8話
岩礁の隙間に滑り込んだカズキを襲ったのは、単なる「寒さ」という言葉では形容できない、物理的な圧力だった。
惑星ゼノスの主星である巨大な恒星――その凶暴なまでの熱量が、巻き上がった数億トンの鉄砂によって遮断されたのだ。それは日没という緩やかな変化ではない。高エネルギーの供給源を強引に断ち切られたことで、大気が急速に収縮し、熱を失っていく物理的な世界の死だった。
「(……熱が、奪われる……!)」
先ほどまでの暑さと180度変わり、気温は一秒ごとに数度ずつ、目に見える速度で急降下していく。瞬く間にマイナス10度へ。スーツの表面に付着したわずかな水分が瞬時に氷結し、特殊繊維がパキパキと硬化する不気味な音がヘルメット内に響いた。
カズキは、右肩から右腕にかけての感覚が急速に失われていくのを感じていた。砂嵐の激突で、スーツの気密層が数センチにわたって裂けていたのだ。応急処置として貼り付けた気密テープの隙間から、ゼノスの冷気が容赦なく這い込んでくる。
生命維持装置のエアヒーターは、裂け目から逃げる熱を補おうと過負荷状態で唸りを上げ、焦げ付いたオゾンの臭いが循環空気に混じりはじめた。供給される人工酸素こそ温められているが、スーツ全体の保温効率は劇的に低下し、カズキの体温は徐々に、だが確実に奪われていた。
「はぁ、はぁ……ッ、082番、……生きてるか!」
隣に転がった082番のバイザーは、外部の冷気と内側の体温との温度差により、隅の方から白く曇り、薄い霜が降り始めていた。高度文明の誇る環境スーツといえど、このレベルの急速冷却は想定外だ。082番は生命維持装置の警告アラートに怯えるように、膝を抱えて震えていた。
岩陰のわずかな隙間から外を見れば、荒れ狂う砂嵐と地表が凍り付きサンド・リーパーが跋扈する地獄が広がっていた。
数十の磁気シールドが、砂嵐の闇の中で青白く発光している。だが、その光は「生存の証」ではなく、電磁波を捉え、肉を餌とするリーパーたちを呼び寄せる「死の灯火」となっていた。
シールドの中にいる兵士たちのバイザーには『サーバー復旧待ち』の無機質な文字が、ただ無情に点滅し続けている。
本来、この文明の軍隊において、武器の使用権限は兵士にはない。中央サーバーが敵を特定し、弾道を計算し、発射タイミングまで制御する。通信が途絶した今、彼らに残されているのは、システムが辛うじて維持している「マニュアル・バックアップ」という名の、あまりにも脆弱な抵抗手段だけだった。
「……ッ、撃てよ! 何やってんだ!」
カズキは歯を食いしばり、岩陰からその光景を見ていた。
青白いシールドの内側で、一人の兵士が震える手でXM-22の引き金を引く。だが、照準補正も連射制御も失った弾丸は、荒れ狂う鉄砂の壁に押し戻され、闇に潜むリーパーの硬質な甲殻を掠めることすらできない。
その兵士のシールドに、三匹のリーパーが群がった。
カチカチと音を立て、電磁障壁に鋭い爪を立てる捕食者。兵士は、自分を「餌」として見つめる怪物の顎を、わずか数センチの光の壁越しに眺め、震えることしかできなかった。彼らの脳に埋め込まれた同期パッチは、「許可のない行動」をエラーとして処理し、筋肉を金縛りのように硬直させていた。
「188番……。シールドを解いたのは……重大な軍規違反だ。……再接続されれば……我々は……軍事裁判、……矯正施設送りだ……」
082番が、カタカタと歯の根も合わない音を立てながら、なおもシステムの呪縛を口にする。彼の意識は、脳が凍りつきかけていても、未だに「正義」を自分以外の何かに求めていた。軍にとって兵士は貴重な資産だが、それゆえに「勝手な行動」は最も重い罪として定義されている。
「軍事裁判だあ? 笑わせるな、あそこに並んでる連中を見ろ! あいつら、自分が凍りついて食われそうになってるのに、戦う許可が出るまで待つ気だぞ!」
カズキは082番の胸ぐらを掴み、冷たくなったヘルメットを力任せにぶつけた。ゴツン、という鈍い衝撃音が、沈黙したリンカーの代わりに082番の意識を強制的に揺さぶる。
