第13話 【獣人編】虎族の鉄則
「……とめる」
ルシェは背負っていた木棺へ手を掛けた。
留め具を外す。
重い蓋が開く。
中から取り出したのは、一本の楽器――コントラバス。
ルシェはそれを地面へ立てると、静かに弓を構えた。
その間にも。
「やれー!」
「虎鉄ぇぇぇ!」
「斬虎! 負けんなト!」
「やれー! やれー!」
歓声が闘技場を揺らしている。
虎鉄は右腕を垂らしたまま、左手の爪を立てていた。
斬虎も腹部から血を流しながら、二本の剣を構えている。
互いに、相手しか見えていない。
虎鉄の足元には二人の長が、自らの血の中に倒れていた。
動かない。
誰もが戦いの狂気に飲まれていた。
自分たちが何のために戦っていたのかさえ見失い。
決闘は死闘に代わっていた。
ルシェが弓を弦へ触れさせた。
「ギィィィ――」
低い音が響いた。
ルシェの弓が動く。
低く。
深く。
旋律が生まれる。
それは歓声を掻き消すほど大きな音ではなかった。
それでも、不思議なほど、よく聞こえた。
一人の獣人の耳が動く。
「……何ト?」
また一人。
「音……?」
歓声が僅かに小さくなる。
血に染まった地面。
その中に倒れ、動かない長たち。
千切れかけた右腕を垂らす虎鉄。
腹部から血を流しながら、それでも剣を構える斬虎。
「……何を、やってるト……?」
その声は小さかった。
だが、その一言を境にするように、歓声が一つ、また一つと消えていった。
旋律は続く。
ゆっくりと、闘技場を包み込むように。
虎鉄の拳が止まった。
斬虎の剣も、虎鉄の顔のすぐ横で止まっている。
「……何を……」
虎鉄が荒い息を吐く。
(オレが……やったト……)
斬虎も自分の刃についた血をみる。
(虎鉄の血……)
そして、自分の腹からも、血が流れ続けている。
「……虎鉄」
斬虎の声が震えた。
旋律が響いている。
虎鉄は周囲を見る。
そして、ようやく気付いた。
足元に一人の長が倒れている。
その少し先にも、もう一人。
動かない。
虎鉄が近づこうとする。
しかし右腕が動かない。
見ると自分の右腕が、僅かな肉と皮だけで繋がっていた。
「これは……なんだ……」
痛みはあったが、気にも留めていなかった。
「オトー!」
琥珀の声、虎鉄が振り返る。
観客席の最前列。
十二歳の娘が泣いていた。
「もうやめてー!」
その一言が、今ははっきりと聞こえた。
「琥珀……」
虎鉄の左手から力が抜ける。
爪が戻る。
斬虎も二本の剣を落とした。
乾いた音が響く。
「虎鉄……」
斬虎は、自分が斬り裂いた虎鉄の右腕を見つめた。
「すまなん……」
声が震える。
「オレは……」
勝ちたかった。
まだ族長でいたかった。
若い虎鉄に負けたくなかった。
虎鉄も何も言えなかった。
その思いは虎鉄も同じだった。
勝ちたかった。
斬虎を越えたかった。
だから、相手が一線を越えた瞬間。
自分も、同じ場所へ踏み込んだ。
虎鉄は足元に倒れている長を見る。
動かない。
「……オレが……殺したト?」
旋律だけが、静かに響いていた。
◇
果てのない海。
どこまでも続く黒い水面に、小さな舟が浮かんでいる。
その上にはルシェと、二人の男がいた。
「我は獣人族の戦い方は、好きだがな」
魔王ヴァルザークが腕を組んでいる。
「強者へ挑む。勝てぬと分かれば退く。己の力を理解し、生き残ることを恥としない」
僅かに口角を上げる。
「悪くない……」
向かいに座るルーテェは、何も答えない。
「お前もそう思うだろう?」
しばらく。
波の音だけが続いた。
やがて。
ルーテェが口を開く。
「……戦い方ではない」
ヴァルザークが眉を上げる。
「その戦いに意味がないんだ」
ルーテェは静かに海を見つめていた。
「強さを競うためだった」
波が小舟を揺らす。
「次の族長を決めるためだった」
「それは、仲間を殺すためじゃない」
ヴァルザークは何も言わなかった。
