第15話 ねえ、存在の意義ってどうおもう?
なにか温かい感触を頭に感じて白井が目を覚ますと、青山に頭を撫でられていた。
「えっ」と驚くと「おはようございます。ってもうお昼だよ?」と彼女は笑った。
白井はまずい!と思って飛び起きようとしたがズキンと頭痛があって、もう一度横になった。夕食を摂らず栄養摂取できなかったのが原因か、回復しきれてなかった。
「…緑川さんは?」と尋ねると「買い出しに行ってますよ」とのこと。
「すみません…」白井はそう言って目を瞑った。青山が至近距離すぎて見ていられないほど照れていたからだった。
「また後で様子見に来ますね。しっかり休んでください」そう言って青山は部屋を出ていった。白井の鼓動が早くなればこめかみの痛みも早くなる。―――参ったな…
しばらくして緑川が白井の元へ様子を見に来る。
「具合どうですか?」
「すみません、今夜寝れば明日の朝には」
「起き上がれるようになったら、体力のつくものを食べに行きましょう」
「ありがとう…ございます…」
白井は鼻の奥がツンとするのを感じ必死で涙を堪えた。―――不甲斐ない。
「別に期限が決まっているわけじゃないから。僕だってきょう休みで助かりました」
「でも、買い出し…言葉がわからないじゃないですか」
「あはは、そうですね。ジェスチャーでなんとかなっちゃいましたね」
そう言って緑川は高山病の予防薬だという赤い粉を白井に見せた。
その瞬間、白井は得も言われぬ恐怖に包まれた。それは魔獣より過酷な環境より、彼にとってもっと根源的な恐怖だった。自分の価値が失われる恐怖。
この世界で緑川と青山の二人にとって通訳として『いなくてはならない存在』だと思っていた自分が、別にいなくてもいいと言われたような冷たい感覚があった。
自身の存在が空っぽになり身体の感覚をどこか遠くに感じる。だが彼は内心抗っていた。その証拠に涙が止めどなく溢れてくる。
「また、そんな顔して。役立たずだとか用なしだとか心配したんでしょう?そんなわけないじゃないですか。加護だとかそんなの抜きにして、僕は君と、君たちと一緒に帰りたいと思ってますよ。僕たちはもう旅の仲間なんですから」
そう言った緑川の顔は滲んでよく見えず、白井は遂に嗚咽を漏らして泣き始めた。
ほんの少し後、部屋に青山がやってきて「あー!なにしてるんですか!」と緑川を責めた。「いやいや、責めたりしてないですよ」と緑川は弁明する。
ひとしきり泣いたことで憑き物が落ちたように白井は心身共に回復した。
夜は三人でスタミナ増強になる牛肉湯鍋を食べた。唐辛子と生姜、大蒜、山椒が入った鍋は辛くて美味しかった。血の巡りが良くなるのを感じた。少し臭うけど。
「そして君はこれも」緑川が白井に差し出したのは昼間に買っていた高山病の予防薬である紅景天という生薬のスープだった。
「うぐぇ…にげぇ…」土の匂いのする苦いスープに白井は顔をしかめたが、体調不良で迷惑をかけるわけにもいかないと、がんばって全部飲み干した。
「これでもう大丈夫そうですね!」と青山は安心したような笑顔を彼に向けた。
「みなさん、ごめん…いや、ありがとう。明日からも足を引っ張るかもしれないけれど、なるべくそうならないように気を付けます。本当に二人に会えてよかったです」
「そういうはのまだ早いですよ。この先だって全員で倒れることもあると思います。そうならないように助け合っていきましょう」
「はい。わたし若いからか割と平気なので。えへへ」
宿に戻り三人で「また明日」と約束をしてそれぞれの部屋に入った。
翌朝、三人で顔を合わせたとき白井はなんだか照れ臭かった。
「もう泣きませんから」と自分に言い聞かせるように二人に言ってマーボーに荷物を乗せると緑川が「体調はもう良さそうですね。じゃあ乗り換えるので付いてきてください」とだけ言って街の外れのほうへ小型馬で移動し始める。
着いた先は厩舎で、牛?がたくさん小屋の中に並んでいる。
「この先は、小型馬じゃ無理なのでこれに乗り換えます」
「えー!この牛に!?大きいなー!登るのに力がいるってことですか?」
「これはヤクといいます。標高が3000mを越えたら小型馬は肺がもたないので」
白井はヤク売りのおじさんに話をつけ、四川馬を売ってヤクを三頭買い付けた。
荷物をヤクに乗せ換えると「よろしくね!モーロン!」と青山が命名する。
―――愚か者の次はノロマって…、大学でスラング専攻してるのかな。
白井はヤクの鼻息がブフブフ言っているので「ブッフォン」と名付け、緑川は「ヤク太郎」と名付けていた。
―――麻薬中毒者みたいな名前だって気付いているのかな。
それぞれヤクに跨りカンティンの西門を出て緩やかな上り坂を往く。絶壁は目の前に見えていたが短い区間でも体力を温存するためだった。
しばらく進むと、地獄と呼ぶのも生ぬるい絶望を煮詰めてレンガパンにしたような天を貫く絶壁が現れる。岩壁にはかなりの高さの石段の道が九十九折にある。
「これ、登るんですか?」と白井。
「はい、登るんです」と緑川。
「他に道は?」
「ないです。これしか」
三人が躊躇していると、後ろから荷物を積んだヤクの群れがやってくる。最後尾には羊飼いのように群れを管理する旅の商人らしき男。
ヤクの群れは次々と石段を跳ぶように登っていき、男は最後尾のヤクの尻尾を掌に巻き付けるように掴み、ヤクが跳んだときに引っ張り上げられるような格好で登っていく。―――スイスイ登っていくけど、そんなに簡単なのだろうか…
「じゃあ、行くしかないなら行きますか!」白井は精一杯元気よくそう叫んだ。
三人はヤクの尻尾を掌にぐるっと回すようにして掴んで、石段アタックを開始する。この登攀がとんでもない悲劇をもたらすことも知らずに。




