵が取り囲んでいる。
魔道銃を手に。
一定の距離を保ちながら。
グスは改めて周囲を見渡した。
「……」
罠。
その可能性は消えない。
だが――向かいに座った男は、しばらくグスを見つめたあと、ゆっくりと立ち上がった。
瞬時に緊張が走る。周囲を取り囲む兵士たちの空気もピンと張り詰めた。
「まず、名乗らせてもらおう」
男は胸に手を当てる。
「私は、トルト領領主――ベイル・ヴァン・トルト」
静かだが、草原の風を突く重い声だった。ベイルは一度深く息を吸い込むと、視線を偽りなくグスの目に重ねる。
「これまでの人間軍の愚行――」
言葉を切ると、ベイルはそのまま深々と腰を折った。
「――大変、申し訳なかった」
それに合わせるように、傍らのギベルトも硬い表情のまま深く頭を下げた。
「……!?」
琥珀は目を丸くした。
「何ト……?」
人間。
それも、どう見ても身分の高い男が――。
獅子族の王子に頭を下げている。
理解が追いつかなかった。
「……何のつもりガ?」
グスの声には、警戒が滲んでいた。
ベイルは頭を下げたまま答える。
「まずは、謝罪をさせてほしい」
グスの眉が僅かに動く。
「ハプラの襲撃。そして――そこで命を落とした、グラ王子のことを」
「……!」
グスの瞳が鋭くなる。
握り締めた拳が、僅かに震えていた。
「ふざけんなガァ!そうやって十年前も、甘い言葉でワレら獅子族を騙したガゥ!」
グスは怒り、今にもベイルに飛び掛かる勢いで立ち上がる。
公爵を護るため、周囲に控えていた私兵たちが一斉に魔道銃を構えた。
「不味いト」
琥珀も立ち上がり戦闘態勢をとる。
その時、ベイルが勢い良く立ち上がった。
「銃を下せ!」
ベイルの大声が兵士たちを一喝した。
主君への咄嗟の忠義で引き金に指をかけていた兵士たちは、その絶対的な一撃に圧されるようにして、戸惑いながらも素早く銃口を下ろした。
ベイルは一息つくと、グスへ向き直り、深く頭を下げた。
「すまない。私の兵が失礼をした」
そして、ゆっくりと頭を上げると、真摯な眼差しを重ねる。
「そして、貴方の言う通りだグス王子。十年前、当時、貴方はまだ若かったが……立派になられたな。私がいくら誠意を口にしようと、裏切りを重ねてきた人間を信じられないのは当然のことだ」
ベイルはゆっくりと頭を上げた。
「謝罪をしたところで、失われた命が戻らないことは分かっている」
その表情に、偽りのない苦悩が浮かんでいた。
「それでも……まず、貴方に伝えなければならないと思った」
「……」
グスはベイルを見つめる。
怒りは消えない。
警戒も消えない。
それでも――。
目の前の男が、自分たちをただ騙そうとしているだけなのか。
その判断は、まだつかなかった。
ベイルは視線を逸らさなかった。
「私は、貴方たちと戦いたいわけではない」
「何を言っているガ」
グスの声が低くなる。
「人間軍は、ワレらの街を襲ったガ」
「分かっている」
ベイルはグスをまっすぐ見つめた。
「だからこそ、ここで止めたい」
しばしの沈黙。
「……一ヶ月前」
ベイルが口を開いた。
「王が変わった」
グスは黙って聞いている。
「前王ルードヴィヒ陛下は、獣人族との共存を望まれていた」
ベイルの声には、僅かな懐かしさがあった。
「私も、その考えのもとで、この地を治めてきた」
「……」
「だが、今の王は違う」
ベイルは苦しそうに息を吐いた。
「獣人族を対等な相手としてではなく、力で従わせる道を選んだ」
「そして――」
拳を握る。
「そして、その王の後ろ盾を得て、私の領地で好き勝手に軍を動かしている男がいる」
「……誰ガ?」
「インラルト・フォン・ベルンシュタイン」
「インラルトは獣人を捕らえ、奴隷として売っている」
琥珀の表情が変わった。
「……」
「ヌシら……」
グスは強く拳を握った。
「それを私は知っていた」
ベイルは言い切った。
グスの目が細くなる。
「ならば――なぜ止めなかったガァ!」
ベイルは答えなかった。
しばらくして。
「……止めようとした」
低い声。
「だが、王が認めた軍を、一領主である私が止めれば――」
ベイルは苦笑した。
「王への反逆になる。民を守れない」
「……」
「だから私は、別の方法で止める」
ベイルは腰に差していた剣へ手を伸ばした。
鞘ごと外す。
そして。
テーブルの上へ置いた。
カタン。
小さな音が響いた。
「私を人質に取れ」
「……!」
琥珀が息を呑む。グスも目を見開いた。
周囲の兵士たちがざわめくなか、ベイルは無防備な両手をグスへ差し出す。
「前線の人間軍を率いているインラルトは、私の統治下にある貴族だ。私が貴殿らの手に落ちたと知れば、彼らは全軍を撤退させざるを得ない。私の命にも、まだ利用価値があるはずだ」
静寂が包む。
グスは動けない。
怒り、疑念、そして深い戸惑い――様々な感情がその顔に渦巻いていた。
その時、それまで静観していたルシェがゆっくりと立ち上がった。
「……とめる」
短くつぶやかれた言葉に、全員の視線が集まる。
続いてフェルディルも立ち上がり、柔らかく微笑んだ。
「よろしいでしょうか、グス殿下」
「……フェルディル殿?」
戸惑うグスを制し、フェルディルはベイルに向き直る。
「その申し出、受けさせていただきます――トルト公爵」
ベイルの目が僅かに見開かれる。
「ただし」
フェルディルは、隣のルシェへ一度だけ視線を向けた。
「ルシェ様のお考えは、少し違います」
「……違う?」
「はい」
フェルディルは静かに頷く。
「私たちは、あなたを盾にして人間軍を退かせる……それだけで終わらせるつもりはありません」
「……何?」
その視線が、北方へ向く。
「この戦そのものを、止めます」
「――では、参りましょうか」
草原に、再び張り詰めた緊張が走った。