ただ小さく笑った。
「ふんっ。……勇者らしいな」
◇
旋律が変わった。
それまで闘技場を包んでいた静かな音に、柔らかな響きが重なっていく。
虎鉄が顔を上げる。
「……?」
右腕が。温かい。
「なっ……」
裂けた肉が繋がっていく。
血が止まり。
傷口が塞がり。
垂れ下がっていた右腕が、ゆっくりと元の位置へ戻っていく。
「オトーの腕が……!」
琥珀が目を見開く。
虎鉄は恐る恐る右手を動かした。
指が動く。握る。開く。
「これは……」
斬虎も自分の腹部を見る。
深く裂かれていた傷が塞がっていく。
流れていた血が止まり。
やがて。
傷跡すら消えていった。
「そんな……」
観客たちがざわめき始める。
その時。
「う……」
小さな声に虎鉄が振り返る。
血の中に倒れていた一人の長の指が動いた。
「おい!」
虎鉄が駆け寄る。
男がゆっくりと目を開く。
「……ここは……」
困惑した顔。
何が起きたのか分からない様子だった。
「生きているト……」
観客席から、どよめきが起こった。
「生き返った……?」
「生き返りません!」
獣人たちが一斉に振り返る。
ルシェの隣にフェルディルが静かに立っていた。
「まだ、命が残っていたのです」
そして、もう一人を見る。
虎鉄も、その視線を追った。
もう一人の長は動かない。
旋律は、その者にも届いていた。
虎鉄が近づく。
膝をついて肩へ触れる。
「おい……」
返事はなかった。
助からなかった。
だが、その顔を見て虎鉄は僅かに目を見開いた。
穏やかな顔。
血にまみれで、決闘の中で命を落としたというのに。
苦しみも。
恐怖も。
その表情には残っていない。
まるで。
静かな眠りについたようだった。
旋律が。
ゆっくりと終わっていく。
最後の音が消える。
観客席に深緑のローブを纏った旅人が立っている。
風が吹いた。
フードが、僅かに後ろへずれる。
黒曜の骨格が現れる。
眼窩の奥に灯る光。
観客席がざわめく。
「アンデッド……?」
「骸骨……」
「何者……」
ルシェは何も答えない。
コントラバスを静かに木棺へ収める。
虎鉄が立ち上がった。
「待つト!」
ルシェが振り返る。
虎鉄は自分の右腕を見る。
そして。
亡くなった長を見る。
何を言えばいいのか分からなかった。
虎鉄は、深く頭を下げた。
「ありがとう……」
斬虎も、その隣で頭を下げた。
やがて。
一人。
また一人。
観客席にいた虎族たちも、静かに頭を下げていった。
◇
十年後。
「そうでありましたな、虎鉄殿」
フェルディルが懐かしそうに笑った。
「以前は族長を決める決闘で、大変なことになっておりましたな」
「はははっ!」
虎鉄は豪快に笑う。
「オレも若かったト」
そして右腕を見た。
「ルシェがいなかったら、オレはこの腕を失っていたト。それだけじゃないト」
虎鉄から笑みが消える。
「あのまま続けていたら、虎族のそのものがなくなっていたかもしれんト」
虎鉄はルシェへ向き直った。
「虎族を代表して、改めて礼を言うト」
深く頭を下げる。
ルシェはしばらく虎鉄へ顔を向けていた。
「……ほどほど」
「は?」
虎鉄が顔を上げる。
フェルディルが小さく笑った。
「戦うのも、ほどほどに、と仰っているのでしょう」
「はははっ!」
虎鉄は右手で頭を掻く。
「耳が痛いト!」
「ですが、その後はいかがなのです?」
フェルディルが尋ねる。
「族長を決める方法を変えたのでしょうか」
「いや」
虎鉄は首を振った。
「決闘は今も続いとるト」
フェルディルが僅かに眉を上げる。
「ただ、三つの鉄則を作ったト」
虎鉄はそう言うと、太い人差し指を一本立てた。
「一つ。降参した者への攻撃は禁止ト」
続いて、中指を立てる。
「二つ。致命傷になる攻撃は禁止ト」
そして、三本目の指を立てた。
「三つ」
虎鉄は少しだけ表情を引き締める。
「相手を殺した者は、敗者ト」