「お前は『道具』か? それとも『兵士』か? 自分の命を守るのに、誰の許可がいるんだよ! 答えろ!」
カズキは、自分のリンカーが発する異常な熱を感じ取っていた。
広域通信は完全に死んでいる。だが、自分のリンカーは周囲の電磁干渉を逆手に取り、極めて限定的な「近接通信」の経路を算出しようとしていた。
「(……磁気シールドが、あいつらの位置をリーパーに教えてる。シールドを解かせて、この岩陰まで引き込むしかない。……だが、無線は届かない)」
カズキは、082番の背後に回った。
「082番、お前のXM-22の通信ポートを貸せ。シンカーをマニュアルの近接通信モードへ切り替え、俺のチップと直結させる」
「そんなこと……システムにない。脳に過負荷がかかる。神経が焼き切れるぞ……」
「ここに座って凍死するのと、どっちがマシか考えろ! 俺のリンカーが、あいつらの受信機に直接『割り込み《インタラプト》』をかける。お前の回路を増幅器に使うぞ!」
カズキは自分リンカーのインターフェースから補助ケーブルを引き抜くと、それを082番の情報端末のポートへ力任せに叩き込んだ。。
「がっ……、あああああぁぁぁ!!!」
一瞬、カズキの視界が真っ白な火花を散らした。
脳を直接、高圧電流で焼かれるような激痛。082番も体をのけぞらせ、叫び声を上げた。二人の脳がリンカーを介して物理的にブリッジされ、膨大なノイズと「生」への渇望が混濁して駆け抜ける。
カズキはその激痛の奔流をねじ伏せ、砂嵐の闇、そして絶望の中にいる兵士たちのバイザーに向かって、システムを介さない「生の声」を叩き込んだ。
「第109期、全員に告ぐ! サーバーを待つな! 自分の命を、誰かに預けるな!」
ノイズの壁に跳ね返され、意識が遠のきそうになりながらも、カズキは喉が焼けるほど叫び続けた。
「今すぐシールドとアンカーを解除しろ! 走れ! 左前方の岩礁だ! そこに『死角』がある! 死にたくないなら、システムを捨てろ! 俺の声に従え!!」
その時だった。
岩陰から最も近い場所にいた一人の兵士の、青白いシールドがパッと消えた。
彼は、一瞬だけ恐怖に立ちすくんだが、背後に迫るリーパーの鎌を紙一重でかわし、四つん這いになってカズキのいる岩陰へと這いずり始めた。
「(……届いた……!)」
一人、また一人。中央からの「復旧通知」ではなく、カズキの剥き出しの「肉声」に反応した兵士たちが、死の檻を脱ぎ捨てて動き出す。同期パッチによる強制的な硬直を、生物としての生存本能が、カズキの声という引き金によって打ち破ったのだ。
5. 指揮官の初陣
だが、リーパーたちも獲物が逃げ出したことを察知した。
闇の中から、さらに巨大な個体が姿を現す。砂嵐の中を、多節の肢で滑るように移動し、岩礁へ向かう兵士たちの背後へ、音もなく迫る。
「082番、撃て! システムのガイドなんか見るな、敵の放つ熱を、殺気を、肌で感じろ!」
カズキは、裂けた右腕の麻痺した感覚を無視し、左手一本でXM-22を保持する。銃身を岩壁に固定し、網膜に浮かぶリンカーの演算――周囲の音と微振動から逆算した「敵の予測位置」を示す、粗い赤い光点だけを信じた。
キィィィィィィィン!!
カズキの放った磁気加速弾が、兵士の背後に迫っていたリーパーの側頭部を粉砕した。青い体液が砂嵐に舞い、瞬間的に凍りついて散る。
「……撃て、撃てぇ!! 仲間を一人も死なせるな!」
カズキの叫びに呼応するように、岩陰に辿り着いた数名の兵士たちが、次々とマニュアル・モードで銃を構え始めた。
中央サーバーの同期を失い、ただの「部品」だった彼らが、一人の「バグ」の指揮によって、初めて自らの意志で引き金を引き始めたのだ。
砂嵐の赤黒い闇を、十数条の青白いマズルフラッシュが切り裂く。
絶対零度の死が迫る地獄で、規律ではなく「生存」を目的とした、原始的な「群れ」としての反撃が、今始まった。




