第23話 ねえ、悪霊が精霊ってどうおもう?
キャラバンサライはホテルや旅館のようなものではなく、大部屋に暖房と調理場を兼ねた石の炉があり、そこで食事を摂って炉の周りで雑魚寝する。古民家の囲炉裏の部屋のようなもの。1階はヤクなどの家畜小屋で2階が人間の食堂兼雑魚寝部屋。
大部屋には召喚者パーティ以外にも行商人と思わしきおじさんが三人泊まっていた。その人間たちの熱もまた暖房だった。
皆が寝静まっている深夜、白井はふと目を覚ます。
吹き付ける風の音に混じって女の泣き声が聞こえる。青山かと思い隣を見ると、彼女はスースー寝ていた。宿に女将さんはいないし、いま着いた旅行者だろうか。
白井は泣き声の主が心配ではあったが一人で様子を見に行くのは怖かったので緑川を起こす。小声で名前を呼び肩を揺すると「どうしたんですか…」と心底迷惑そうに言って緑川は目を覚ました。
事情を説明すると耳を澄ませて「確かに聞こえますね」と緑川は武器を装備するよう白井に促す。緑川は槍を持ったが白井は腰刀ではなく硬いパンを2つ持つ。
二人で階下に降りて外に出ると、月明かりに照らされた薄気味の悪い人影を目にする。
赤く長い髪の女が鋭く長い爪を顔の前で交差させ、地面に座って泣き声を上げているが、よく聞けば泣き声風の唸り声にしか聞こえない。
「あのう」と白井が声を掛けるも女は反応しない。
「白井さんまずいです。その女は人間じゃない!崖に引き込まれます!」
緑川がそう叫ぶと女は立上り、白井に掴みかかろうとしてきた。
咄嗟に白井は手にしたカチコチのパンを女の顔目掛けて押し付けると、女は上手に長い牙を使ってパンを咥えた。そしてゴリッという鈍い音を立てて石のようなパンを噛み砕く。
「うおおお!お、お、お、おまえ…す、す、すげえな!」
白井は恐れ慄きながらあの鈍器のようなパンを噛み砕いだ女の咬合力を褒めた。
賞賛が通じたのか女はキヒヒと笑って牙をカチカチと鳴らした。
「そんなこと言ってる場合じゃないですよ!」と緑川が近づこうとする女を槍で牽制する。女は華麗なスウェーバックで槍を避けるが二人には近づけない。
そうこうしているうちに、白井の叫び声で目を覚ました青山や、宿の主人、赤の他人である旅のおじさんたちが駆け下りて来た。
すると女の姿を目撃した主人とおじさんたちが「やめろやめろ」と言い出した。
白井が何を止めるように言っているのか尋ねると、その女は大地の精霊だと言う。
―――いや、じゃあなんで襲ってくるんだよ。性質が悪すぎるだろ…
困惑する白井の隣で青山が女に向かって牙を剥いたポメ化していた。
「なんか大地の精霊だから攻撃するなっておじさんたちが言ってるんですけど」
「確かにあれは精霊だとか大地の母のような伝承がありますが、だからといって崖に引きずり込まれたくはないでしょう」
緑川は槍をびゅっびゅっと突き出すのを止めない。だがそれが一向に当たらないので、緑川とおじさんたちの思惑はひとまず合致している。
―――宿に逃げようにも背を向けた瞬間に一気に掴まれそうだし…
逡巡する白井の脳裏に言葉が浮かび、ほぼ無意識にそれを口にする。
「オン・マニ・ペメ・フム」
すると女の動きが止まる。
合点がいったように緑川は槍の手を止め復唱する。女は苦しそうに顔をゆがめる。
その様子を見て青山も、あわあわして足を引っ張るだけのゾンビ映画で真っ先に食われるポジションのご主人も旅人たちも復唱する。
7人の合唱がしばらく続くと女は霧となって散っていった。
2階に上がりさっきの女がなんだったのか皆で炉を囲んで話をする。
ご主人や旅人たちの弁明は、女は魔女でありこの地の母であるとのことだった。あの女と猿から生まれた子の子孫が我々だと。あれは大地のエネルギーそのものだと。
だから傷つけると災いがあるから攻撃するなと言っていたらしい。
続いて緑川解説員の話。あの女は「シンモ」という存在で、だいたいおじさんたちの話で合っているという。良し悪しはともかく畏怖される存在なのだそうだ。
そして白井が口にした言葉。あれは『マニ・マントラ』と言って観音菩薩の真言とされ短いその言葉は宇宙の理なのだそうだ。昔からそれを唱えることで悪霊払いや魔除けになるとされていて、あちこちの仏塔に刻まれているものだという。
―――あのソフトクリームみたいな石の足元にあったのは魔除けだったのか。
翌朝の出発前、白井は石パンの表面に腰刀の切っ先でマニ・マントラを彫って、キャラバンサライの入口の脇にそっと置いた。
「オン・マニ・ペメ・フム」とカタカナで彫られたパンにどれほどの効力があるのかわからないが、宿の主人は両手を合わせ有難がっていた。
一行はこの日もゆっくりとスロープを下り、午前中のうちに絶壁のスロープを下りきり川沿いの石畳の道に出る。荒涼とした高山からいきなり熱帯に風景が変わる。
どうどうと流れる川沿いの道をゆっくりゆっくり進む一向は昼を少し過ぎたあたりでチベットとネパールの物流の中継地であるタトパニの街に到着する。
緑川の話ではこの街は「天国」だということだったが、そればかりでもなかった。