虎鉄は三本の指を立てたまま笑った。
「……オレたちは、また強くなってきたト」
握った拳を、自分の胸へ軽く当てる。
「だからこそ、強さを競うにも決まりがいるト」
虎鉄は笑った。
「ええ。その方が良いのでしょう」
フェルディルも笑う。
「今もオヤジが一番強いト!」
そこへ琥珀が割って入り、嬉しそうに胸を張った。
「それは何よりですね、琥珀」
フェルディルは微笑む。
「十年前と変わらず、父上が自慢なのですね」
「当然ト!」
琥珀はさらに胸を張る。
「ウチのオヤジト!」
「はははっ!」
虎鉄が大声で笑った。
「それに、この腕があるからこそ、今のオレがおるト」
虎鉄は右拳を握る。
「だから、族長にもなれたト」
そして。
ルシェへもう一度、頭を下げた。
フェルディルはその様子を穏やかに見ていたが、やがて表情を改めた。
「それでは、虎鉄殿」
琥珀を見る。
「我々を探していた理由を、お聞きしても?」
「ああ」
虎鉄の表情から笑みが消えた。
「そのことだったト」
周囲の空気が変わる。
虎鉄は草原の北へ視線を向けた。
「獅子族ト!」
「獅子族?」
「ヤツらが、オレたちの土地を奪いに来たト」
フェルディルの目が細くなる。
「それだけじゃないト」
虎鉄は低い声で続けた。
「虎族は獅子族の軍門に下れと、言ってきたト」
「……なるほど」
フェルディルは少し考える。
「それは、いつ頃の話ですか?」
「最初に使いが来たのは一ヶ月ほど前ト。それから何度か話し合った。だが、向こうは引く気がないト」
「戦闘は?」
「まだ大きな戦いにはなっておらんト」
虎鉄は拳を握った。
「だが、このままだと時間の問題ト」
フェルディルはしばらく黙っていた。
そして。
「人間軍が絡んでいるやもしれませんね」
虎鉄の耳が動いた。
「人間軍?」
琥珀もフェルディルを見る。
「それは、どういうことト?」
「私たちがここへ来るまでに得た情報ですが」
フェルディルは北の荒野の先へ視線を向けた。
「現在、人間は大陸南部へ少しずつ勢力を広げています」
「何ト……?」
「獣人族が暮らす、この土地へもです」
虎鉄の顔が険しくなる。
「これは、獣人族に昔から伝わってる言葉ト」
低い声。
「人間を信用すんじゃないト」
百年前。
大戦の最後に起きたこと。
獣人族の強者たちが失われた、あの日。
その記憶は、当時を知る者がいなくなっても。
言葉となって残っていた。
「獅子族は、人間と手を組んだト?」
「そこまでは分かりません」
フェルディルは首を振る。
「獅子族と人間の関係について、私たちも把握していません」
そして、ルシェを見る。
「ですから」
ルシェもフェルディルへ顔を向ける。
「まずは、私たちの目で確かめてみましょう」
虎鉄が頷いた。
「頼めるト?」
「ええ」
「それなら」
虎鉄が琥珀を見る。
「琥珀も連れていってくれんト」
「ウチ?」
「そうト」
虎鉄は娘を見る。
「コイツは女だから、族長にはなれんト」
琥珀は黙って聞いている。
「だが」
虎鉄は笑った。
「戦いのセンスだけなら、オレ以上かもしれんト」
「当然ト!」
琥珀が胸を張る。
「そこは謙遜するところではありませんか?」
フェルディルが苦笑する。
「任せろト!」
琥珀は嬉しそうに笑った。
虎鉄は、そんな娘を見つめる。
「琥珀」
「何ト?」
「世の中は、強いだけじゃ駄目ト」
琥珀の耳が僅かに動く。
「ルシェとフェルディルについて行くト」
虎鉄は草原の向こうへ目を向けた。
「そして、もっと世界を見るト」
琥珀は父を見つめた。
「……分かったト」
ルシェは静かに立ち上がり、木棺を背負う。
フェルディルも立ち上がる。
琥珀は二本の短剣を確かめた。
行き先は。
獅子族の地。
この時、琥珀はまだ知らなかった。
父に言われて始まったこの旅が。
百年前から続く世界の姿を知る旅になることを。




